朱殷



 呂雉に武則天に、西太后。「中国三大悪女の名前を諳んじられるか」と言われてこの三人の名前をあげられない人は、きっとこの中国においてはいないだろう。殊、悪逆非道、傍若無人という言葉を権化したかのようなこの血なまぐさい王国においては。
 私は、部屋中――否、きっと屋敷中に響き渡ったであろうその音≠ノゆっくりと瞳をこじ開けながらも、そんなことを考える。
 以前はその音≠耳にするたびに震えあがっていたものだが、今ではもう随分慣れてしまった。それこそ、目覚まし代わり≠ノすることができる程度には。
 全く、良いのやら、悪いのやら、なんて。ポツリと心中で呟いてから扉の方へと目を見やれば、案の定、そちらの方からは無遠慮なノック音が聞こえてきた。

「王妃(ニュワン)、王のお帰りです」
 彼はくいと顎で合図を送ると、私の部屋へと、控えていたであろう女中を送り込む。言外に主を出迎えろと言っているのだ。
 今の私≠ェ彼を出迎えて、一体何になるのだろうか――そう思えど、歯向かう気力は今の私≠ノはない。私は小さくため息を吐くと、「今行きます」とそう言葉を紡いだ。

 広く手入れの行き届いた廊下は、しかし先ほどまで臥せっていた人間にとってはまるで地下牢のようだ。すっかり暗くなってしまった外の世界とは裏腹に廊下には眩い明かりが灯されているが、どこか薄暗く、薄寒く感じる。どこかひんやりと冷えた毛毯では身体を温めきれない。
 ――どこもかしこも豪華で。明るくて。調度品から毛毯にいたるまで何もかも一級品だけでそろえられているというのに、どこかちぐはぐ。この王国はどこまでも異質だ――私はそんなことを考えながらも、その人≠ェいるであろうそこへと目をやる。

 すると案の定、私の視界には、見慣れた$ヤ黒い血の色が映り込んだ。
 恐らく――というより間違いなく――頻繁に入れ替わる女中の顔より見慣れてしまっているそれに、私はほんの少し顔をしかめる。その程度だ。ほんの少し顔をしかめる=Aその程度で済むくらいに、私の感覚は麻痺しきってしまっていた。だから私はいつも通り、おかえりなさいませ、と平然と言葉を紡ごうとした。まるで機械仕掛けの時計のように。公演のたびに同じセリフを口にし続ける役者のように。

 しかしその声を遮るものが現れた。私は思わず、その降って湧いたイレギュラーにぴたりと言葉を飲む。誰か、まだいる。すでに息絶えているであろう客人≠ニは別に、もう一人客人≠ェ。
 そのことを理解した私はしかしまだかろうじて生きているその客人が何を言っているかは理解できなかった。それはきっと私の耳が悪いせいではない。客人の言葉が要領を得ないせい。あるいは言葉にすらなっていないせいだ。
 客人は、小柄な主人≠ノ比べてわりあい大型だというのに、跪いたまま、萎縮しきってしまっていて。不思議と子供のように小さく見えた。顔どころか全身が真っ青で、身体はカタカタと、面白いくらい震えている。
 客人は言った――「我絶對没背叛」、私は裏切っていない。ようく耳を澄ましたことで、ようやく男の声を聴きとることができた私は、同時、ああと理解する。彼らの言う処刑≠ニやらがまた始まったのか、と。
 「真的」――信じてくれ。男はそう言うが、それが無意味な主張であることはきっと本人が一番知っているはずだ。ちなみに悲しきかな、同率一番はきっと山のようにいる。私だってそのうちの一人だ。疑わしきは罰せず――そんなのは法と一般道徳が適用される世界での話。ここではそのいずれもが通用しない。
 なんて。そんなことを考えていると、もはや目覚まし代わりにもなるほど聞き慣れてしまったその音≠ェ、再度その場に響き渡る。
 ドサ、と何かが地面にぶつかる音がした。

 終わってから呼んでくれればよかったのに。私はその言葉をなんとか飲み込む。それもこの世界においては無意味な主張に違いなかったからだ。
 ここでは、彼≠ェ掟と言っても過言ではない。それに。きっと、これは見せしめ≠ノ違いなかった。先ほどの男がその実本当に裏切っていたかなんてきっと彼にとってはどうでも良いに違いない。彼は――彼らは暗に、言っているのだ。「オマエも王を裏切ればこうなるぞ」と。
 であれば何を言っても無駄だ。考えるまでもなくそれを理解した私は、全て言葉を飲み込む。
 結局、私は飲み込んだ言葉と一緒に、「おかえりなさい」を言う機会を逃してしまったわけだけれど。きっと、彼≠ヘそんなこと気にしないに違いなかった。だって、王の妻≠ネんて名ばかり。彼にとっては所詮私なんて「その程度の存在にすぎない」に違いないのだから。



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