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八木さんがやって来たことにより、状況は好転するかと思いきやそんな生易しい相手ではなかったらしい。2人の様子を見る限り、むしろ八木さんの方が苦戦を強いられるであろうと認めざるを得なかった。

「ここは逃げろ弔。その子たちを連れて」

八木さんがオール・フォー・ワンと呼んだ男の言葉をきっかけに、事態はさらに悪化の一途を辿ることとなる。USJで見た黒いモヤが眼前に広がり、敵達がそこへ私と爆豪くんを引きずり込もうと躍起になっているのだ。戦う術をもたない私は逃げ回ることしか出来ず、とにかく必死に足を動かした。

今のところ捕まらずに済んでいるのは爆豪くんが私を守りながら戦ってくれているからに他ならない。とは言え相手は6人もいるから捕まるのも時間の問題である。私のせいで爆豪くんは逃げることも叶わず、そしてひどく戦い辛そうだった。それは私達を気にしながら戦う八木さんもきっと同じで。

実の所、ここから逃げるための案が一つだけあった。だけどそのタイミングが掴めずにいる。それに爆豪くんを置いて私一人逃げる訳にも行かないし、更にはその案を彼に伝える余裕もなかった。どうすれば上手くいくか必死に頭を働かせる。当然ながらその間も敵達の猛追は緩むこと無く、おかげでまともに頭が回らなかった。

そんな時、突然ドカンッと重たい破壊音が鳴り響いた。敵の攻撃によるものかと思ったが、音のした方から現れたのは空に向かって真っ直ぐに伸びる氷塊。まさか、そう思った次の瞬間、氷塊の先端からまるでスキージャンプのように勢いよく人影が飛び出した。それはよく知った人達のもので。

「来い!」

そう言ってこちらに手を伸ばす切島くん、そして彼を支える緑谷くんと飯田くんの姿がそこにはあった。どうして彼らがここに、なんて考えている場合ではない。咄嗟に爆豪くんの方を見れば、バチリと視線がぶつかった。爆豪くんが判断に迷う前にと慌てて声を振り絞る。

「私は大丈夫!行って!!」

それからすぐ近くにあった瓦礫の山に手をついて、コンクリートを紙へと変化させる。咄嗟にその紙をぐしゃりと握りつぶし、後方へと投げながら再びコンクリートの塊へと戻す。緑谷くんが個性把握テストでやってみせたボール投げと同じ要領で、指先から離れるギリギリのところで個性を発動させたのだ。メディシンボールや野球ボールを使った訓練が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。

後ろで物凄い爆発音が聞こえたのは、きっと爆豪くんの個性によるものだろう。「何ィイイ!!?」聞こえてきた驚きの声に、彼の脱出が成功したであろうことを察する。憶測に過ぎないが、BARでの会話からして敵達の優先度は爆豪くんの方が上のはずだ。だから今頃奴らは爆豪くんに気を取られているに違いない。今のうちに少しでも前にと、一心不乱に瓦礫の山を進み続ける。

そうやって瓦礫を紙にしては戻しを繰り返していると、ようやくその山を抜け出せた。後ろを振り返るとそこには巨大な障壁が出来上がっている。おそらく敵達も簡単には追って来られないはずだ。きっとそうだと信じたい。

「ハァ、ハァ……ッ、――――ッ!」

とは言えまだ安心はできない。少しでもこの場から離れよう、そう思ったところにふっと影がかかる。私の影を簡単に覆い尽くしてしまう程の大きさのそれ。ドクドクと心臓が嫌な音を立てるのを感じながら、恐る恐る振り返る。

「! なんで、こんなとこにも……っ、」

そこには一体の脳無が佇んでいた。よろめきながら一歩後ずされば、先程紙から戻したばかりの瓦礫にぶつかる。また瓦礫の中を逃げる?いや、この距離じゃ逃げようにも間に合わない。なによりこの瓦礫の向こうには敵達がいる。頭の中はショートしそうな程ぐるぐる動いているのに、最適解は一向に見つからずただ呆然と脳無を見上げることしかできなかった。

「ギイィィアアアッ」

脳無が奇声を上げ、間近でそれを浴びたせいでびりびりと皮膚が痺れた。耳をつんざくようなその声に鼓膜が破れてしまいそうだ。どうしよう、どうしよう、頭に浮かぶのはそんな言葉ばかりで何の役にも立たない。

「いやあぁあッ!!」

ついには脳無の巨大な手によって身体を鷲掴まれてしまった。途端、私の上半身をぐるりと一周したそれに物凄い力で締め付けられて、ぎしぎしと身体が悲鳴を上げる。唯一拘束を逃れた右腕で必死に抗って、脳無の手をがりがりと掻きむしるものの、そんな抵抗は何の意味も成さなかった。涙がボロボロ溢れてきて呼吸もままならない。昨日から何度も逃れてきたはずの死がついに目前に迫っていた。

――――しかし、そこでふっと圧迫感が消え失せる。

突然地面に打ち付けられ、ドンッという音と共に鋭い痛みが走る。酷く締め付けられていた余韻でびりびりと全身が痺れ、這いつくばったままゲホゲホと濁った咳を繰り返す。早く逃げなきゃ、だけど身体が言うことを聞かない。脳無は何故突然攻撃を辞めたのか。USJの時と同じように、八木さんが敵に勝ったからなのか。しかし瓦礫の向こうからは未だ激しい戦いの音が聞こえてくる。

「ゲホッ、ハァッ、ハァッ……」

なんとか顔を上げて脳無を見上げる――――はずだった。すぐ目の前にいたはずの脳無は忽然と姿を消していた。

「なん、で……ケホッ」

辺りを見回してもその姿はない。またヘドロでどこかに飛ばされたのだろうか。だけどあの鼻がひん曲がるような悪臭はしなかった。訳も分からず混乱していると再び激しい咳に襲われた。またもや地面と睨めっこして、しきりに胸から喉へと突き上げてくる衝撃に耐える。

(……あれは、)

ようやく咳が落ち着いた頃、視界の端に一枚の紙切れが見えた。これまで何度も見てきた、B6サイズの真っ白なそれ。その意味を理解すると同時に、頭を殴られたような衝撃が走る。

「あ、あ、……ひ、」

ひゅっ、喉の奥が変な音を立てて、そこから上手く息が出来なくなった。胃の辺りが痙攣して、引きつったような呼吸を繰り返す。

落ち着け。私がやったの?深呼吸して。生き物は紙にできないはずなのに。ゆっくり息を吐いて。死んだ?いやまた解除すれば元に戻るはず。本当に?頭がくらくらする。気持ち悪い。苦しい。早く逃げなきゃ、敵が追ってくる。身体が痛い。もう動けない。私が殺したの?ああ、涙が止まらない

頭の中はぐちゃぐちゃで、ぼろぼろと溢れてきた涙を拭うことすらできなかった。とにかくこの息苦しさから逃げ出したくて、何とか呼吸を整えようと深呼吸する。だけど呼吸器が馬鹿になったみたいに全く言うことを聞かない。

それからプッシーキャッツの虎さんが助けに来てくれるまで、私はその場にうずくまったまま泣きじゃくり続けた。



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