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江渡貝弥作は天才肌ゆえか、微かな匂いにも小さな音にも酷く敏感で、人の生活音が我慢ならないタチらしい。特に扉を閉める際の音が気に入らないようで、一日に3回はぷりぷりと怒り出すのだ。

最初は「この程度で大袈裟な」と思っていたみょうじだったが、毎度毎度あの気色悪い衣装を纏ったまま文句を言いに来るものだから、最終的には音を立てる月島と前山へ怒りの矛先が向くようになった。2人からすれば実に理不尽な話である。バタンッと音を立ててしまったが最後、刺し殺さんばかりのみょうじの視線を食らったのち、醜穢な格好をした江渡貝に詰め寄られるのだから。

そして今日も今日とてその時はやってきた。

――――バタンッ

「……月島軍曹?」
「………………すまん」

降参をするように軽く両手を上にあげた月島は、彼女の冷たい視線から逃げるように目を逸らした。

確かに今のは自分が悪い。悪いけれど、なぜ彼女は一切音を立てずに過ごせるのか不思議でたまらない。ドアの開閉音どころか足音ひとつしないのだ。気配すらも消え失せているものだから、不意に彼女が近くにいて驚かされることもある。そこでふと、初めて彼女を見た時のことを思い出す。その姿を見て歌舞伎の黒子のようだと思ったものだが、本当のところは忍者だったのかもしれない。彼女の言っていた鬼殺隊とは忍者の集まりだったのか。

月島がそんな事を考えているうちに扉の向こうから足音が近付いてきた。それと同時に、月島を睨みつけていたみょうじが「ああもう」と苦虫を噛み潰したような顔をして部屋の奥へと引っ込む。普段あまり感情を表に出さない彼女がこんなにも表情豊かになるものだから、月島はそれが少しだけ面白かった。もちろん口が裂けても彼女には言えないが。

「今帰ってきたの誰ですか?月島さんですか?前山さんですか?『扉は静かに閉めてください』って僕いつも言ってますよね?」

ぷんすかと鼻息荒く現れた江渡貝が、やけに長い腕を垂らして四足歩行で近付いてくる。その背中はぱっくり露出していて、腹には雌牛の乳首のように突起がいくつか付いている。全くもって彼の美的感覚は理解できない。彼を褒めちぎりおだてまくった鶴見が恐ろしく思えてくる程だ。

「それにあなた達クサイです!お風呂に入ってきて下さいッ!作業の邪魔です!!キーッ」

そう言ってついには鶴見に見立てた剥製を取り出して喚き出した。一体いつの間にそんな物を作ったのやらという驚きを、あまりに妄信的な彼の様子に呆れの感情が上回る。ただまぁ、鯉登や宇佐美とは気が合うかもしれない、と月島は強烈な既視感を覚えた。

とは言えこの状況は頂けない。彼には早く偽の刺青人皮を完成させてもらいたいのだ。しかし、すっかり癇癪を起こしてしまった彼はどうにも落ち着きそうにない。こういう時は素直に彼の主張に従い、且つ暫くそっとしておくのが一番だ。というのはここ暫くで把握した江渡貝の取り扱い方である。そういう訳で、月島は仕方なく銭湯へ向かうことにした。なんて、何より自身が行きたかったこともあるが。

「みょうじ、風呂に行ってくる」

月島は部屋の奥に身を潜めているみょうじへと声をかけ、「はぁい」と最早聞き慣れてしまった返事を背に江渡貝の家を出た。



実に奇妙な共同生活は、突如として崩壊を始めた。そのきっかけは江渡貝の大嫌いな"バタンッ"というあの音だった。

「ちょっと!前山さんですか?何度言えば扉を静かに閉めて頂けるんでしょうかね」

そう文句を垂れつつ音のした部屋へとやってきた江渡貝は、思いがけず前山の死体を見る羽目になる。

「前山さん……?――――誰だあの人は……こっちに来る!刺青人皮を奪いに来たのか!?」

江渡貝は慌てて工房へと向かうと、完成したばかりの偽の刺青人皮を回収しはじめた。そのさなか、背後から音もなくやってきた人物に口元を塞がれる。

「!?」
「静かに」

聞き覚えのある声に、視線だけを動かせば至近距離にみょうじの顔があった。目が合うと同時に、江渡貝の口を塞いでいた手がゆるりと離れる。

「まずはどこかに隠れて。隙を見て外に。これは私がまとめて窓から投げるから、それを持って逃げるの。できる?」
「みょうじさんは?……前山さんが殺されたんだ。ここに居たらあなたも、」

そこで江渡貝の言葉は途切れ、2人の視線が絡み合う。しかし悠長にしている余裕などないことはみょうじも江渡貝もよく分かっていた。

「私はもう死んでいるようなものだから」

江渡貝が「え、」と声を漏らしたのを遮るように、みょうじが「さぁ、行って」と彼の背中を押す。江渡貝は一瞬戸惑いつつも、そのまますぐに工房を飛び出した。同時にみょうじは偽の刺青人皮をかき集め、近くにあった手頃な入れ物――――実に悪趣味な鞄――――に詰め込んだ。それから急いで窓の方へと移動して、玄関から飛び出した熊(の剥製を被った江渡貝)に向かってそれを放り投げる。

ドンドンッと重い銃声が響いたのは、それからすぐのことだった。

「よくも前山を……ッ!よくも戦友を殺せたものだな尾形よ!」

聞こえてきた大声に、みょうじは月島が家に戻ってきたことを知る。いつも長風呂の癖に珍しいこともあるものだ――――なんて、そんなことは今置いておくとして。

みょうじはその場に身を潜め、息を殺し気配を消した。「江渡貝ッ!みょうじッ!生きてるか!」という月島の声が聞こえたが、こうして隠れている以上は答えることも出来ず無視を決め込んだ。

物陰でひっそりとやり過ごしながら、みょうじは先程の月島の言葉を思い返す。あの時月島は、侵入者に向かって「尾形」と叫んでいた。その名にはみょうじも聞き覚えがあった。以前、彼女が川から救い出した男である。腹を撃たれるきっかけとなった人物とも言えるが。

そうやって記憶の糸をたぐっている内に争いの音がしなくなり、かと思えば新たに別の人物がやってきた。聞こえてきた声から察するに、男が2人。"尾形"の仲間だろうかと警戒したが、その2人はすぐに家を出て行ったようだった。

あとは"尾形"が出ていくのを確認したら私も逃げよう――――そう思って少しだけ気が緩んだ時だった。彼女の顔にふっと影がかかる。

「よう、お前がみょうじか」
「…………"尾形上等兵"」
「命の恩人にこんなことはしたくなかったが……状況が状況なもんでね。ちょっとばかしここで寝ててくれ」

そんな言葉と共に放たれた銃弾は、吸い込まれるように彼女の右の太腿へと沈みこんだ。