16

その日、杉元一行はとあるコタンを訪れていた。寝床と食事の確保、そしてみょうじの脚の傷を治療するためである。彼女の傷は一応家永によって簡易的な処置はされているものの、コタンに行けばもっと良い薬があるだろうとのことだった。

初めてアイヌのコタンを訪れたみょうじは物珍しそうに辺りを見渡した。木の檻にぎゅうぎゅうに押し込まれた熊に驚きつつも、彼らの文化も分からぬためにこういうものかと無理やり納得する。それからアイヌの作法に詳しいという杉元に案内されるがままその後ろを着いて行った。

家の前での妙な咳払いやら、家に入れてもらうまでの謎の待ち時間やら、疑問には思うが文化が違うのだから仕方がない。みょうじはただその場の流れに身を任せることにした。

やっと家の中に入れてもらえることになった時、隣にいた杉元が「なまえさん」と彼女に向かって手を差し出す。既にアイヌの男と手を繋いでいる彼を見て、繋げということなのだろうと察したみょうじがその手に触れようとすれば、今度はアシㇼパに名前を呼ばれた。

「お前はこっちだ」
「? 分かった」

促されるままに、尾形とアシㇼパの間に挟まれる形で家の中へと入っていく。「背筋を伸ばすな」という杉元の忠告に従って。そうしてこの家の住民とみょうじ達で囲炉裏を囲むように座ると、家主であるこのコタンの村長が両手を擦り合わせたり上下に動かしたりと何やら儀式のような所作を見せた。最後に男が「イランカラㇷ゚テ」と呟くと、杉元が「真似しろ」と皆に促す。

「ムㇱオンカミ」

言われた通り見よう見まねで手を動かそうとした時、アシㇼパがそう言って男を指さした。途端、どこか緊張感のあった空気がぱっと消え去って、皆が皆ぽかんと呆気にとられてアシㇼパを見る。杉元の「え?なに?」という言葉がやけに響いて、ただひとりアイヌの女性だけが可笑しそうに吹き出した。

この辺りから、みょうじはどことなく不調和な空気がこの家に充満していることに気がついた。明確に言葉で説明できるものではなく、感覚的な話である。ただなんとなく、どこか歪な感じがするのだ。

気を取り直したように村長と杉元が会話を始めると、アシㇼパが今度は「オソマ行ってくる」と立ち上がり、引き止める杉元を軽くあしらってそのまま家を出てしまった。彼女の不躾なその態度に、みょうじの中でどんどんと違和感が増していく。

「ムㇱオンカミってどういう意味だ?」

そう尋ねたのは尾形だった。その表情と声色には明らかに警戒心が滲み出ている。黙り込んだアイヌに追い討ちをかけるように「おや?もしかして分からんのか?」と問いかけた尾形の顔には微かに笑みが浮かんでいた。

さっきよりも色濃く不穏な空気が流れ始めたところで、みょうじがすっくと立ち上がる。

「私もオソマ行ってくる」
「エッ……っていうかなまえさんオソマが何か知ってるの?」
「知らん」
「えぇ……」

そのままそそくさと家を出て行った彼女を、「迷うといけないから」と言ってアイヌの若い男が慌てて追いかける。しかし男は家を出てすぐのところではたと立ち止まった。

「なっ、どこに……」

既に彼女の姿がなかったのだ。



「アシㇼパさんをどこへやった!!」

先刻までいた家から聞こえてきた叫び声に、みょうじがふっと振り返る。どうにも様子が怪しいからと気配を消してコタンを徘徊し探りを入れていたのだが、原因を突き止める前に事は起こったらしい。

件の家から暴れ回る音がして、ついには銃声まで聞こえてきた。かと思うと、このコタンの女たちまでもが凶器となりそうな農具を手に仲間であるはずの男たちへ攻撃を仕掛け始めた。突然始まった内紛に何が何やらと首を捻るみょうじだったが、恨みや憎しみを貼り付けた彼女達の表情に、どうやらこのコタンがとんでもない事情を抱えているらしいことだけは分かった。

様子見のため静観を決め込んでいたみょうじも、男たちが女衆に反撃を始めたのを見て咄嗟にそこへ駆け寄った。まず女に襲い掛かっていた男の襟を後ろから鷲掴んで引き剥がすと、そのまま顔面に拳を一発。それから男の身体を持ち上げて、別の男2人へと投げつけた。それが見事に命中して3人がまとめて地面に倒れ込む。

「ごめん、誰が敵か分かんない」

今しがた助けたばかりの女性にそう言えば、「男、みんな!!」と片言の日本語が返ってきた。みょうじは「了解」とひとつ頷くと、女性が持っていた杵を「これ貸して」と半ば奪うような形で手に取った。

右脚が銃創を中心にぴりりと痛みと訴えるのを、彼女はくっと顔を顰めて堪えた。しかし動けない程ではないし、何より気にしている場合ではない。みょうじは杵を振り回し、襲いかかってくる男達を蹴散らした。女達を守りながら戦うのは分が悪い、と思ったのも束の間、斧や鍬を振り上げ奮闘する彼女らを見てその必要は無さそうだと思い直した。アイヌの女はなんとも逞しい。

ただ、倒れた男達に武器を振り下ろし致命傷を負わせるその姿には、みょうじは顔を顰めずにいられなかった。人の死体も死にゆく姿も何度も目にしてきたみょうじであったが、人が人を殺す様はこれまで見たことがなかったのだ。もちろん彼女自身も殺人の経験はないし、今だって殺すつもりの攻撃はしていない。ぞわぞわと抵抗感や嫌悪感みたいなものが身体中を這い回るのを自覚したその時だった。

「オ゙オ゙ォォオオ!!」

突然轟いた唸り声に、そこにいた全員が敵も味方もなくはたと動きを止める。「まさか」みょうじが咄嗟に声のした方を見ると、壊れた檻とそこに入れられていたはずの熊の姿が視界に入った。

「っ、……逃げて」

そう言って軽く手を払えば、日本語が通じないはずのアイヌにも言わんとすることは伝わったらしい。女達は一斉に駆け出して家の中へと逃げ込んだ。その内の一人が家から顔を出し、ミョウジに向かって何やらアイヌ語を叫び大きく手招いている。「あなたも逃げて」と言わんばかりのその様子に、みょうじは誘われるままに脚を一歩踏み出した。そして家へ入る直前に熊の方を振り返る。

「え、」

そこには、大きな熊相手に見事な大外刈りを決める牛山の姿があった。みょうじは自身の目を疑い、それを呆然と見つめることしかできなかった。先日尾形が「熊を素手で倒した」なんて根も葉もない噂を口にした時「そんな人が居てたまるか」と思ったばかりなのに。そんな人は実在した。それも今、目の前に。

牛山は山へ逃げていった熊を見届けたのち、ゆっくりと踵を返した。その先にみょうじが居ることに気付くと「お嬢さん、大丈夫だったか」と彼女の方へと向かう。みょうじはそこでふっと力が抜けたようにどさりと地面へ座り込んだ。

「どうした、どこかやられたか!?」
「…………足が痛い」

そう言ってちらりと見上げてきたみょうじを、牛山は優しく横抱きにして運んでやったのだった。