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しばらく歩き続けていた杉元達だったが、ついには追っ手に見つかってしまい、眼前にそびえる大雪山を越えて逃げる羽目になった。大雪山は天気が急変しやすく、一気に視界不良となることも珍しくない。普通なら避けるべき経路である。が、裏を返せば追っ手を撒くには適しているとも言える。無事に下山できれば、の話ではあるが。
「まずいぞ、天気が急に崩れてきた」
運は杉元達の味方をすることなく、冷たい風が吹きすさび、気温が急激に下がり始めた。見晴らしの良いこの場所には風避けになりそうなものも火を焚くための木も生えていない。戻ろうにも追っ手があるためにそれも出来なかった。ついには寒さのせいか白石の様子がおかしくなっている。万事休すかと思われたその時、アシㇼパがエゾシカを指さして「杉元オスを撃てッ!」と叫ぶ。
「大きいのが4頭必要だ!」
その言葉に真っ先に反応したのは尾形で、1発で2頭同時に仕留めるとすぐに3頭目も撃ち抜いた。続いて杉元も発砲したものの、少し掠っただけで命中はしなかった。「あっ」と慌てたような杉元の声が響く。その頃にはもう他のエゾシカは逃げてしまい、あと1頭を捕らえることが出来なかった。咄嗟に杉元が追いかけようとしたが「追わなくていい!3頭いればなんとかなる!」とアシㇼパが叫び彼を呼び止める。
「急いで皮を剥がせッ!大雑把でいい!!」
早速皮を剥ぎ始めたアシㇼパの隣で、みょうじもそれを手伝った。その横では低体温症で錯乱した白石が全裸になって何やら踊り始めている。なんとも混迷を極めた状況だったが、どうにか3頭分の皮を剥ぎ終えて「これを被るんだ!」とアシㇼパが皆に促した。
この中で1番身体の大きい杉元はアシㇼパと共に入ることになり、残るは尾形、白石、みょうじとなった。男2人では流石に狭すぎるため、みょうじがどちらかと一緒に入るのは言わば必然である。しかし彼女の顔には分かりやすく「どちらも嫌だ」と書いてあった。女にだらしのない白石と、どうにもいけ好かない尾形。どちらを選ぶか迫られたこの状況で、みょうじはぴしりと硬直する。しかしそんなことを気にも止めない男が1人。
「何やってんだ、来い」
そう言って尾形は有無を言わさずみょうじの腕を鷲掴み、エゾシカの毛皮の中へと引き摺り込んだのだった。
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「……狭い」
「嫌なら出ろ」
「…………」
もぞもぞと身体を捩ってどうにか身を縮めるも、尾形の身体が背中にぴたりと密着したこの体勢はどうにもなりそうにない。みょうじは諦めて深いため息をついた。それはこの狭い空間にやけに響いて、それからすぐにしんと静寂が訪れた。まるでその気まずさを誤魔化すように、外の激しい風の音がエゾシカの毛皮越しにくぐもって聞こえてくる。
尾形とみょうじは仲良く談笑する仲でもなければ、そもそも互いに口数の多い方でもない。しばらくの間2人は貝のように沈黙に篭った。このまま寝てしまおうとみょうじが目を瞑ってしばらく経った頃、尾形がぽつりと言葉を落とす。
「あの日、何故俺を助けた」
みょうじは彼の問い掛けに一瞬呆気にとられて、すぐに答える事ができなかった。"何故"なんて、人を助けるのにわざわざ理由が必要なのか。質問の意図が全く分からない。なんでそんな事を聞くんだと思いつつ、みょうじは少し考えたのちにようやく口を開いた。
「……死にかけてたから?」
「師団に取り入るためか」
どうやら尾形は彼女の答えに納得がいかなかったらしく、被せるように二の句を継いだ。
「金塊を狙って鶴見中尉に取り入ろうとしたんじゃないのか?俺を助けて恩を売ろうとした……実際その通りになって、お前は師団に雇われた」
ふむ、とみょうじはそこでようやく尾形の突然の問い掛けに合点がいった。どうもこの男は自分が利用されたと思っているらしい。だからやけに突っかかって来るのかと、彼の普段の言動にも納得がいく。みょうじは「なぁ尾形」とまるで子供に言い聞かせるような声色で言葉を紡いだ。
「理由がなきゃ助けちゃ駄目なのか」
「…………」
「死にかけの人間を見過ごすなんて、後味悪いだろ。強いて言うなら自分のためだ」
彼女の言葉に尾形は黙り込んでしまい、そこで2人の会話はぷつりと途切れた。みょうじからは尾形の顔は見えないために、彼が今どんな表情を浮かべているのかも分からない。まぁ、かと言ってその顔を拝んだところできっとあのいつもの無愛想な面をしているだろうから、何かを読み取れるとも思えないが。
そのまま話は再開することなく時間ばかりが過ぎていき、そのうち2人は静かに眠りについたのだった。
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寝心地が良いとは決して言えないエゾシカの毛皮の中で、みょうじの体温を感じながら尾形は懐かしい夢を見た。小樽の山で杉元と争った日の夢である。
崖で強く頭を打ち付けたせいで途切れていた意識が、物凄い力で引っ張り上げられた。視界を過ぎる黒の塊に最初は熊かと思ったが「生きてるな」微かに鼓膜を揺らした声に人間だと気付く。夢か現か、その両方に片足ずつ突っ込んだように頭の中は酷く朧気で、身体は殆ど感覚がない。ただ、ゆらゆら揺れる体感に負ぶられているらしいことは分かった。
しばらくすると視界が反転して、だだっ広い空が見えた。寝転がされたのだ。それから視界の端でちらちらとさっきの黒い影が動いている。何やら俺の身体をまさぐっているらしい。やめろ、と言おうとしたが顎も舌も思うように動かず言葉にならなかった。なんの意味も成さない母音がしわがれた声となって漏れるのみ。しかしそれが届いたのか、その人物が顔を覗き込んできた。そいつの顔は黒い布に覆われていて、唯一露出している両目と視線が絡む。
「意識はあるな。気をしっかりもてよ」
そいつは俺が意識を手放さないようにするためか、独り言のように延々と語りかけてきた。「ゆっくり呼吸しろ」「もう大丈夫だ」「すぐ病院に連れてってやる」――――嗚呼、うるさい。少し黙っててくれ。眠たい。どうせこの身体ではもう、
「あっおい、諦めるな。生きろ」
何で分かるんだ。沈みかけた意識が再び引っ張り上げられる。
「……助けられてばかりの私が、初めて人を救えそうなんだ。頼むから死んでくれるなよ」
「………………」
「誰か大事な人を思い浮かべろ。やり残したことや野望でもいい、何か考えろ」
「………………」
「何もなけりゃ私のために生きろ。人助けだと思え」
なんとも可笑しなことをのたまう奴だ。男にしては高く女にしては低いその声はやけに耳にこびり付いた。煩いとは思うけれど、嫌いじゃない。「死ぬなよ」「生きろ」とまじないのように何度も唱えられて、それが自分の身体に染み込んでいく気がした。
――――お前は俺に生きていて欲しいのか
この舌と顎ではそう尋ねることも叶わなかった。
つい数ヶ月の出来事なのに、遠い昔の記憶のような、そんな酷く懐かしい日の夢だった。