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結論から言えばヒグマは無事に討ち取って、姉畑は死んでしまったものの(それも腹上死ときた)彼の刺青人皮も手に入れることが出来た。さらにはその場に居合わせたアイヌが姉畑の奇行を目撃したことで谷垣の濡れ衣も晴れた。一時はどうなることかと思われたが、なんとか事態は丸く治まったのだ。そして今現在、杉元達はアイヌたちとの仲直りも兼ねてヒグマを送る儀式に参加していた。

実のところ、みょうじはあのヒグマとの戦いがどうやって幕を閉じたのかよく覚えていなかった。姉畑の奇行が強烈すぎたのだ。杉元がヒグマを倒した、というのは何となく理解しているけれど。

ふと姉畑の尻が頭を過ぎり、ぐっと渋い顔をするみょうじ。そんな彼女の元に杉元がやって来て、「楽しんでる?」と声を掛けて隣に座った。

「俺の事助けようとしてくれたんだってね。ありがとう」
「……いや、結局何もできてないし、むしろ助けられた方だ」
「まぁ、状況が状況だったし…………その、大丈夫?」

あの場にいた人間は、姉畑の奇行を目と鼻の先で目撃してしまったみょうじを多少なりとも気の毒に思っていた。彼女が今も尚ずんと重たい空気を纏っているから尚更。あの光景は若い女性には些か過激すぎたのだ。

「……夢に出てきそうだ」
「あー、その……早く忘れよう?ほら、パーッと呑んでさ!」

そう言うと杉元は彼女の分にと貰ってきたトノトと呼ばれる酒を手渡した。みょうじは大きなため息を一つついたのち、受け取った杯の中身をくいっと飲み干す。杉元の助言通り、アルコールの力を借りて忘れてしまおうと思ったのだ。「おっ、なまえさんいける口?」「あまり強くはない」そんな会話をしつつ2人で酒を交わしていると、そこへ尾形がやってきた。

「杉元の言う通り忘れるのが1番だ。ほら、これでも食え」

この男が優しい言葉を掛けてくるなど珍しいこともあるものだ。そう思いながらも尾形の差し出したお椀を受け取れば、それはアイヌ達が振る舞っていたカムイオハウ――――ヒグマの肉汁――――だった。当然、あの穢されたヒグマの肉である。ちらりと尾形を見やれば、やはりと言うべきかニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。みょうじは静かにそれを床に置くと、薄らと笑みを携えて近くにいたキラウㇱに声を掛けた。

「キラウㇱ、ヒグマの腸と肉……できれば尻の辺りの肉が良いんだが余ってないか?」
「どうだろう、見てこようか」

尾形が咄嗟に「おいやめろ、何する気だ」と声を上げる。が、みょうじはそれを無視してキラウㇱに「こいつに腸詰めを食べさせてやりたいんだ」と尾形を指さして言った。

「誰が食うかそんなもの」
「ほう……じゃあお前がこれを食えよ」
「お前のために持ってきてやったんだぜ?」
「まぁ遠慮するなって」

尾形とみょうじの間でカムイオハウの入ったお椀が行ったり来たりを繰り返す。最終的にはみょうじが尾形を羽交い締めにする形で無理やり食べさせようとした。

「こっの……っ、怪力女……!おい杉元、見てないで助けろっ」
「いやどう考えてもお前が悪いだろ」

自業自得と一旦は尾形を見捨てた杉元だったが、結局は彼を不憫に思ったのか助けてやることにしたらしい。「なまえさんその辺で……」とみょうじを引き剥がそうとして「え、力つよ」と戸惑っていた。途中、キラウㇱが「もう腸も肉も残ってなかった」と伝えに来たが、3人には聞こえていないようだった。

そんな酔っ払い同士の戯れは、手の匂いを嗅がせに来たアシㇼパによって終わりを告げた。

「臭くないか?」
「うん、大丈夫」

みょうじがそう返した通り、アシㇼパの手からは何の匂いもしなかった。それでも彼女は気になるらしく他の人にも嗅がせて回っていたが。余程蛇を触った事が不快だったらしい。

「……そんなに蛇が嫌いなのに、ありがとな。おかげで助かった」
「なまえに危害を加える奴がいたら私が守ってやるって言っただろ」

――――杉元に何かあったら私が必ず助ける

つい数時間前にアシㇼパが言っていた言葉をふと思い出して、みょうじは僅かに目を丸くした。あの時、2人の関係を羨ましいと思ったみょうじだったが、彼女も以前に同じような事を言われていたのだ。そして今日、その約束は確かに果たされた。アシㇼパの美しさをたたえた目は自分にも向けられているのだと気付いて、みょうじはどこかむず痒さに似たものを感じた。

「ふふ、……そうだったな」

みょうじは緩く笑うとアシㇼパの頭をくしゃくしゃと撫で回した。照れ隠しのようにアシㇼパが「酔ってるのか?」とどこかむっとした表情で問いかける。

「うん、少し」

そう言って目尻を緩ませたみょうじの頭を、アシㇼパは仕返しのように撫で返してやったのだった。



「本当に良いのか、小樽に戻らなくて」

皆が寝静まった頃、みょうじとアシㇼパはチセの外で2人夜空を眺めていた。谷垣から聞いたアシㇼパの祖母の話がどうしても気になったみょうじが、彼女を外へと誘い出したのだ。

「言っただろ、私にはやるべきことがあるんだ。前に進まなきゃいけない」

きっぱりとそう言い切ったアシㇼパの表情は、覚悟を決めた人のそれだった。もちろん彼女なりに多少の不安や迷いはあるのだろうが、それをおくびにも出さず前を見据えるその胆力は相当なものだ。――――しかし、そんなアシㇼパを前にみょうじは僅かな引っ掛かりを覚えた。

「やるべきことをやって、知るべき事を知って全てが終わったあとは、帰る場所も必要なんだよ」
「…………」
「アシㇼパ、帰るところがあるってのは幸せなことだ。私にはどうも君が生き急いでいるように見える」

星を見上げていたみょうじが、静かにアシㇼパへと視線を移す。アシㇼパはじっと地面を見つめて考え込んでいるようだった。みょうじは再び夜空を見上げ、彼女の言葉を待った。木々のざわめきと、小さな虫達の折り重なるような鳴き声が2人を包む。

「私の還るところはアイヌだ。フチの言葉も……アチャの教えも、大事なものは全部私の中にある。――――私は真実を知らなきゃならない。アイヌのためにも、自分のためにも」

しばらくして彼女が紡いだ言葉はどこまでも凛としていて、力強かった。

「そうか。アシㇼパが後悔しないなら、それでいい」
「……なまえは故郷に帰りたいとは思わないのか」
「…………もうないんだ」

大事なものは全部私の中にある。そんな言葉はみょうじには到底言えそうになかった。全てあちらに置いてきてしまった気さえするのだから。この時代に来てからというものの、胸にぽっかり空洞ができて、そこをこがらしが吹き抜けているような感覚がある。寂しいとか悲しいというよりも、虚しい。

みょうじは片手で目元を覆うと深いため息をついて俯いた。そんな彼女の様子に、アシㇼパがためらいつつも声を掛ける。

「なまえ、泣いてるのか」
「……いや、……ただ少し……」

そこで彼女の言葉はぷつりと途切れ、再び木々のざわめきが2人を包み込んだのだった。