27
昼時に差しかかろうとする時分、杉元たちは海を見渡せる雑木林でハマナスの実を取っていた。「真っ赤に熟したのはそのまま食べられます」インカㇻマッの言葉に、みょうじは視界に入った一等赤く実ったハマナスをもぎ取った。早速それを口に放り込もうとして、隣で谷垣が「すっぱい」ときゅっと顔を顰めたのを見て手を止める。結局少し齧るだけに留めて――――やはり酸っぱかった。
「腹減ったな……ハマナスじゃないもの食べたいよ。アシㇼパちゃんどこ行ったの?」
食事と言えばアシㇼパ、と言わんばかりに彼女の名前を出す白石。珍しく別行動をとっているアシㇼパは、杉元曰く早朝からマンボウを獲りに行っているとのことだった。なんでもマンボウはこの時期にしか獲れないらしい。「結局旬のもの食いたいだけじゃねぇの?」という白石の言葉には、誰も反論することはなかった。無きにしも非ず、というのが皆の率直な感想だったのだ。
それから杉元達は黙々とハマナスを収穫し、持ってきた袋がいっぱいになったところで雑木林を後にした。ひとまず収穫したハマナスをコタンに置きに行き、後は思い思いに行動することになった。アシㇼパが戻ってくればきっとマンボウ料理にありつけるだろうから、それまでしばしの自由時間である。
谷垣とインカㇻマッは海の方へと向かい、集団から少し離れたところで2人並んで砂浜に座っていた。その様子を杉元と白石がニマニマと眺めている。しばらくして、アイヌの老人が谷垣とインカㇻマッに声を掛け何かを手渡しているのが見えた。かと思うと、インカㇻマッがそそくさと雑木林の方へ去っていく。
「え〜谷垣振られちゃった?」
「いやいやインカㇻマッちゃん顔赤かったよ」
まるで女子のようにきゃっきゃと盛り上がる杉元と白石。その様子を尾形が白けた表情で眺めている。みょうじはと言えば、一人全く違う方角を見ていた。彼女はじっと目を凝らしたのち、軽く首を傾げて怪訝な顔をすると隣にいた尾形へ「なぁ、」と声を掛けた。
「双眼鏡持ってるか。あれはなんだ」
そう言って彼女が真っ直ぐ指さした先には、巨大な暗雲のようなものがあった。しかし辺りは清々しい程に晴れていて、そこだけがまるで墨汁を伸ばしたように黒々と染まっている。異様な雰囲気を察知して、尾形はすぐに双眼鏡を覗き込んだ。
「まずいぞこれは……」
彼がそう零したかと思うと、杉元が「わッ」と驚いたような声を上げた。それに釣られるようにみょうじが杉元へと視線をやれば、彼の胸にバッタがしがみついている。「やだぁ〜バッタきらーい」ピンッとそれを指で弾いた杉元を、白石が「不死身のくせに」と鼻で笑う。大量のバッタが杉元達を襲ったのは、その直後のことだった。先ほど暗雲に見えたあれは、おびただしい数のバッタの群れだったのだ。
「ぎぇえええッ!!」
「いっぱい飛んでくるッ!気持ち悪ぃ!!」
咄嗟に全身にまとわりつくバッタを振り払う。しかし数が多すぎていくら払おうとキリがない。ついには手の甲を噛み付かれたみょうじが「いッ……!」と声を上げた。どこかへ身を隠さなければ、と杉元達は必死にバッタの大群から逃げ回った。
「あの番屋に避難だ!!」
そうしてたまたま見つけた小さな建物へと慌てて逃げ込んだのだった。
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何かがおかしい、とみょうじはじわりと滲み出た汗を拭う。さらしの中が汗ばんで気持ち悪い。シャツの胸元をぱたつかせて風を送れば、男たちのじとりとした視線が注がれどうにも居心地の悪さを感じる。どうしてこんなことに、とみょうじはこの訳の分からぬ状況に頭を悩ませた。
全ての戸も窓も閉め切った番屋の真ん中で、ぐつぐつと煮えるラッコ鍋がこの部屋の室温と湿度をみるみる上昇させている。蝗害に遭遇したのは運が悪かったとして。この密室に閉じこもったことも、換気ができないことも仕方がないとして。暑い、暑すぎる。――――いやしかし、この熱さは体外から来るものではない。身体の芯がぐずぐずと熱を生み出しているのだ。ラッコの肉が出す独特の匂いが頭を麻痺させているような気もする。
「本当に食べられるものなの?ラッコって」
みょうじがまさに今思ったことを白石が代弁するように呟いた。しかし谷垣が持っていたこのラッコは先程のアイヌの老人がくれたものだと言うし、インカㇻマッも何も言わなかったそうだからきっと毒はないはずだ。とはいえ、何かがおかしい。
「なまえちゃん、大丈夫?辛そうだけど」
僅かにみょうじの方へ身体を寄せた白石が、そっと彼女の腰に手を添える。同時にみょうじの身体がぴくりと跳ねた。白石の手が触れている部分がやけに熱を帯びているように思えて、ついにはその手がゆるりと腰を這おうとするものだから、みょうじは「問題ない」と彼の手を押しのけた。
この男が頻繁に花街へ通い女を買っていることは最早周知の事実である。そんな好色男が、部屋に充満するおかしな熱にあてられて変な気を起こしつつあることは想像に容易い。全く油断も隙もない、とみょうじはむっと眉を寄せた。そうしてふと前を見れば、焦点の定まっていない尾形の姿が視界に入る。
「頭がクラクラする……」
そう言うと尾形は頭を抱えてふらついた。咄嗟に杉元達が介抱――――だと信じたい――――を始める。尾形を横に寝かせ、胸元を開き、そして「下も脱がせろ!いや……全部だ!全部脱がせろッ!」と白石が声を上げたところで、みょうじは勢いよく立ち上がった。杉元、白石、谷垣の戸惑ったような視線が彼女に集まる。彼らのその困惑の表情は、きっと我に返って今の状況――――3人がかりで尾形の服を剥いでいる事に気まずさを感じたせいだろう。
「……やっぱり少し気分悪いから……奥で休んでくる」
はっとしたように杉元が「うんうん、それがいい」とぎこちない笑みを浮かべて何度も頷いた。この場に彼女がいるのは良くないと思ったのだ。白石と谷垣も彼に同意するようにコクコクと頷く。みょうじはそのまま踵を返すと、すぐ後ろにあった引き戸を引いて奥の部屋へと引っ込んだのだった。
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何がどうしてこうなってしまったのか。ハァハァと息を乱し天井を仰ぎながら杉元はただただ呆然としていた。えも言われぬ興奮が抑えきれず、皆で相撲を取った。何故相撲かと問われれば、無性に相撲がしたくなったとしか言いようがない。皆も止めるどころか乗り気だったし。しかし冷静になって考えてみれば全くもって意味が分からないし、異様に盛り上がってしまったことに気まずさすら感じる。
誰からと言うこともなく立ち上がり、いそいそと先程脱いだばかりの服に腕を通す。何故褌一丁になってしまったのかも最早誰にも分からない。どこかギクシャクした雰囲気を誤魔化すようにぼそぼそと会話を交わし、しかし妙に途切れ途切れのそれが余計に気まずさを際立たせた。
この重苦しい空気から早く解放されたくて、外に出ようと杉元は引き戸に手を掛ける。そこでふとみょうじの存在を思い出した。
「なまえさん起こしてくる」
「……変な気起こすなよ」
「! ばっ、……馬鹿言うな」
尾形のじとりとした視線に射抜かれて、杉元は一瞬言葉に詰まってしまった。変な気、なんて全くそんなつもりはなかったのに、わざわざ忠告されてしまうと却って意識してしまう。
杉元はむっと顔を引き締めてから、彼女が先程入っていった奥の部屋へと向かった。どうやらそこは道具置き場のようで、真昼間だというのにやけに薄暗く少し埃っぽかった。
「……なまえさん?もうバッタどっか行ったみたいだよ」
そう声を掛けてみるものの返事はなく、彼女の姿も見当たらない。もしかすると寝ているのかもしれない、と杉元は奥へと進みながらきょろきょろ部屋の中を見渡した。それからすぐに、丁度棚の影になっている所でみょうじが小さく丸まって眠りこけているのを見つけた。なにもこんなところで寝なくても、と苦笑いながら杉元はみょうじの前にしゃがみ込む。その頃にはこの薄暗さにも目が慣れて、ぼやけていた彼女の表情まではっきり見えた。
なまえさん、と声を掛けようとして――――何となしに飲み込んだ。多分、こんなにも無防備に眠っている彼女を初めて見たせいだ。みょうじとはそれなりに旅をしてきたけれど、ぐっすり眠っている姿はこれまで見たことがなかった。本人曰く、眠りが浅いのだとか。それに加え彼女が人の気配に酷く敏感なことも理由のひとつだろう。とにかく、今この瞬間とても珍しいものを見ていることには違いなかった。
杉元はついつい彼女の寝顔に見入ってしまった。寝苦しいのか、眉間にはぎゅっと皺が寄っている。前髪が汗のせいで額に重たく貼り付いていて、首元にはしっとりと汗が滲んでいた。
あれ、なまえさんってこんな色っぽかったっけ。杉元はごくりと固唾を飲んで、自分の心臓がどきどきと早鐘を打ち始めたことを自覚する。なんだか悪いことをしている気さえしてくる。いや、気がするも何も女性の寝顔を盗み見るなど褒められたことではないけれど。
先程ほど発散したはずの熱が、杉元の中でじわりじわりとぶり返し始めた。何故だか無性に触れたくてたまらない、いやでも。そうだ髪を払うくらいなら、とおそるおそる彼女の顔へと手を伸ばす。だってほら、貼り付いていて気持ち悪いだろうだし。何もやましい事をするわけじゃない、とまるで言い訳のように自身に言い聞かせ、導かれるように彼女の額に触れようとして――――「っうぶ、」――――顔面を鷲掴まれた。
やばい、起きた。杉元はぎくりとして思わず声を上げそうになったが何とかそれを堪えた。彼女の瞼はなおも閉じられたままだったのである。どうも寝ぼけているらしい。どれだけ警戒心が強ければ寝ながら反応できるんだ、と思いつつも杉元は内心ほっと安堵の息をついた。そうして本格的に起きる前にこの手から逃れようと、ゆっくりと身体を逸らす。その時彼女の指が杉元の顔の傷に触れて、かと思うと、その指が傷をなぞるようにゆるりと鼻根のあたりを這った。
そして、
「――――不死川様、?」
彼女の両目がぱちりと開いた。
「へ、」と杉元の口から戸惑いの声が漏れて、2人はしばしの間無言で見つめ合う。ようやく我に返ったらしいみょうじがさっと目を逸らすと、同時に触れたままだった杉元の顔から手を離した。
「…………忘れろ」
「え?あ……うん」
彼女は気を取り直したようにすっくと立ち上がると、額に貼り付いていた前髪を払うように掻き上げた。
「もうバッタは去ったのか」
「う、うん。もう皆コタンの方に戻ったよ」
「そうか」
それだけ言うとみょうじは足早に部屋を出て行った。杉元は未だしゃがみ込んだまま立ち上がることも忘れ、その背中をただ呆然と見送った。
――――不死川様
彼女の乞うような声色が、やけに耳にこびり付いている。そして愛しいものを見つめるような、熱を帯びたあの視線を思い出して、杉元は胸がどきどきと高鳴るのを自覚した。