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新月の夜――――ついにその日はやってきた。これから都丹の先導でアシㇼパ、杉元、白石がのっぺら坊のいる監房へと向かい、不測の事態に備えてキロランケ、牛山、土方の3人が門倉の宿舎で待機することになっている。つまりはこの7人が塀の向こう側へと赴くのだ。万が一見つかった場合はただちに銃撃戦となってしまうことだろう。まさに命懸けの作戦である。

「ここで帰りを待ってる。……気をつけて」

谷垣と夏太郎と共に川岸で待機することになったみょうじは、アシㇼパの手を取りぎゅっと握り締めた。「あぁ、必ず戻ってくる」そう言って手を握り返すアシㇼパに緩く笑みを浮かべ、それから杉元の方を見る。2人の視線がかちりとぶつかって、殆ど同時に頷いた。

「誰も信じるな」杉元にそう伝えはしたものの、門倉の協力は不可欠だし、都丹以上に先導に向く人間もいない。不安は残るが、これが今できる最善の配置だった。門倉も都丹も杉元達と同じように危険に身を晒すことになるのだから、きっと裏切るような真似はしないはず――――と、ここまでくればそう信じる他なかった。

みょうじも人の気配を察知する能力には長けているから、都丹がいなければおそらくは彼女が先導役を担っていたのだろう。しかし彼女のそれも都丹の聴力には敵わないし、何より銃が使えないことが大きな欠点であった。

ここでも役立たずに終始するのかと、みょうじは歯痒さに拳を握り締める。今も昔も、仲間が戦地に向かうのを見送るだけ。全てが終わった後にようやっと事後処理に赴くだけ。胸に燻る思いは人に託すばかりで、役立たずの自分は安全圏から指を咥えて待つ他ないのだ。

自分も杉元のように強ければ――――忸怩たる思いを抱きながら彼の背中を見送る。男に生まれれば良かったのか、なんて。胡蝶と甘露寺を知る彼女にとってそれは言い訳でしかなかった。結局は弱い自分が悪いのだ。

「ご武運を」

そう言ってこれまで何度隊士達を見送ったことだろう。みょうじは吐息のような微かな声で、あの頃と同じ言葉を囁いた。



カンカンカンカン――――

聞こえてくるのは網走川のさざ波の音だけ、そんな闇の中の静寂に突如として警鐘が響き渡る。

「見つかったか」

重々しい声色で落とされたみょうじの言葉に、夏太郎が「おいおい……どうする」と目の前にそびえる塀を見上げる。

「どうするも何もここで待機するしか……」

谷垣はそこまで言って言葉を飲み込んだ。3人の元にコタンで待機しているはずのインカㇻマッがやってきたのだ。ランプで照らされた彼女の顔には分かりやすく焦りが浮かんでいる。

「谷垣ニシパ、今すぐここから逃げてください。ここにいたらあなたが巻き込まれてしまう」

そう言って谷垣の手を引くインカㇻマッ。警鐘を聞き谷垣を心配してやって来たのだろうか。いや、それにしては到着が早すぎる。それよりも早くコタンを出た?占いでこうなることを察したのだろうか――――そんなみょうじの考えはあっさりと覆された。

「谷垣ニシパから小樽へ偽名の電報が届くと私は彼らに伝えていました」

彼ら、とは一体。そんなもの問わずとも分かる。鶴見との繋がりは本人も認めていることだ。彼女曰く「利用しただけ」だそうだが。いや、今はそんな事どうだっていい。みょうじは怒りのあまり足元がぐらつくような感覚に襲われた。おそるおそる辺りを見渡せば、向こう岸に灯りが連なっているのが見える。おそらくは第七師団の隊員達が監獄に向け進行しているのだろう。

「……インカㇻマッ、お前なにを……」

みょうじは酷く動揺した様子の谷垣の隣を通り過ぎインカㇻマッのすぐ目の前までやって来ると、その胸ぐらを掴み上げた。刺し抜かんばかりの鋭い目で睨め付けるものの、インカㇻマッは動じることもなくまるで見定めるような目で彼女を見つめ返す。

「鶴見中尉にあなたの事も頼まれています」
「……何?」

胸ぐらを掴む手を、インカㇻマッの手が優しく覆う。そして首を傾げてみょうじの表情を覗き込むその顔には、いつものどこか胡散臭い笑みが張り付いている。

――――私の可愛い娘、と。そう言っていました」

「娘、?」夏太郎が動揺したように漏らす。そのままの意味で受けとったらしい彼に、みょうじが咄嗟に「オイ変な誤解を、」と釘を刺そうとしたその時だった。猛烈な爆発音が鳴り響き、彼女の言葉を掻き消した。網走川に架かる橋が爆破され崩れ落ちたのだ。結構な距離があるというのにこちらにまで地響きが伝わってくる。

その様子に気を取られたみょうじの肩を誰かの手が鷲掴む。振り返ればすぐ後ろに谷垣がいて、彼はインカㇻマッから引き離すようにぐっと彼女を押しのけた。

「今日までずっと……鶴見中尉と内通していたということか?インカㇻマッ!!」
「杉元さんたちは失敗しました。こうなったいまのっぺら坊とアシㇼパちゃんを無事にここから連れ出せるのは鶴見中尉だけです」

どうする、どうしたらいい。みょうじは必死に頭を働かせた。このままでは鶴見と鉢合わせてしまう。――――「私の可愛い娘」鶴見が本当にそう言ったのだとしたら、ここで師団に連れ戻されるのかもしれない。いずれ戻る気ではいたが、それは今じゃない。そしてインカㇻマッは鶴見がのっぺら坊とアシㇼパをここから連れ出すことも仄めかした。それならば「のっぺら坊に会う」という彼女の願いは果たされるのだろう。

しかし、杉元達はどうなる?このまま彼らが離れ離れになったら、いやそれどころか、この騒ぎに乗じて殺されたら。その時、アシㇼパは今のように笑えるのだろうか。

今自分はどう動くべきか。その答えが出ないまま焦りだけが募っていく。その時、夏太郎が顔を真っ青にして「オイ聞こえるか?川下からなんかデカいのが来るぜ!!」と声を震わせた。その視線の先、闇の中からうっすらと姿を表したのは一隻の軍艦だった。目の前に広がる光景に皆が唖然としていると、ぐっと勢いよく腕を引かれる。

「トンネルに逃げろッ!急げ!!」

そう叫んだのは一番に我に返った谷垣である。少しばかり強引に小屋の中へと押し込まれたその直後、ドォンッと大砲の火を噴く音が轟いたのだった。