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入る予定のなかった網走監獄の敷地内を歩いていれば、あちらこちらに人の死体が転がっていた。みょうじにとってこんな光景は見慣れたものである。ただ、至る所から聞こえてくるいくつもの銃声と爆発音、そして立ち込める煙と火薬の匂いは彼女の知る"戦場"にはなかったものだ。

人間同士で何故こんな惨いことを。そう思うと自然と眉間に皺が寄っていた。「お嬢さん、大丈夫か?」先程合流したばかりの牛山が、沈んだ表情のみょうじを気遣うように声を掛ける。それに「問題ない」とだけ返し、みょうじは誰のものとも知れぬ死体から視線を逸らし真っ直ぐ前を向いた。

「……アシㇼパは無事だろうか」
「杉元が付いてる。心配するな」

不安の色をそのまま乗せたみょうじの言葉に、励ますように谷垣が答える。しかし「日露戦争でも使われていた」という照明弾で照らさた彼の顔には分かりやすく焦りが滲み出ていた。これまで旅の道中で危険に晒されたことは幾度となくあったが、こんな規模のものは初めてなのだ。まさに戦争の最中のようなこの状況で、「大丈夫」と信じきるのは些か無理があった。それでもみょうじはその言葉を何度も自分に言い聞かせ、ひたすらに足を動かした。

杉元達の向かった舎房が主戦場となっていることは明らかで、既に彼らが逃げ出している可能性を考えるとそこへ向かうのは得策ではない。また侵入に用いたトンネルは宿舎が崩壊したことで既に塞がってしまった。そこで牛山と谷垣の提案で「ひとまず正門の方へ向かおう」ということになった。分かりやすく目印となるそこに、杉元達がやってくる可能性が高いと踏んだのである。

そしてその予想は見事に大当たりした。正門にはアシㇼパと白石の姿があったのだ。

「アシㇼパ!……良かった、無事だったんだな」

みょうじは咄嗟にアシㇼパの元へ駆け寄ると、抱き着かんばかりの勢いで彼女の両肩を掴み、怪我がないか上から下まで見回した。見た限りどうやら傷一つないらしい。

「私は大丈夫だ。でも、杉元が、」
「はぐれたのか?…………のっぺら坊は?」

みょうじの問いかけにアシㇼパは力なく首を振るだけだった。代わりに白石が「杉元とキロちゃんがのっぺら坊を連れてくるからここで待ってろって」と答える。そして噂をすればそのキロランケもやってきた。なんでも杉元は既に舎房を抜け出しており、ひとりで教誨堂の方へ向かったのだという。どうやらのっぺら坊は舎房ではなくそこに拘置されているらしいとのこと。

「土方と犬童も教誨堂にいるらしい」

続けられたキロランケの言葉に、みょうじは嫌な予感が的中したことを悟った。――――裏切られたのだ。のっぺら坊が門倉の示した舎房ではなく教誨堂にいるということは、おそらく作戦立ての時点で既に欺かれていた。そう理解した途端怒りがふつふつと湧いてきて、みょうじは強く拳を握り締めた。しかし、今はそのことに気を取られている場合ではない。深く息を吐いて、込み上げる怒りをなんとか押し沈める。

とにかく今は杉元がここにのっぺら坊を連れて来ることを信じて待つ他ないのだ。自分も教誨堂に向かいたい気持ちはあるが、きっとここに来ているであろう鶴見と遭遇するのは避けたかった。鶴見もまたのっぺら坊のいるそこへ向かう可能性が高いのだ。

――――大丈夫、きっと杉元ならやり遂げてくれるはず。しかしそんな彼女の願いも虚しく、訪れたのは絶望、ただそれだけだった。

「ウイルクが撃たれたッッ!!」

屋根の方から聞こえてきたインカㇻマッの言葉に動揺が走ったのも束の間、「杉元ォ!!」アシㇼパの悲痛な叫び声が響く。「アチャ!杉元!」彼女の声が段々と近付いて来るのが分かって、それからすぐにアシㇼパを抱えたキロランケが屋根の上から降りてきた。

「助からんッ 諦めろッ 逃げるぞアシㇼパ!」
「死んでないッ 置いていけないッ 離してッ! すぐそこにいるんだぞッ!」
「ダメだッ!! 2人を撃った奴が近くにいるッ!」

杉元の所へ行こうとしているのだろう。アシㇼパはキロランケに担がれながらも必死にそれから抜け出そうと躍起になっていた。彼女の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちているのを見て、みょうじはぐっと唇を噛み締める。その隣で白石がオロオロした様子で「杉元が?マジかよ……!どうする?」と声を震わせた。混沌と化した空気の中、谷垣が力強く声を上げる。

「俺が行く」

そう言うと彼はインカㇻマッの制止も聞かず「杉元には釧路で借りがある!」と銃を手に走り出した。しばしの逡巡ののち、みょうじもその背中を追いかけたのだった。



「ふんッ!!」

杉元とのっぺら坊の元へ辿り着いた谷垣は、建物を弾除けにしながら地面に横たわる杉元の足を掴み、どうにか2人の身体を引き寄せようとしていた。杉元を確実に殺そうとしているらしい"誰か"が執拗に彼を狙撃しているために、安易に身を乗り出すことが出来なかった。

――――シュパンッ

「っ!」

ついには杉元の足を掴む谷垣の腕が撃ち抜かれた。建物の死角から僅かにはみ出たそこへ命中させた辺り、随分と腕のいい狙撃手らしい。これでは埒が明かないと思ったのか、谷垣は咄嗟に杉元とのっぺら坊に覆いかぶさり、2人の身体を抱え込むと勢いよく建物の影へと移動させた。一か八かの行動ではあったがなんとか撃たれずに済み、谷垣は深い安堵の息をつく。その直後、誰かにぽんっと肩を叩かれ、谷垣は思わずびくりと身体を硬直させた。

「谷垣、良くやった。片方は私が運ぼう」
「……みょうじ、お前も来たのか」
「1人で運ぶのは大変だろう」

そう言いながらみょうじは雑嚢から包帯を取り出して、手早く杉元の頭に巻き付ける。「気休め程度にはなるだろう」言った傍からすぐに血が滲み始め、みょうじはぎゅっと顔を顰めた。そのとき一際強い風が吹き抜けて、辺り一帯が一気に白んだ。

「煙が、」
「……これなら撃って来られないはずだ。今のうちに行くぞ」

谷垣の促しにみょうじがひとつ頷く。それから杉元を谷垣、のっぺら坊をみょうじが抱え、2人は急いで正門の方へと向かった。先を行く谷垣の背に負われた杉元の額からは、たらたらと血が流れ続けている。巻かれたばかりの包帯は真っ赤になって、最早ほとんど意味を成していない。

またみょうじは背中越しにのっぺら坊の体温がどんどん冷たくなっていくのを感じた。こめかみを撃ち抜かれたらしく、そこから溢れる血液がみょうじの肩を濡らしていく。

もう彼は死んでしまったのだ。手足の先は早くも死後硬直が始まっている。冷静にそう判断しつつ、みょうじは先程酷く取り乱していたアシㇼパの様子を思い返した。――――せめて杉元だけは。彼だけは死なせる訳にはいかない。

「正門が見えたぞ!もう少しだ……!」

ゼェゼェと息を切らしながら谷垣が声を上げる。彼は一足先に門を潜ると、そこですぐにピタリと足を止めた。「……谷垣?」みょうじがその背中に戸惑った様子で声を掛ける。彼女からは杉元を背負う谷垣しか見えなかった。

「インカㇻマッ!!」

そう叫んだ彼の視線の先には、力なく地面に横たわったインカㇻマッの姿があった。谷垣は背負っていた杉元を地面に寝かせると、慌ててインカㇻマッへと駆け寄った。「どうしたッ 何があった!?」そう言って抱えた彼女の腹には、アイヌのマキリが深く突き刺さっている。

「ウイルクが撃たれた時、キロランケがどこかに合図していました」インカㇻマッの微かな声は、みょうじの耳にもしっかり届いた。

(――――嗚呼、もう)

みょうじは茫然として、ただ2人の姿を眺めていることしかできなかった。

徒労が一気に押し寄せて、ずしりと身体が重たくなった気がした。それはまるで深い海の底へすとんと落とされたような感覚だった。喪失感、虚無感、無力感、そういった類のものが蠢く海の底である。

仲間、と言うと違うけれど、こうやって身近な人間が続けざまに傷ついていく。人の負傷も死も見慣れてはいる。しかし裏切りは別だ。それも短い間とは言え一緒に旅をして来た人間同士で。そこに始めから信頼と呼べるものはなかったと理解していたけれど、ここまであっさりと牙を向けられるものなのか。そこに少しの情も生まれなかったのか。

ふと、アシㇼパの涙が脳裏を過ぎる。みょうじはできるだけ丁寧にのっぺら坊を地面に寝かせると、ゆっくり杉元の傍まで近寄った。そうして彼の隣に跪き、そっとその手を握る。自分のより幾らか大きなそれはまだ暖かかった。

「……杉元、死ぬな。生きろ。お前は不死身なんだろう。……お前が死んだらアシㇼパが悲しむ」

それは蚊の鳴くような酷く小さな声だった。彼女の瞳がじわりと滲んで、溢れ出た涙がはらはらと頬を伝う。落ちた涙がぽたりぽたりと杉元の服に丸い染みを作っていき、そこでようやくみょうじは自分が泣いている事に気が付いた。随分と久しいそれに、まだ枯れていなかったのか、とどこか冷静な頭で考える。きっと彼女が――――アシㇼパが思い出させてくれたのだ。表情豊かなアイヌの少女に、いつの間にか随分と感化されてしまったらしい。

その時、みょうじ達の元へ複数の足音が近付いて来た。

「谷垣源次郎一等卒……みょうじなまえ……」

聞き覚えのある声に振り向けば、鶴見を先頭とした第七師団の集団がいた。その中には月島と鯉登の姿もある。しかしみょうじはその2人には目もくれず、ただ真っ直ぐに鶴見を見上げた。

「鶴見…………杉元を……、杉元を助けてくれ」

鶴見はゆっくりとみょうじの傍まで近寄ると、静かに彼女の前で片膝をついた。それから割れ物にでも触れるかのようにそっと彼女の両頬を包むと、親指の腹で優しく目の縁の涙を拭った。

「あぁ、任せなさい――――可愛い私の娘」