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杉元達の身柄は第七師団に拘束、否、保護されて、今は網走監獄から程近い病院に軟禁状態にあった。重症を負った杉元とインカㇻマッは軍医と家永の手によって手厚い治療を施され、なんとか一命を取り留めた。軍医曰く「家永がいなければ無理だった」そうだ。なにせ杉元の額に撃ち込まれた銃弾は脳にまで到達していたのだから。彼が助かったのは(諸事情で)脳に詳しい家永の存在と、弾薬が不殺銃弾だったこと、そして彼自身の驚異的な回復力――――偶然に偶然が重なったまさに奇跡と呼べるものだった。
"不死身の杉元"とは決して大袈裟な異名ではなかったのだと、みょうじはようやくその本当の意味を理解した。ただ強いというだけでなく、まさしく彼は不死身なのだ。
とは言え杉元の意識は未だ回復しておらず、インカㇻマッも危険な状態にある。少なくともしばらくはこの病院から出られないことは明らかだった。つまり、突如として行方をくらませた尾形、キロランケ、白石、そしてアシㇼパの後を追うことも出来ないのだ。
そんな歯痒い状況の中、みょうじは病院内のとある一室で鶴見と対面していた。
「……で、なんのつもりだ」
「うん?」
「突然『パンケーキを作ってくれ』なんて……」
テーブルを挟み向かい合った2人の間には、出来たてのパンケーキが置かれていた。鶴見に依頼されたみょうじが、それに困惑しながらも不承不承作ったものである。メリケン粉などこの辺りでは簡単には手に入らないだろうに、よく材料が揃ったものだといっそ感心してしまう。鶴見曰く「小樽を出る際に調達させた」のだそう。
「約束していただろう」
「……それは、そうだけど」
「君とはここで再会できると踏んでいたからな」
そう言って実に満足そうな笑みを湛える鶴見に、みょうじはため息をつく他なかった。正直なところ、この男が自分の処遇をどうするかというのはみょうじにとって心配の種であった。一応"脅されて連れ去られた"という体ではあるが、実際のところは自分の意思で杉元達に同行していたのだから。それは杉元を助けてくれと彼に頼んでしまった時点で、自ら露呈したようなものだった。
しかしどうやら心配は杞憂に終わったらしい。この男が都合よく解釈してくれたのか――――いや、全て想定した上で目を瞑ることにしたのだろう。なにせアシㇼパが連れ去られた今、小競り合いをするより協力体制を敷いた方が合理的なのだから。杉元とインカㇻマッを助けたのだってそのためだろう。
「うん、いい香りだ。頂いても?」
「……どうぞ」
ナイフとフォークを手に優雅にパンケーキを口にする彼を見ていると、ここが実に質素な造りの部屋であることを忘れそうになる。いや、むしろこの飾り気のなさが趣味の良い上品な造りにさえ思えてくるのだから不思議なものだ。そのくらいこの鶴見という男の纏う空気は洗練されている。まるでそれ一枚で部屋の雰囲気を一変してしまう絵画のようだ。
「ふむ、初めて食べたが美味いな」
「それは良かった」
「それで、杉元達との旅はどうだった?」
「……聞いてどうする」
「可愛い子には旅をさせよ、と言うだろう。その成果を聞かせてくれ」
探りを入れられているのだろう。そう思ったみょうじはじっと押し黙って静かに鶴見を見つめた。そんな不躾な態度にも彼が機嫌を損ねることはなかった。なにせ杉元達の持っていた刺青人皮を手に入れてからというものの、彼はすこぶる上機嫌なのだ。その証拠に、みょうじはここ数日でこの男が鼻歌交じりに歩く姿を何度も目撃している。小樽の兵舎ではあまり見かけなかったものだ。
「どうやら随分と絆されたようだな」
「……否定はしない。昔から子どもには弱いんだ。特に女子にはね」
「情が湧いたのはアシㇼパにだけだとでも? 杉元を助けてくれと私に泣いて縋ったじゃないか。あれには少し嫉妬したよ」
芝居がかった態度でやれやれと首を振る鶴見を、みょうじはぎゅっと睨みつけた。しかし耳元がじんわり赤く染まっているものだから、むしろ彼を満足させただけだった。みょうじはフンと鼻を鳴らすと、目の前のパンケーキにフォークを突き刺した。
なんとも情けない姿を晒してしまったものだと、みょうじはあの時の自分を殴りたくなった。ただまぁ、あの時はあの時で必死だったのだけれど。彼女はそこでようやくあの場に月島と鯉登の姿もあったことを思い出して、むっと眉間に皺を刻んだ。2人とも網走監獄の後片付けに忙しいようで、あれ以降顔を合わせていないのが唯一の救いだった。
みょうじが険しい顔で黙々とパンケーキを口に運ぶ様子を、鶴見は微笑みを携えて見つめていた。
「小樽で尾形上等兵を助けたことを後悔しているか?」
「……いや、あの時の私にとってはあれが最善だった。たらればは好きじゃない」
「ふふ、君らしいな」
「ただアイツは一発殴ってやらなきゃ気が済まない」
「その前に杉元が殺しかねん気もするが」
みょうじは少し考えたのち「その時はその時だ」と返した。それから持っていたフォークとナイフを皿の上に乗せて「これからどうするつもりだ」と鶴見に問い掛ける。
「どう、とは?」
「アシㇼパのことだよ。ここで手を引くつもりはないんだろ」
「奴らは樺太に向かった可能性が高い。体勢が整い次第こちらもすぐ樺太に入る」
「――――私も連れて行け」
その言葉に、鶴見はパンケーキを口に運ぼうとしていた手をはたと止める。が、それも一瞬のことで、パンケーキはすぐに彼の口の中に消えた。そうしてゆっくり咀嚼する間、2人の間にはただしんとした空気が流れる。ごくりと鶴見の喉仏がうねるように上下したのち、ようやくその沈黙は破られた。
「君をあまり危険なところにやりたくない」
「死のうが生きようが、後の世の話をする気はないよ」
「何を言っとるんだ。みょうじくん、君が可愛いから心配なんだ」
「……それ、一体何のつもりだ。可愛いとか娘とか」
「何のつもりも何も、そのままの意味だよ。私はずっと娘が欲しかったんだ」
「もっと愛嬌のある娘にしたらどうだ。いくらでもいるだろ」
「賢い子の方が私は好きだよ」
埒が明かないと思ったのか、みょうじはふぅと大きなため息をついた。
「連れて行けないのなら勝手に行かせてもらうまでだ」
「こら、私をあまり困らせるな」
「『可愛い子には旅をさせよ』だろ?」
みょうじの言葉に鶴見は口を噤み、しばらくするとくっくと小刻みに笑い始めた。それから「いやあ、君には敵わんな」と背もたれに身体を預ける。ぎしり、と椅子の軋む音が部屋に響いた。
「分かった、良いだろう。ただし死ぬなよ」
「約束はできかねる」
「ウン。それでも、死ぬな」
「……善処する」
そこでようやく部屋に充満していた張り詰めた空気が離散して、2人は食事を再開した。
「……パンケーキ、口に合わなかったか」
「まさか、そんなことはない。東京で流行っているというのも頷ける。君の言っていた巣蜜とバターを用意出来なかったことが残念だ」
「団子を食べている時の方が美味しそうな顔をしてる」
「ふふ、そうかな。まぁ、和菓子の方が食べ慣れているというのはあるかもしれない」
みょうじは思案するように顔を傾けたのち、「おはぎは好きか」と問うた。
「ああ、大好物だ」
「じゃあ今度はおはぎを作るよ」
「そうか、じゃあ君が樺太から帰ってきた時の楽しみにしておこう」
何度作ったか分からないそれは、みょうじの一番得意な和菓子である。それを伝えるか否か迷って、結局口にはしなかった。