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樺太へと向かう船の上で、月島と鯉登は波打つ水面と遠くなっていく本土を静かに眺めていた。先鋭隊として重要な任務を仰せつかった2人であるが、月島はいつもと変わりない仏頂面で、対象的に鯉登の顔には哀愁が漂っている。その手には鶴見の写真が握られているから、大方愛しい愛しい上官に思いを馳せているのだろう。「はぁ」恋々としたため息を漏らす男を、月島は一瞥もしなかった。彼のこんな様子にはすっかり慣れているのだ。

なにより彼のこの忠誠心の強さは師団に必要なものだから、(いくら鬱陶しかろうと)咎めるつもりもなかった。宇佐美とはまた違った盲目的なそれに呆れどころかいっそ同情すら覚えるが、しかし鶴見がそれを望み、このうら若き上官がそれで倖せならば自分に言えることは何も無い。月島はため息の止まらない鯉登ではなく、少し離れたところで一人海を眺めているみょうじの方に視線をやった。

数ヶ月振りの再会となった彼女とは、実は未だゆっくり話せていなかった。「久しぶりだな」「あぁ」「息災だったか」「まぁ……ウン。月島も元気そうで何より」なんの誇張もなく、まともに交わした会話はこのくらい。まぁ元々、互いに会話を楽しむような性分ではないのだから仕方ない。定型文のようなやりとりをして直ぐに会話は途切れ、それ以降は顔を合わした際に挨拶を交わすくらいのものだった。網走監獄の後始末で何かと忙しかったせいもある。

「髪が伸びたな」

ふと隣から掛けられた声に、ちらりと鯉登を見る。彼の視線もいつの間にかみょうじに向けられていた。

「……そうですね」
「まさかアイツまで着いてくるとは思わなかった。大丈夫なのか?危険な旅だろうに」
「あいつを普通の女と思わない方がいいですよ。あなたは知らないでしょうが、みょうじにやられた隊員もいますから」
「キエッ……おなべではなく本当に男ではないのか……?」
「…………流石にそれはないかと」

妙な間はあったが、それは自信をもって言えることだった。なにせ月島はみょうじと出会ったばかりの頃、病室で彼女の身体を目の当たりにしているのだ。鶴見と一緒に、彼女から背中の傷を見せられた時のことである。女にしては鍛え上げられていたが、あの丸みを帯びた体躯は確かに女性特有のものだった。まぁ、説明が面倒なのでわざわざ今ここでその話をする気もないけれど。

「それにしてもみょうじを手懐けろとは……鶴見中尉殿も中々難しいことを仰る。あんな無愛想を……どうしたものか」

実を言うと、2人はアシㇼパの奪還ともうひとつ、別の命令を受けていた。「丁度いい、この旅でみょうじを手懐けてきなさい」鶴見はにっこり笑みを作ってそう言ったのだ。降って湧いたような話に鯉登と月島が一瞬呆気に取られたのは言うまでもない。

――――話は数刻前に遡る。

「手懐けよ、とはどういうことですか」

鯉登が耳打ちした言葉をそのまま月島が復唱する。言わずもがな、その疑問は鯉登のものであり、それはすぐ目の前にいる鶴見も分かっているはずだった。しかし一体どういう訳か、鶴見はじっと月島の目を見てその答えを口にした。

「あれは敵に回ると少々面倒だ。ああいう、自分を殺せる・・・・・・手合いはな。しかしどうやら杉元達と旅をする間に随分と絆されてしまったらしい。取り返してこい」
「……具体的には、どうすれば」
「友人、戦友、主従、――――恋慕の情、で動く奴ではなさそうだが……マァ、何でもいい。繋がりを強めておけ。案外情には弱そうだ」

鶴見はそこでようやく鯉登へと視線を移し「期待してるぞ、鯉登少尉」とニヤリと凄みのある笑みを浮かべる。「キエッ」と鯉登の短い喚声が部屋に響いた。

以上がこの船に乗り込む少し前のやりとりである。

「そういう事は私より鯉登少尉殿の方がお得意でしょう」
「お前も大概無愛想な男だからな」

そう言って愉快そうに笑う鯉登に、月島は無表情のままただ無言を貫いた。自覚はあるから否定はできなかったし、かと言って肯定するのも負けた気がする。ならば聞かなかったことにするまでだ。

「しかし、鶴見中尉殿は何故ただの雑用係にそこまで執着されるのだ」
「……さぁ、それは私にも」

本当は、その確信に近いところを知っている。しかしそれを鯉登に伝えるつもりはなかった。「彼女は後の世から来た人間ですから」そう言った日にはきっと自分が変人扱いされるに違いない。そしてなにより、どうも理由はそれだけではないような気がするのだ。

「あのおなべが鶴見中尉殿のお気に入りとは気に食わんが、命令とあらば致し仕方ない。行ってこい月島」
「は、……私が、ですか」
「急に2人で押しかけても不自然だろう。私は父上と少し話をしてくる。頼んだぞ」

月島が「ハァ」と返事のような溜息のような言葉を返せば、鯉登はさっさと踵を返し船内へと引っ込んでしまった。早速父親を探しに行ったのだろう。月島は彼の背中にじとりとした視線を送ったのちひとつ息をついて、未だ海を眺めているみょうじの元へと向かった。何と声を掛けようかと考えて、その答えを見つける前に足音に気付いたらしい彼女がふっとこちらを振り返った。

「月島か」
「…………なぜ首を突っ込んだ」

第一声を用意していなかった月島が少しばかり焦って口にしたのは、なんとも不躾な問い掛けだった。手懐けろ、と言われたのにこれではむしろ突き放しているようなものだ。しまったと思いつつも、この疑問は彼女がこの任務に同行すると知ってからずっと気になっていたことだった。つまり、思いがけず本音が口をついて出てしまったのである。

だってみょうじは元々「面倒事はごめんだ」と言っていたのだから。彼女が尾形に連れ去られる少し前の、江渡貝宅での会話である。「自分が片足突っ込んでる自覚はあるのか」と問うた月島に、彼女は確かにそう答えたのだ。それがどうして、どんな心境の変化があって、みょうじ自ら先鋭隊に出願することになったのか。

「汚れ仕事はさせるなよ」あの日、確かにそう忠告したはずなのに。そこでふと、網走監獄にて瀕死の杉元の手を握りぼろぼろと涙を零していた彼女の姿が頭を過ぎる。このままでは危惧していたことがいつか現実になりそうだ。なにせ彼女の心は完全に杉元達の方に傾いている。それが動機付けとなってみょうじがこちらを裏切るようなことがあれば、引き金を引くのはおそらく――――

その時、頭の中で何かがはじけたような感覚が起こった。あぁ、だから。だから鶴見は「取り返せ」と自分に向けて言ったのだ。殺したくなければ手に入れろ、と。

じわりと手汗が滲んだのを自覚して、月島はこっそり外套で手のひらを拭った。そんな彼の心境を知りもしないみょうじは、いつもの無表情のまま頭を捻り「んん、」と"何故首を突っ込んだか"の答えを探しているようだった。

「何故、か。そうだな、尾形を一発ぶん殴ってやろうと思って」
「……お前がそんな感情で動く奴とは思えんが」
「月島が私をどう思ってるか知らないけど、本心だよ。あとはまぁ、ウン、……子どもの涙には弱くてね」
「アシㇼパか」

みょうじが小さく頷く。その視線は再び海の方へと向けられていた。彼女の表情は、儚げ、とでもいうのだろうか。寂しそうでもあり、しかしどこか優しさも孕んでいる。それを見ていたら、はたと「こいつは誰だ」という疑問が頭をもたげた。こいつはもっと無機質な人間だったはずである。たまに表に出す感情といえば不快感や嫌悪感くらいのもので、つまり月島の知っている彼女は、冷めた顔か顰め面の2つの顔しかもたなかったのだ。

ふむ、と月島は人知れずある結論に辿り着く。どうやらみょうじにとって杉元達との旅は実に有意義なものだったらしい。

「……お前は第七師団の人間だろう」
「はは、そんな風に思ってくれてたのか。ありがたい話だな」
「茶化すなよ。真面目な話をしているんだ」
「分かってるよ」

そう言うと彼女は甲板の手すりに寄りかかり頬杖をついた。

「……心配するな。どうせアシㇼパの隣に居るべきなのは私じゃない」

月島からは彼女の顔は見えず、どんな表情でその言葉を吐いたかは分からない。この場に相応しい返答も思い浮かばず口篭ったところで、鶴見の「手懐けてきなさい」という声が頭を掠める。優しい言葉を掛けるのは得意じゃない。が、命令を無視する訳にもいかない。月島は視線を足元へと落とし、軍帽の鍔を僅かに下げた。

「まずはアシㇼパの保護。今はそれだけ考えていろ」
「……あぁ、そうだな」
「お前の身は師団が雇っているんだ。居るべき場所は……分かってるだろ」

返事がないことを不思議に思って、月島はちらりと彼女に視線をやった。海を見ていたはずの彼女はいつの間にか真っ直ぐこちらを見ていて、ぶつかった視線に思わずぎくりとする。ふふ、と薄く笑う彼女の顔は、どこか尾形のそれによく似ていた。全て見透かしたような、それでいて人を煽るようなあの笑みである。

「鶴見に何を言われたか知らないけど、慣れないことはするもんじゃないぞ」
「…………なんの話だ」
「月島は分かりやすいな」

みょうじはフンと鼻で笑うと「本当は関わって欲しくないくせに」と零して、そのまま月島の前から立ち去ったのだった。