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樺太の大泊港に着船してすぐに船を降り、さぁ早速捜索開始かと思いきや、何故か一向に出発の気配が見られない。みょうじが何をもたもたしているんだと様子を伺えば、どうやら鯉登の荷を降ろすのに手間取っているようだった。2つ3つと鯉登の元へ運ばれて来るキャビントランクは最終的に6つになった。

「こんなに持って行けませんよ。置いていきなさい」
「必要最小限だッ!」

月島に窘められるも、荷物を減らすつもりは微塵もないらしい。一体この量をどう運ぶつもりなのか。もう彼を置いて先に行ってもいいだろうか。呆れと苛つきが溢れそうになるのを抑えるように、みょうじは眉間に指を押し当てる。その時「ヒッ」と鯉登の叫び声が響いた。その声にもう一度彼の方に視線を戻せば、ぱかりと開いたトランクからチカパシとリュウが顔を出していた。みょうじはその光景に思わず目を丸くする。

どうやら荷に忍び込んで無理やり着いてきたらしい。すぐに月島が「北海道に送り返せ」と言ったものの、結局は谷垣が面倒を見ることを条件に旅に同行させることになった。

「チカパシは分からんが、こいつには何度も助けられている」

杉元はそう言ってアシㇼパのマキリの匂いをリュウに嗅がせた。リュウの能力は姉畑捜索の際にみょうじも目の当たりにしている。きっとアシㇼパの捜索にも役立つに違いない。みょうじはリュウの傍までやって来るとその隣に身をかがめ、優しく頭を撫で付けた。

「まるで警察犬みたいだな。頼りにしてるよ、リュウ」
「……警察犬?」

きょとんとした杉元の声に、リュウの頭を撫でるみょうじの手がぴたりと止まる。

「……日露戦争でも露西亜が軍犬を投入していただろ。西洋では警察でも採用していると聞いたことがある」

そう答えたのはみょうじではなく月島だった。杉元が「へぇ」と感心したような声を漏らす。

その実、日本が初めて警察犬を採用したのは明治43年――――今から3年後の話である。それも本土ではなく統治下の台湾で。それ以前から西洋の書物や映画を通して警察犬の存在は民衆の知るところとなるが、それも今から少し先の話であった。

「なまえさん外国のこと詳しいんだね」
「……ン、まぁ多少な」

そんな会話を遮るように月島が「悠長にしている暇はない。行くぞ」と2人を急かす。その視線はじっとみょうじに向けられていた。咎めるようであり呆れたようでもあるそれに気付きつつも、ミョウジはリュウから視線を逸らさぬまま静かに立ち上がる。「それはお前んとこの少尉に言えよ」杉元の飛ばした文句に賛同したい気持ちはあったが、それは胸に収めておくにした。つい口を滑らせてしまったところを月島に助けられた以上、何も言えなかったのだ。

「悪い、助かった」

ようやくアシㇼパ捜索に取り掛かった時、みょうじはすれ違い様に月島に耳打ちした。彼は軍帽の鍔を下げると「気をつけろよ」とだけ返したのだった。



大泊港は樺太の玄関口であり、アシㇼパ達が本当に樺太に来ているのならここから上陸した可能性が高い。となると、この町の住民が彼らを目撃しているはずである。みょうじは雑嚢の1番下に仕舞い込んでいた写真を取り出すと、それを手に聞き込みをして回った。

網走監獄への潜入前に撮ったその写真が、まさかこんな風に使われるとは思ってもみなかった。役に立つのはありがたいが、綺麗な思い出のまま仕舞っておければ良かったのに。得も言われぬ虚しさを感じながら、写真の中のアシㇼパをゆるりと撫でる。丁度そこへ鯉登がやって来た。

「みょうじ、フレップとは何だ」

鯉登の視線の先を追えば、フレップ本舗という看板を掲げた店があった。もう一つの看板にはフレップワインと書かれているから酒屋なのだろう。鯉登の質問にみょうじは無愛想に「さぁ」とだけ答えた。

「行ってみよう」
「おひとりでどうぞ」
「私はアシㇼパの写真を持っていない」

そう言って有無を言わさずみょうじの腕を掴んだ鯉登に「ちょっと」と非難の声を上げるが、このきかん坊には聞こえていないようだった。否、聞く気がないのだろう。結局彼に連行される形でその店に足を踏み入れると、愛想の良さそうな女店員が酒瓶を手に「いらっしゃい」と声を掛けてきた。

「一献いかが?」
「いや、悪いけど酒を買いに来たわけじゃ、」
「フレップとは何だ?」

言葉を遮った鯉登をみょうじがむっと睨む。しかし彼は全く意に介する様子もなく「軍人さん、フレップ知らないの?コケモモよ」という店員の説明に耳を傾けていた。ついには渡されたワインを勧められるがまま試飲する始末。そんな彼にみょうじはため息を禁じえなかった。

「ほら、みょうじも飲むといい」
「……仕事中です」
「急いては事を仕損じる、と言うだろう。お前はもう少し肩の力を抜け」
「先人の言葉を怠ける口実に使うな」

これまで辛うじて敬語を使っていたのに、ついにそれも崩れてしまった。が、どうやら鯉登がそれを気にする様子はない。念の為「私は飲みませんから」と敬語を用いて差し出されたワインを断ったところで、2人を探していたらしい月島が店に入ってきた。そうして月島もまたみょうじと同じように深いため息を漏らす。「鯉登少尉殿、勝手にうろちょろしないで下さい」苦言を呈した彼は、怒ると言うよりも呆れていた。その後ろから他の面子もぞろぞろと店に入ってきて、先頭にいた杉元は杯を手にした鯉登を見るやチッと舌を鳴らした。

「観光じゃないんだぞ、ボンボンが。てめえの楽しみを優先すんなよ」

苛つきを隠そうともしない杉元の言葉に、険悪な雰囲気が漂い始める。それに気付いているのかいないのか、店員が「服に垂らさないようにね。フレップの赤いのは洗っても落ちないから」と鯉登に話しかけてきた。彼は「あ、そうなの」と返事をしてすぐに、手元の飲み残しを杉元へとぶっ掛ける。その途端、2人の取っ組み合いが始まった。みょうじはやってられんと言わんばかりに首を振ると、地面に転がる2人の横を通り過ぎ、店の出口へと向かった。

「ぼうやも初めて見るアイヌの子だねぇ。どこから来たの?今日で2人目だわ」

ふと耳に届いた店員の声に、戸に掛けたみょうじの手がはたと止まる。「それって、」と咄嗟に振り向けば、既に杉元が店員に詰め寄っていた。「ああ!そうそうこの子よ」アシㇼパの写真を手に、店員は確かにそう言った。曰く、いつもこの辺りに魚を売りに来るアイヌの老夫と一緒に居たのだという。

「ホントに!?間違いなくこの子か!?」
「うんうん!このアイヌの女の子よ!ついさっきアイヌの集落へ帰っていったわよ」

どうやらアシㇼパは本当にこの樺太に来ているらしい。杉元とみょうじは分かりやすく顔を綻ばせた。