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大泊港の町から少し離れた森の中で、フレップワインの店員が見かけたというアイヌの女の子には会うことができた。が、非常に残念なことにそれはアシㇼパではなかった。店員が見たのは樺太アイヌの女の子だったのだ。

「まぁ和人にとっちゃどっちもアイヌか」

そう零した月島の声色には落胆が滲み出ていた。それ以上に意気消沈していたのは杉元である。

「どうしてひとりなの?」

チカパシの問い掛けに、その女の子は「ヌソからわたし落ちた」と片言の日本語で答えた。どうやらソリから落ちたのを耳の遠いお爺さんに気付いてもらえず、置いていかれてしまったらしい。おそらくはコタンに戻る近道でこの森を通っていたのだろう。しかし月島が言うにはこの辺りには「ヒグマよりももっと凶暴な動物がいる」のだという。流石に子どもひとりでこの森を抜けるのは危険だろう。

「私がこの子のコタンまで送り届けてくるよ」
「馬鹿かお前は、そんなことをしている場合ではないだろう」
「ワインを飲んでる場合でもないですけどね」

ぐぬぬ、と顔を顰める鯉登と、そんな彼をじっと見つめるみょうじ。彼女の顔は一見冷めているように見えて、2人の間にはばちばちと火花が散っていた。その様子を見て月島が軽いため息をついた時、「わたし会った。北海道から来たアイヌの女の子」という思ってもみない言葉が落とされた。

「ちょっと待ってその子って……!」

杉元がそう言って(何故か谷垣の)写真を取り出すと、それを遮るようにリュウが激しく吠え始めた。咄嗟にその咆哮の先に視線を移すと、そこにはヒグマの姿があった。「子ども達を後ろに!」月島が素早く銃を構える。みょうじは自身を盾にするように、そっと子ども2人の前に立った。

緊迫した空気がその場を包む。――――が、ヒグマの様子がどうにもおかしい。苦しげな唸り声を上げ、ふらふらとよろめいているのだ。時々何かを振り払うように体を大きく震わせて、かと思うとヒグマの傍にボトリと何かが落ちた。

「……ミツアナグマ?」

それは以前、みょうじが蝶屋敷の子ども達と一緒に見た図鑑に載っていた動物の名である。猛獣の爪も牙も通さない分厚い皮膚をもつだとか、毒が効かないだとか、獰猛な性格で世界一危険と書かれていたことが印象深く、よく覚えている。しかしあれは温暖な地域にいるはずで、こんな寒いところに生息しているはずはないのに――――似ているだけで違う動物なのかもしれない。

みょうじがそんなことを考えていると、鯉登が不用心に"それ"に近寄っていく。「鯉登少尉殿、離れてください」みょうじが警告するよりも月島の方が早かった。しかし鯉登は気に留める様子もなく、「これがさっき言ってたヒグマより凶暴な奴なのか?目もつぶらで可愛いではないか」と歩みを進めていく。

次の瞬間、"それ"は鯉登の背中に襲いかかったのだった。

「月島ァ!!」

雪の上に倒れ込んだ鯉登が叫ぶ。彼の背中にへばりついたその獣を間髪入れずに月島が蹴飛ばして、すぐに銃を撃ち込んだ。しかしすんでのところで避けられてしまった。獣は敏捷な身のこなしで周辺を駆け回り、そのあまりの素早さにみょうじの視界から外れた時、アイヌの女の子目掛けて高く飛び上がった。

「あ……ッ!」

しまった。みょうじがそう思ったのと、チカパシが女の子に覆い被さったのはほとんど同時だった。獣はチカパシの背中に着地するとそのままそこにしがみついた。杉元が咄嗟にそれを鷲掴み「投げるぞッ!いいか月島軍曹ッ!」と放り投げる。すかさず月島が発砲し、パァンと乾いた音が辺りに響いた。

「やったか?」
「分からん、とにかく離れるぞ!走れッ」

どうやら仕留めきれていなかったらしく、獣はすぐに追いかけてきた。杉元が慌てて銃を放つが当たらない。谷垣はチカパシと女の子を抱えているし、月島は手負いの鯉登を支えている。このままではすぐに追いつかれてしまう。「私が行く」みょうじは小太刀を抜いて、くるりと踵を返した。

「エノノカ!!」

犬橇いぬぞりに乗った老父が現れたのは、その直後のことだった。



「トㇹ!トㇹ!トー!」

ソリが雪を削る音、犬達の力強い足音、それをかき消す老父の号令。あの獣はみるみる小さくなって行き、ついには諦めて森の中へと消えていった。犬橇の1番後ろに乗っていたみょうじは、前に座る杉元の背中にこつんと頭を預け安堵の息を吐いた。

「パーセ!」
「ヘンケが重いって言ってる!犬が疲れちゃう!」

前方から聞こえてきたチカパシの言葉に、みょうじが「私が走ろうか」と声を上げる。

「みょうじが降りても大して変わらん。谷垣一等卒!貴様のせいだ。雌牛のように太りよってからに」
「ええ?」
「そうだな……肥えすぎだ」

杉元はそう言うと谷垣を橇から振り落とした。「走って痩せろ。谷垣一等卒」鯉登の言葉はごろごろ転がっていった谷垣にはおそらく聞こえていないだろう。そのぞんざいな扱いにみょうじは谷垣を不憫に思ったが、彼が太り過ぎなことには同意だった。姉畑騒ぎで初めて会った時よりも明らかにむちむちしているのだ。

遠くの方でむくりと起き上がり、なんとか走り出した谷垣を見てみょうじは思わず失笑する。一歩踏み出す度に揺れる彼の体が、酷く重たそうに見えたのだ。