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犬橇に乗って辿り着いた先は、橇を操縦していた老夫とその娘​――――名をエノノカと言うらしい――――の家だった。北海道アイヌのチセとは異なる家の様子に、みょうじは興味深そうに辺りを見回した。なんでも樺太アイヌは夏用と冬用のふたつの家をもっているらしい。北海道よりも北に位置するここはあちらよりも更に厳しい冬を越えることになるから、それに適応した独自の文化を築いたのだろう。同じアイヌとは言え、環境が違えば生活様式もがらりと変わるのだ。

「谷垣だ」

みょうじが家の周りを観察しているうちに、橇から落とされ走る羽目になった谷垣がようやく到着した。結構な距離を走ったせいか、こんな極寒だというのにダラダラと汗をかいている。彼は家の傍まで辿り着くや否や、どさりとその場に腰を下ろし荒い呼吸を繰り返した。

「お疲れ。水を貰ってくるよ」
「ハァ、ハァ……あぁ、すまん……」

みょうじが「待ってろ」と残してチセに入ると、丁度月島が鯉登の傷の様子を見ているところだった。出血は酷いがコートを着ていたおかげでそこまで深い傷ではないらしい。あの様子だと血もすぐに止まるだろうと、みょうじは鯉登の背から視線を外しすぐ傍にいたエノノカに「水を一杯もらえないか」と声を掛けた。

「外にいる谷垣に飲ませてやりたいんだけど」
「分かった!わたし、あげてくる」
「悪いね、ありがとう」

エノノカはにっこり笑うと早速水を汲んでチセの外へと出ていった。その背中を見送ったのち、鯉登の方へと視線を戻す。それを見計らったように月島が「みょうじ、丁度良かった」と声を掛けてきた。

「確か塗り薬を持ってたよな。鯉登少尉殿の手当を頼みたい」
「あれはもう使い切った。……消毒ぐらいなら」

まだ出会ってすぐの頃、鶴見がみょうじの荷物を調べた際に薬を持っていたことを覚えていたのだろう。ただしそれはもう何ヶ月も前の話であって、尾形に脚を撃たれた時に全て使ってしまったのだ。補充のため薬を調合しようにも肝心の道具を持っていなかった。

「薬はあのご老人に頼むといい」

そう言うとみょうじは鯉登の後ろにやって来て、じっと背中の傷を確認した。獣から受けたとあって、あまり綺麗な傷口ではなかった。みょうじは雑嚢を漁って脱脂綿と薬瓶を取り出すと、薬瓶の中身を脱脂綿に染み込ませた。それから「沁みますよ」と一言添えて傷口にそれを押し当てる。途端、鯉登の背中がびくりと跳ねた。

「〜ッ! みょうじ!それは本当に大丈夫なやつなんだろうな!?」
「毒じゃないから安心して下さい」
「っ、キエッ……まだか……」
「……うるさいな、辛抱してくれ。獣なんてどんな菌を持ってるか分からないんだから。適当にやって腐っていいのか」
「腐っ……!?」

そこで2人の会話に割り込むように月島が「みょうじ、敬語」とぼそりと言葉を落とす。みょうじはむっと顔を顰めさせて「…………とにかく、我慢して下さい」とふてくされたように言った。そんな彼女に月島はじとりとした視線を送ったのち、小さくため息を零した。

「爺さんを呼んでくる」

そう言うと月島はチセを後にして、そこには2人だけが残された。黙々と消毒を続けるみょうじと、些か大袈裟な声をあげる鯉登。この傷だとかなり沁みるだろうから気持ちは分からないでもないが、それにしてもうるさい。元々騒がしい人だから、本人にとってはこれが普通なのだろうが。

「はい、終わりましたよ」

ようやく消毒が済んでみょうじの手が離れると、鯉登はほっと安堵の息をついた。それから背中越しに彼女を見やって「悪い、手間を掛けた」と小さく零す。まさかこんなにしおらしくお礼を言われると思っていなかったみょうじは、少しばかり驚いて目を丸くした。そうしてそっと視線を落とす。

「……貴方には旭川での借りがありますし」
「旭川?……あぁ、飛行船のあれか。私は何も出来ていないだろう」
「それでも、助けようとしてくれたでしょう」

あの時、彼は真っ直ぐにみょうじを見据えて「いま助けてやる」とそう言ったのだ。本当はそれを必要としていなかったなど、もちろん言えるはずもないけれど。傍から見れば人質の立場であったが、内心では師団を裏切っていた――――それなのに、師団側の人間であると信じて疑いもしなかった鯉登にみょうじは負い目を感じていた。罪悪感、とも言える。

「あの程度で借りなどと気負うな。それに、お前に何かあれば私が鶴見中尉殿に叱られる」
「……あの人は案外平気そうですが」
「ばかすったれ!大体、お前は無茶をしすぎだ!さっきもアレに立ち向かおうとしていただろう!」

鯉登は言ってやったとばかりにフンと鼻を鳴らした。アレ、とは先程の獣のことだろう。あの状況ではああする他なかったし、そもそも対峙する前に助けが来たから結局戦ってすらいないというのに。なんで怒られているんだ、とみょうじは不満げに首を傾げた。

「あの時はあれが最善でした」

負けじとそう言い返せば、鯉登が呆れたように天井を仰ぐ。「あー、お前はどうしてそう……」と独り言のようにぼやくと、気を取り直したようにみょうじへと視線を戻した。その顔からはもう怒りの色は消え失せて、代わりに微かな憂いが帯びている。

「……お前は女だろう。怪我でもしたらどうする」

鯉登はゆるりと手を伸ばすと、彼女の髪に手櫛を通し丁寧に耳に掛けてやった。「少し伸びたな」ふっと笑う彼に、みょうじはやっぱり顔を顰めさせただけだった。

「…………女は捨てたと言ったでしょう」

老父を連れた月島が戻ってきたのは、それからすぐのことだった。