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杉元一行は犬橇を使ってアシㇼパ捜索を行うことになった。というのも、「歩きたくないから」という理由で鯉登がエノノカとその祖父を雇ったのである。みょうじは杉元が「ボンボン」と鯉登を罵っていたことを思い出した。確かに彼はそう言われても仕方のない言動が多いのだ。この旅に持参した荷物の多さがまさにそれだった。ただまぁ、今回に限って言えば犬橇で移動できるのならそれに越したことはないと、誰も彼に苦言を呈す者はいなかった。
「お前はこっちだ」
子どもに釣られふらりと彼らの乗る犬橇の方へ向かおうとしたみょうじを、月島が腕を掴んで制止する。彼女は一瞬むっと眉を寄せたが、自身が乗ろうとした橇に杉元、エノノカ、チカパシ、谷垣が乗りかけているのを見ると、不満げな顔をしつつももうひとつの橇へと向き直った。「私が後ろに乗る」みょうじは橇を顎でしゃくって月島を先に座らせ、その後ろに乗り込んだ。
そうして一行を先導する老夫が向かった先は、とある小さな村だった。建物を見る限り、どうやらアイヌの集落ではないようだ。
「アイヌの女の子と三人の男、ここのロシア人の村の事聞いてたって」
「この村?じゃあ立ち寄った可能性は高いな」
エノノカと杉元の会話を聞きながら、みょうじはきょろきょろと辺りを見回した。家が数軒ぽつりぽつりとあるだけのそこは、随分とこぢんまりした村だった。
「あの建物が村で唯一の酒場らしい」
谷垣が一軒の店を見据えてそう言った。人の集まる場所は聞き込みには打って付けである。ほとんど人通りのないこんな田舎であれば尚更。早速酒場へ聞き込みに行こうとしたところで、月島が「のどかな農村だと思って気を抜くな」と皆に向けて忠告した。なんでも南樺太には日露戦争後のどさくさに紛れて逃げ出した囚人が大勢いるのだという。この農村のような辺鄙な場所はそんな彼らにとって良い隠れ蓑になる――――月島の話を聞いた杉元達は、ぐっと気を引き締めた。
店に入ると客達の視線が一斉に杉元達の方に集まって、同時にしんと静まり返った。少なくとも全く歓迎されていないらしいことは彼らの表情を見てすぐに分かった。しかしここにいる男たちはそれに怯むような人間ではない。唯一ロシア語を話せる月島が、皆の前に出てキロランケの写真を掲げた。
「Не приходил ли сюда вот этот
человек?」
きっと「この男を見かけなかったか」とでも聞いたのだろう。月島の問い掛けに店員が軽く首を振る。月島が今度は客たちを見回しながら同じように問いかけると、一人の男がのそりと席から立ち上がった。
「убирайся отсюда!」
ロシア語が分からぬみょうじには、男がなんと言ったのか知りようもない。が、その荒々しい語気に喧嘩を売られていることだけは分かった。
「何言ってるかさっぱり分かんねぇぞ酔っ払い。俺に触ったらぶっ飛ばすとこいつに伝えろ月島軍曹」
そんな杉元の言葉を通訳する間もなく、ロシア人が彼の胸ぐらを掴み上げた。途端、殴り合いが始まって――――すぐに勝負はついた。杉元が相手を打ち倒したのだ。
「ここはダメだ、酔っ払いしかいねぇ。近所に聞き込みに行くぞ」
いきり立った様子で足早に店を出る杉元の後を慌てて追いかける。そうして店の出入口に差し掛かったところで、みょうじはちらりと店内を振り返った。気を失い床に横たわるロシア人、それを呆然と見下ろす店主、突然の出来事に狼狽える客たち。そこでふと店主が顔を上げ、戸惑いを孕んだ両目と視線がかち合った。みょうじは特に何を言うでもなく、静かに彼から視線を外すとそのまま店を出たのだった。
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事が起きたのはそれからすぐのことだった。村で聞き取りをしているとエノノカが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「イ……イヌ盗られた!!」
「えーっ!?」
曰く、やけにお喋りなロシア人に声を掛けられ、その人と話している間にイソㇹセタ――――橇の先頭を走る犬――――の紐が切られていたのだという。月島が言うには「その『お喋りロシア人』も仲間だろう」とのことだった。よくある盗人の手口だそうだ。
早速その犬泥棒を探そうと話がまとまったところで、エノノカが「あっ!お喋りロシア人だ!」と声を上げた。なんと犯人の方から接触してきたのである。
そのロシア人は先程入った酒屋を顎でしゃくって、杉元達について来るよう促した。一行が再び酒屋に足を踏み入れると、そこには店主と先程杉元に殴られていた男が席について皆を待ち構えていた。そして杉元達の姿を見るや、何やらロシア語で語りかけてくる。
「……スチェンカ?」
「何だ?何と言っている?」
月島の通訳によれば、犬を返して欲しければスチェンカと呼ばれる賭け事に参加しろとのことらしい。なんでも杉元が殴った男は元々そのスチェンカとやらに参加する予定で、店主は彼に大金を賭けていたのだという。しかし目が腫れ上がったこの状態では出場も難しい――――つまり、責任を取れと言っているのである。先に喧嘩を売ってきたのはそっちだと言うのに、なんとも虫のいい話だ。あまりにも身勝手な彼らの言動に、みょうじはふつふつと苛立ちが込み上げてくるのを自覚した。もちろん、そうやって怒りを覚えたのは彼女だけではない。
「いいからさっさと犬返せ。店ごと潰して宗谷海峡に浮かべるぞこの野郎……伝えろ、月島軍曹」
「あの犬は私が高いエサ代を出して雇っている。『すぐに返さんとそのパヤパヤ頭を三枚おろしにして犬の餌にする』とロシア語で伝えろ月島軍曹」
杉元と鯉登の言葉に、月島は「難しい表現の通訳はできません」とだけ答えた。本当は「できない」と言うよりも、そんな喧嘩の種になるような台詞をわざわざ伝える気がないだけかもしれない。確かに腹の立つ言い分ではあるが、話し合いで済むならそれに越したことはない――――が、しかし。
ガンッ
大股開きで椅子に座る店主。その股の間から覗く座面部分に、みょうじが足を叩きつけた。「難しい言葉は必要ない」そう言って店主を睨めつける。
「潰す、はロシア語で何て言うんだ?月島軍曹」
ぐっと彼女のつま先が店主の股間に押し付けられる。それを見た男たちはロシア人も和人もアイヌも関係なく股間がヒュっと縮み上がる感覚に襲われた。どうやら通訳せずとも意味は伝わったらしい。凍りついた空気の中「谷垣ニシパ……これも勃起?」「……いや、違う」なんて会話が交わされるのを、皆がなんとも言えない気持ちで聞いていた。
彼女の醸し出す雰囲気から本当にやりかねないと思ったのか、店主が冷や汗を垂らして何やら話し出した。「なに!?」月島が顔色を変えたのを見て、みょうじはようやく男の股間に添えていた足を下ろす。月島の様子から、この店主が何か重要な情報を口にしたのだろうと察したのだ。
「キロランケ達は北海道から来た刺青の男を探していた……と。スチェンカには刺青の男も来るかもしれんと言ってるぞ!」
「脱獄囚は樺太にまで渡っていたか」
その話が本当なら、キロランケ達は刺青を狙ってこの村までやってきたのだろう。その囚人が死んでいないということは、刺青は諦めたのか、もしくは写しを手に入れたのか――――いずれにせよその囚人に聞けば分かるはずだ。それに、刺青が欲しいのは杉元達も同じである。その囚人と会える可能性があるのなら、スチェンカとやらに参加した方が得策だろう。そう結論づけた杉元達は、店主の話に乗ることに決めたのだった。
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「スチェンカはここで行われているそうだ」
その日の夜、一行は店主に連れられてとある建物にやってきた。尚、未だそのスチェンカが何なのかは聞かされていない。
「だから何なんだよそのスチェンカってのは」
杉元がそう漏らしつつ、手招く店主に誘われるがまま扉へと近づいていく。立て付けの悪い扉がギイと音を立てて開くと――――ムワァ、と物凄い熱気が流れ出てきた。鼻を突くむさ苦しい匂いにみょうじが思わず顔を顰める。それから恐る恐る建物の中を覗き込めば、そこには大勢の見物客と、半裸で殴り合う男達がいた。どうやらこれが"スチェンカ"らしい。
「スチェンカやるしかねぇのか……俺たちで」
そう零した杉元に、「俺たち?」と月島が冷静に聞き返したのだった。