40

結論から言えば、スチェンカには杉元だけでなく鯉登、月島、谷垣の三人も参加することになった。途中まで全く出る気はなかったようだが、店主の「日本人だけではロシア人に勝てない」の言葉に煽られたらしい。先程の態度から一転し、闘志に燃えている彼らをみょうじは物珍しそうに眺めた。鯉登はともかく、月島や谷垣までもがこんなに容易く挑発に乗るとは思わなかったのだ。

店主の言葉は彼らの軍人としての矜恃を刺激したのか、元々根っこの部分は血の気が多いのか――――猛獣のように目をぎらつかせている彼らに、きっと後者だろうとみょうじは思った。

彼らは着ていた服を乱暴に脱ぎ捨ると(鯉登だけは「持っていろ」と軽く畳んで渡してきた)、スチェンカの舞台へと向かった。みょうじは床に放られた彼らの服を広い集め、そのまま会場の隅へと移動した。彼らの戦いを間近で見たい気持ちはあったが、何せ前の方に行くにつれ人だかりが凄いのだ。日本人対ロシア人ということもあってか、見物客は大いに盛り上がっている。この荷物を抱えたままそこに埋もれるのは御免だった。

「Внивание! Бей!」

スチェンカを取り仕切っているらしいロシア人の掛け声と共に、ついに殴り合いが始まった。体格的には見るからにロシア人が有利である――――が、杉元達の方が押している。「うおおお!強いぞ!」「日本の兵隊さん強いッ!」観客の盛り上がりは最高潮に達した。

みょうじはと言えば、無意識の内に自分だったらどう戦うかを考えていた。なんとも重そうな打撃だが、あの速さなら避けられそうだ。ロシア人は上背があるから定石通り懐に入るのが良いだろう。しかしこちらがどんな手を打とうと、スチェンカが純粋な殴り合いのみの競技である以上、悔しいが勝つのは難しそうだ。寝技や関節技も許されるなら望みはあるけれど。

そうやってすっかり思考の渦に沈んでいたところを、不意に「もし、お嬢さん」と声を掛けられた。

「もしかしてあの日本兵達のお友達かな?」

落とされた問い掛けに顔を上げれば、なんとも恰幅の良い日本人の男と目が合った。その上背と服の上からでも分かる筋肉質な身体に、みょうじは牛山の事を思い出す。彼に負けずとも劣らないそのがっしりとした体躯は日本人にしては珍しいものだ。

「お友達……いや、ウーン……まぁ、そう思ってもらっていい」
「そうか!とっても強くて素晴らしいお友達だね」
「……貴方もスチェンカに?」
「いいや、今日は見てるだけだ」

「今日"は"」ということは、普段は参加しているのだろう。見るからに喧嘩が強そうな男だから、そう考える方が自然である。みょうじは会話を交わしながらこっそり男の身体を観察した。大きな拳にしっかりした肩幅。特に目を引くのはその首の太さである。首の筋肉は背筋と一続きになっているから、それが太いということは背筋も発達していると見ていい。牛山なんてまさにその通りの身体をしている。きっとこの男の打撃を受けたらひとたまりもないだろうな、とみょうじはぼんやり思った。

「あの中だと誰が一番強いんだい?」
「さぁ、どうだろう……杉元かな」
「杉元というのは?」

丁度その時、杉元が対戦相手に強烈な一撃をお見舞いして、会場に一際大きな歓声が上がった。「今の人、あの軍帽の」と伝えれば、男はきらきらした目で杉元を見た。

「おおおおおおッ」
「すげえッ勝ったぞ!日本軍!」

ついに勝負がついて、無事に杉元たちに軍配が上がった。圧勝だったその戦いに「善き哉」隣の男がにっこり笑う。みょうじは彼をちらりと見上げたのちに、杉元達の元へと向かった。



「お疲れ。皆強いんだな、少し驚いた」
「えっ今更ぁ!?」

杉元は自身の服を受け取りながら、心外とでも言いたげに声を上げた。みょうじは月島、谷垣へと服を手渡して「杉元が強いのは知ってたけど、他は殴り合ってるところなんて見たことなかったし」と最後に残った荷物を鯉登に差し出した。

「ふっふ、見直したか。ロシア人なんぞに私が負けるわけがなかろう」
「ええ、かっこよかったですよ」

彼女の言葉に、顎に手を当て格好つけていた鯉登が「えっ」と声を漏らして固まった。まさかそんな素直に褒められるとは思っていなかったのだ。

「さすが北鎮部隊、足腰の強さが尋常じゃない。何より瞬発力が羨ましい。女を言い訳にはしたくないですが、私にそこまでの筋肉は付きませんから」
「……なんとも可愛げのない褒め言葉だな」
「私の黄色い声をお望みで?」
「いや、遠慮しておく。想像しただけでゾッとする」

みょうじはフンと鼻を鳴らして、先程少し話をした男の方へと視線を移した。会場の隅にいたはずのその人は、もう建物から出ようとしている所だった。どうやらもう観戦する気はないらしい。

「さっきあの人と何話してたの?」

そう尋ねて来たのは杉元だった。きっとあの男のきらきらした視線に気付いていたのだろう。

「杉元達に興味があるみたいだった。誰が一番強いのかって」
「む、何と答えたのだ?」

話に割り入ってきた鯉登に、みょうじは少しの沈黙ののち「一番を決めたことがないから分からない、とだけ」と答えた。きっと正直に言えば面倒なことになると思ったのだ。忖度したこの返事にさえ「フン、面白くないな」と返ってきたのだから、彼女の選択は正しかったのだろう。ただ月島にはじとりとした視線を送られてしまったから、この誤魔化しは見透かされたようだ。

「……俺、ちょっと出てくる」
「おい、せめて外套くらい羽織っていけよ」
「あ、そうか」

みょうじに言われて杉元は思い出したように素肌の上から外套を羽織った。ここは熱気に包まれているし戦いの直後で身体も温まっているだろうが、一歩外に出ればそこは極寒である。汗をかいたその身体はすぐに冷えきってしまうに違いない。

「ごめん、またこれ預かっててくれる?」

それにひとつ頷けば、杉元のシャツ、着物、襟巻が再びみょうじの手元へと戻ってくる。そうしてすぐに、彼は小走りで扉の方へと向かっていった。きっとあの男の後を追ったであろう杉元の背中を、みょうじは静かに見送った。

「そう言えば店主の言っていた刺青の男はいなかったな。しばらくここに留まるか?」
「店主がでまかせを言った可能性もあります。どちらにせよ私たちが優先すべきなのは刺青よりアシㇼパの捜索です。犬を返してもらったらすぐに発ちましょう」
「うむ、それもそうか」

月島と鯉登の会話を聞きながら、みょうじはさっきの男の事を思い返していた。少し話しただけではあるが、態度も言葉遣いも丁寧な男だった。ただ、あの体躯と言い杉元への興味の示し方と言い、好戦的――――いや、戦闘狂の匂いがする。ただまぁ、彼に限らずスチェンカの参加者達は皆そうなのだろうが。

まさかな、とみょうじは内心で独りごちた。