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一体自分は何をしているのか。月島は目の前の大男に力一杯殴られたせいでガンガン痛む頭で考えた。本当なら今朝のうちに犬を返してもらって、今頃は別の街にでも辿り着いているはずだった。それがどうして今夜もまたスチェンカに参加して、この化け物みたいな人間を相手にする羽目になったのか。
全ては犬の件もアシㇼパの情報も刺青の入手も「全部きれいに丸く収まる妙案」があるとのたまった杉元のせいである。月島が微かに抱いていた疑念は確信に変わった。あれは間違いなく出鱈目だった、と。
「……なんて奴だ」
「強すぎる」
こんなもの時間と労力の無駄でしかない。
「「……え?」」
杉元が岩息に強烈な蹴りを放ったのである。岩息の身体が床に沈むのを、月島達はぽかんと見ていることしかできなかった。次の瞬間、物見客の歓声が怒号に変わった。スチェンカで蹴りは反則、つまり失格となってしまうのだから当然の反応である。
「杉元どういうつもりだ!――――あだっ」
「あ!そうか杉元ッ!これが貴様の『妙案』なんだな?――――ッ、?」
(これは不味い……!)
杉元の攻撃は味方であるはずの谷垣と鯉登にまで及んだ。どうやら我を失っているらしい。月島が咄嗟に「落ち着け杉元」と宥めようとするも、それも殴られる始末。
「やっちまえ!」
遂には自分達を囲っていた柵がなぎ倒され、観客たちがなだれ込んで来た。あれよあれよという間に乱闘が始まって、日本人もロシア人も関係なく次々に遅いかかってくる。それに揉みくちゃにされながら、月島はハッと顔を上げた。
(みょうじは……!?)
彼女もこの乱闘に巻き込まれているに違いない。無事だろうかと慌ててその姿を探す。が、人集りが邪魔をして見つからない。月島は目の前に群がる数人を力づくで押し退けると、慌てて周囲に目を走らせた。
ようやっとみょうじの姿を見つけたのは、丁度彼女が綺麗な上段回し蹴りをロシア人にお見舞いした時だった。両手に皆の服を抱えたまま大立ち回りをする様子を見る限り、どうやら心配は無用だったらしい。月島がほっと安堵の息を吐いたのも束の間、その視界の端で杉元が壁に掛けられている鎌と金槌を手に取った。
杉元はそのまま鎌を振り抜いて、あろう事か鯉登の手を切り付けた。
「……!?」
その暴挙に、騒がしかった室内がしんと静まり返る。「……第七師団」そうぼそりと呟いた杉元の額から、師団の人間にとっては最早見慣れた液体がどろりと流れ出す。脳漿だ。
「鯉登少尉殿!これは『妙案』じゃありません!『殴られ過ぎ』ですッ」
月島の声をきっかけに皆が我に返ったのだろう、「逃げろォ!」「わあああッ」叫び声を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。その喧騒に紛れて、岩息が悲痛な声を上げる。
「最初から私の刺青が目当てか?ひどいじゃないかッ!分かり合えると思ったのに!」
そう言ってついには岩息まで逃げ出してしまった。どうやらこちらの目論見がバレてしまったらしい。店主との
そうして建物を出た途端、凍てついた空気に晒され3人が殆ど同時にぶるりと震える。上裸の彼らには中々耐え難い寒さである。丁度そこへみょうじがやってきて、それに気付いた鯉登がいの一番に口を開いた。
「みょうじ、無事だったか!……服は!?」
「人混みに揉まれてどこかに……すみません」
「キエエ……!さ、寒い……!!」
鯉登が自身の肩を抱いて震えているのを他所に「それより囚人は!?」「いたぞ!追いかけろ!」と月島と谷垣が走り出す。それを見た鯉登とみょうじも慌てて2人の後を追った。
岩息はどうやら林の中へと逃げ込んだらしく、月島達は早くも彼の姿を見失ってしまった。遠くに逃げられる前にと、雪の上に残っているはずの足跡を探す。しかしこの暗さでは足元の雪など到底見えやしなかった。――――ただ1人、異様に夜目が利く人物を除いて。
「こっちだ。向こうに続いてる」
「おお!やるではないか!」
足跡を辿るみょうじを先頭に、林を奥へ奥へと進んでいく。その頃には男三人の身体はすっかり冷えきっていた。誰かが一旦服を取りに戻った方がいいかもしれない、と月島の頭にそんな考えが浮かんだ時、「あ――――ッ!」進行方向から岩息の叫び声が聞こえてきた。四人が慌てて声のした方へと走り出す。
「いたぞ!クズリに襲われてる!」月島が声を上げる。そこにはクズリに背中を覆われ、雪の上にしゃがみ込む岩息の姿があった。刺青が喰われる前にと、なんとかクズリを彼から引き剥がし「逃げろ!」一目散に走り出す。そうして逃げた先に一軒の小屋を見つけた。
「走れ!追いつかれるぞ!」
「早く閉めろ!」
バタンと大きな音を立てて扉が閉まる。クズリに追い付かれる前に全員が小屋の中に避難することができた――――そこまでは良かったのだが。
「小屋の中が暑い!何でこんなに暑いんだ!?」
岩息曰く、そこは「ロシア式蒸し風呂『バーニャ』」だったのである。
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「みょうじ貴様、もっと恥じらいというものをだな……!」
「だったら外のクズリを何とかしてください」
「キエエ……!」
「というか貴方達も前くらい隠したらどうなんですか」
世界一熱いサウナと評されるバーニャの中で、男たちはすぐに全裸になった。みょうじはと言えば、全裸ではないにしろ下着とさらしのみになってぐったりしている。そんなあられもない姿を当の本人は微塵も気にする様子はなく、ただ不機嫌そうに小窓の外を睨みつけていた。
クズリがいるのか、カリカリと扉を引っ掻く音がバーニャに響く。"アレ"が離れない限り、酷く蒸し熱いここから出ることも叶わない。
「杉元もなんとかしなきゃいけないし、ここで態勢を立て直さなくては……あつい……」
だらだらと汗を垂らしながら月島が今の状況を整理していると、岩息がこともあろうに熱された石に水をかけ始めた。途端、音を立てて水蒸気が立ち上る。バーニャ内の湿度が一気に上昇して、月島たちはその茹だるような暑さに力なく呻き声を上げた。
「これは白樺の葉を束ねたもので『ヴェニク』というッ」
「いだッ」
更に岩息がそのヴェニクとやらで鯉登の背中を打っ叩く。岩息が言うことには、それによって血行が促進し、室内の空気を掻き回すことで体感温度が増す――――どうやら彼はここで我慢大会を始める気らしい。
「さぁ誰が先に我慢出来ずにバーニャから飛び出すかな?」
そう言って突如始まったヴェニクでの打ち合い合戦。岩息はみょうじを敵と見なしていないのか、はたまた女には手を挙げない主義なのか、彼女だけはその打ち合いの蚊帳の外にいた。男たちがヴェニク片手に暴れ回る中、彼女はより一層顔を歪めて不機嫌さを隠そうともしなかった。これなら外に出てクズリ退治をした方がいいかもしれないとみょうじが思い至った時、小窓の外に見慣れた姿が現れる。
「なぁ、もしかしてあれ……」
そこには犬橇に乗ったチカパシとエノノカ、その奥に杉元の姿があった。さらにクズリが彼らに向かっていくのが見えて、みょうじは慌てて小屋を出る。それにいち早く反応したのは谷垣だった。
2人がチカパシとエノノカに合流する前に、橇を曳いていた犬がクズリに反応して急に方向転換した。その勢いでチカパシが橇から振り落とされ、地面を転がっていく。谷垣がチカパシの方へ向かったのを確認して、みょうじはそのままエノノカの方へと走った。そうして彼女がエノノカを抱き上げたのと、チカパシと谷垣がクズリを撃ち抜いたのは殆ど同時だった。
クズリが倒れたことで、その場に充満していた緊張感がふっと緩む。が、まだ問題は残っていた。未だ正気を失っている杉元である。もうスチェンカは終わったというのに、何故か岩息と殴り合っているのである。
「助太刀すべきか?」
「どっちの……ですか?」
「とにかく止めるべきだッ!杉元はアシㇼパ奪還に必要だ!これ以上殴らせるわけには……!」
鯉登、月島、谷垣がそんな会話を交わす中、みょうじはエノノカを優しく地面に下ろすと林の方へと歩いていった。その顔に静かな怒りを携えて。アシㇼパ捜索のためわざわざこの樺太までやって来たというのに、犬は盗まれるわ、その盗人本人に訳の分からぬ行事に付き合わされるわ、乱闘に巻き込まれるわ――――彼女の苛立ちは最高潮に達していたのである。
「なまえ……それどうするの?」
そう言ってエノノカが見上げた先には、みょうじの頭上に高く掲げられた石があった。大きさにして軽く3尺はあるだろうか。
「いい加減――――頭を――――冷やせッ!」
それは緩やかな放物線を描き、杉元と岩息の傍に落下して――――分厚い氷の地面を叩き割り、男たちはみな極寒の湖へと落っこちたのだった。