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「全く貴様は!あんな暴挙に出おって!!」

鯉登はそう叫ぶと、ウォッカの入ったグラスをかんっとテーブルに叩きつけた。

「ああでもしないと止まらなかったでしょう」
「風邪でも引いたら捜索に支障が出るではないか!」

スチェンカ騒動がようやく落ち着き、杉元一行は件の酒屋で酒を酌み交わしていた。八百長計画が滅茶苦茶になったせいでご立腹の店主に門前払いをくわされそうになったが、鯉登が「こっちは客だぞ」と凄んだ上で金に物を言わせたのである。ちなみにスチェンカの賭けはあの騒ぎで有耶無耶になったそうだ。

「それに、岩息によれば水風呂に入るのがバーニャの正しい使用法だそうじゃないですか。ほら、心做しか男前に磨きがかかってますよ」
「む、そうか……?」

みょうじの言葉を真に受けて自身の頬を摩る鯉登を見て、月島は思わず漏れそうになった溜息を誤魔化すようにウォッカに口を付けた。彼女のせいで冷水に浸される羽目になったのは月島も同じだったが、彼の中では早くも過ぎた事として消化されていた。何より、彼女の言う通りああでもしないと杉元が止まらなかっただろうことは月島も同意だった。

その当の本人である杉元は、申し訳なさそうに大きな身体を縮こまらせている。

「あっ、それと貴様また無茶をしたな? 乱闘など参加せずに避難すれば良かったんだ」
「……別にあの程度、」
「そんな風だから嫁の貰い手がないんだろう!」

話を遮られ、実に失礼な言葉を浴びせられたみょうじはむっと鯉登を睨みつけた。流石に彼女を不憫に思ったらしい谷垣が「鯉登少尉殿、その辺りで」と口を挟みかけた時、杉元が「えっ」と声を漏らした。

「なまえさん、いい人いるんじゃないの? ええと……しなずがわ、だっけ?」

不意に落とされた爆弾に、みょうじがぴしりと身体を硬直させる。「は、?」鯉登と月島は些か愕然としたように目を丸くした。

「……忘れろと言ったはずだ」
「え、あっ!ごめん……!」
「待て待て、聞かせろ。いい人?――――まさか、みょうじに?」

不躾な視線を投げられて、みょうじは不機嫌そうに顔を背けた。しかし鯉登の追求は止まらなかった。酒が入っていることでいつもに増して面倒な人になっていることは否めない。

「……別に、あの方はそういうんじゃない。ただの兄弟子だ」
「ふぅん?その顔はそうは見えんが?」

にやにやと笑う鯉登に、みょうじの眉間にぐっと皺が寄る。それに目敏く気付いた月島と谷垣だったが、2人とも鯉登を止めることはしなかった。月島もその"いい人"とやらが気になったし、谷垣もそういった話は好きなのである。そしてやっぱり、酒のせいでもあった。人の色恋話ほど酒の肴に打って付けのものはない。

また、谷垣以上にこの種のネタを好む男が1人――――口を滑らせた張本人、杉元である。

「なまえさん、恋のお話……聞かせて?」

そう言って子犬のような目を向ける杉元に、みょうじはハァーとそれはそれは深いため息をついた。

「だから、そういうんじゃない。……死にかけていた所を助けられて――――剣の師を紹介してもらった。それだけだ」

鯉登が少し驚いたような顔で「貴様、刀が使えたのか」と問うたが、すぐさま杉元に「話が脱線するから黙ってろ」と遮られた。そんな2人のやり取りを横目に月島が口を開く。

「……『死にかけて』と言うのは、背中の傷を受けた時か」

月島の問い掛けに、みょうじは小さく頷いた。彼女と出会ってすぐ、陸軍病院で見せられた背中の傷が月島の頭を過ぎる。肩から腰にかけて伸びたあの長い4本線は、まるでヒグマにでも襲われたかのような深い傷だった。

――――『超常的な力をもつ不死の存在。人を喰らい生きる人ならざる者。……私の親も鬼に殺された』

かつてみょうじから聞かされたその話を、月島はぼんやり思い返した。きっと彼女が鬼に襲われたところを救ったのが、その"しなずがわ"という男なのだろう。彼女の言う『超常的な力』がどの程度のものかは分からないが、少なくともあんな傷を負わせることのできる化け物を相手にしたということは、相当な剣の手練に違いない。

「つまり命の恩人ってわけだ!で、どんな人なの?」

杉元が前のめりになってみょうじに尋ねる。彼女は面倒そうな顔をしながらも、言葉を探すように宙に視線をさ迷わせた。きっと今頃、彼女の頭の中にはその男の姿が浮かんでいるのだろう。右へ左へと移動した彼女の視線は、最後にぴたりと月島を捉えて止まった。

「……どことなく月島に似てる、かな」
「…………は、?」

思いがけない言葉が彼女の口から落とされて、月島は思わず素っ頓狂な声を漏らした。

「えっ月島軍曹!?……でも俺と間違えてたよね?」
「あー……、あの人もここに傷があるんだ」

みょうじは自身の鼻の付け根をちょんちょんと指し示した。それから「身体も杉元くらい傷だらけだし」と付け加える。そんな彼女の様子を眺めながら、月島は自分が年甲斐もなく浮ついている事を自覚した。

「月島に似ているとは、顔か?中身か?」
「雰囲気、ですかね…………もういいでしょう、私は帰って寝ます」
「馬鹿者、どうやって帰る気だ。それにまだ話は終わってないぞ」

立ち上がろうとした彼女を隣にいた鯉登が腕を掴んで引き止めると、「ほう、月島か……ふぅん」とにんまり月島を見つめた。月島はその視線に気付かない振りをして、くっと手元の杯を傾ける。

「それで?好い関係にはならなかったの?」

杉元の問い掛けに、みょうじはうんざりした様子で天井を仰いだ。何度も「そういうんじゃない」と答えているのにしつこく問いただされるせいだろう。しかし、その顔はどう見ても「そういうんじゃない」ようには見えない、と月島は思った。きっと杉元もそう思っているから追求するのだろう。何せ彼女の顔には珍しく女性の恥じらいみたいなものが帯びているのだ。

「だから、ハァ……」

みょうじは何度目か分からない深いため息をつくと、手元のグラスへと視線を落とした。鬱陶しそうに歪められていたその顔に、今度はふっと憂愁の影が差す。

――――私はあの方に『愚図』と見限られた身だ。不出来な妹弟子をもってさぞかし不愉快だったろうな」

そう言い終えて、みょうじはグラスに僅かに残っていた酒をぐっと飲み干した。それまで楽しそうに話を聞いていた杉元も、にやにやと笑みを携えていた鯉登も、きゅっと顔を引き締める。

月島は静かにみょうじを見据えながら、ある引っ掛かりを覚えた。彼女の仕事の能力は、この中ではおそらく月島が1番よく知っている。それは『愚図』と言うには程遠いものだったし、むしろ優秀すぎるくらいのものだった。

「お前の働きぶりに小樽の兵舎にいた者は皆舌を巻いたものだが……それを愚図、か」
「ふふ、なんだ月島、慰めてくれるのか」
「……事実を言ったまでだ」

みょうじは持っていたグラスをテーブルに置くと、「喋り過ぎたついでだ」と言って話を始めた。いつもに比べ明らかに口数が多いのは、きっと彼女もそこそこ酔っているのだろう。

「死にかけていたところを助けられた、と言っただろ。私は2度助けられたんだ。2度目は私が既に剣士の時だった」

強敵を前に、彼女は為す術なく追い詰められたのだという。仲間は殆どが死に絶えて、彼女も立っているのがやっとだった。そこに現れたのが件の男である。その人からすれば『雑魚』だったそれは、あっという間に屠られた。

そして男は彼女に向けてこう言った。

「『お前みたいな愚図はいるだけ邪魔だ。さっさと辞めちまえ』ってね。……それから私は刀を捨てて、後方部隊に回った」

彼女の言葉にその場がしんと静まり返って、みょうじは「悪い、酒が不味くなるな」と自嘲気味に笑った。

月島にはその"しなずがわ"という男がどんな人間かは分からない。しかし、何となくその男の考えが分かるような気がした。額面通りその言葉を受け取ったであろう彼女に「それは、」と口を開きかけて――――鯉登の声に掻き消された。

「それは、お前に生きていて欲しかったんだろう」

月島が言おうとしたことと殆ど同じ言葉を彼は放った。みょうじはぴくりと肩を揺らすと、些か呆然とした顔で鯉登を見た。

「おいには戦死した兄さあがおる。兄さあを同じ軍人として誇りに思うし、……寂しくも思う。おいにはなんとなく、そん男の気持ちが分かる」
「…………そう、か」

みょうじは空になったグラスへと視線を落として、もう一度「そうかぁ」と蚊の鳴くような声で呟いた。月島には、その声が微かに揺れているように聞こえた。

「それでも私はあの人の隣で戦いたかったんだ」