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その日、みょうじは懐かしい夢を見た。
北海道に来る前、まだ東京を拠点に隊士として働いていた頃の夢だ。任務で向かったとある山の奥深く、そこにぽつんと建っている茅葺き屋根の一軒家。既に廃墟と化したその家に、一匹の鬼が棲み付いていた。先に向かわせた隊士数名と連絡がつかなくなったとのことで、みょうじを含めた10名弱の隊士が新たに派遣されたのである。
鬼はすぐに見つけることができた―――が、無情にも全く歯が立たなかった。頸どころか腕の一本、指一本すら斬り落とせないのだ。果敢に立ち向かった者から殺されて、何の皮肉か、眼前に迫る死への恐怖ですっかり足が竦んでいたみょうじが最後に生き残った。括った筈の腹は不規則に痙攣し、握り締め過ぎた刀の切っ先がカタカタと震えている。鬼の舌なめずりが死刑宣告のように思えた。
あぁ、もう駄目だ。と全てを諦めた時、その人はやってきた。
「邪魔だァ!退けッ!」
どんっと荒っぽく押しのけられ、その勢いのまま床に倒れ込む。そうして見上げた視線の先で、あれほど苦戦していた相手は一瞬にして屠られた。とんっと音を立てて鬼の頭が床にぶつかるのを見て、みょうじは締め付けられていた胸がふっと軽くなるのを感じた。
「不死川様……!」
かつて自分の村が襲われた時、今と同じように死が目の前にあったあの時。そこで見た彼の背中と、いま目の前に広がる光景がぴたりと重なる。力強い彼の太刀筋は、いっそ恐ろしささえ感じるほどに頼もしく、そして美しい。その背中に何度憧れたことか。同じ型を用いているはずなのに、彼の剣さばきは自分のそれとは全く別物のように思えた。
「ありがとうございます……!助かりました!」
刀を鞘に仕舞う彼に駆け寄って、勢いよく頭を下げる。そうしてちらりと彼の顔を覗き見れば、分かりやすく怒りを孕んだ視線に射抜かれた。「最近の隊士は弱体化しすぎだ」と日頃から文句を零している人だから、その視線の意味もすぐに分かってしまう。妹弟子ということもあって、その台詞を吐かれた数はおそらくみょうじが一番多かった。
「もっと、もっと鍛錬します! いつか必ず、不死川様に追いつけるよ、う……ッ!」
何も言わない彼に焦りばかりが募っていき、まるで言い訳のように慌てて言葉を紡げば、それを遮るように床に押し倒された。胸ぐらを捕むその手に強く押さえつけられて、みょうじの口からぐっと声が漏れる。目と鼻の先で、獣のようにぎらつく2つの目玉が睨みつけてくる。
「この程度の雑魚も殺せねェでなんの冗談だァ? 言っただろォ、テメェに刀は向いてねェ。鬼殺の道を教えたのが間違いだった」
「……っ、」
そんなかつての記憶を、みょうじは舞台の袖からじっと眺めていた。第三者の視点で見ているせいか、どこか他人事のようだ。だけどこれは間違いなく自分の記憶である。この時、確かに私の中でガラガラと何かが崩れていく音がしたのだ。と、その時の事を振り返る。自尊心、夢、憧れ。たぶん、そういった類のもの。目を背け続けていたことから遂に逃げきれなくなったのだ。――――私に隊士は務まらない。
「……死など覚悟の上です」
なんて、いざそれが目の前に迫れば震えていることしかできないというのに。どの口が言うのかと、みょうじは過去の自分を眺めて自嘲する。
「女の肉は稀血の次に良い栄養源になる。自ら餌になる気か? それこそ迷惑な話だァ」
「わ、私は……」
「テメェの意思なんざどうだっていいんだよ。お前みたいな愚図はいるだけ邪魔だァ。さっさと辞めちまえ」
そう言ってようやくみょうじの上から退いた不死川は、フンと鼻を鳴らして部屋を出ていった。残されたみょうじはボロボロと涙を零している。そうだ、この時は涙で揺らぐ視界のせいで彼の後ろ姿は殆ど輪郭を失っていた。だからだろうか、夢の中でさえ彼の背中は滲んでその姿を上手く捉えることができない。
――――お前に生きていて欲しかったんだろう
不意に、鯉登の声がみょうじの頭に響く。
まさか本当に、そう思って私を突き放したんですか。「待って」紡ごうとした言葉は声にならない。ぼやけた背中はただ遠くなっていくばかり。それもそのはずだ。だってこの時、私はただ床に這いつくばって込み上げてくる涙に搔き暮れることしかできなかったのだから。不甲斐なさと、無力感。目を逸らしている内に積み上がっていた劣等感はついに噴き上げて、宿主ですら手に負えない程になっていた。
私も誰かを助けたかった。貴方の隣で戦いたかった。酷く不器用な貴方に寄り添い、支えたかった。――――だけどどうやら、その器量も資格も私にはなかったらしい。
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「……さん……、なまえさん、」
「っ……ん、」
「大丈夫? 随分うなされてたけど」
杉元に肩を揺さぶられ、みょうじはうっすらと瞼を上げた。普段は眠りの浅い彼女が中々目覚めなかったのは、きっとあの酒場で飲みすぎたせいだろう。みょうじは重たそうに身体を起こすとゆっくりチセの中を見回した。どうやら杉元以外は皆ぐっすり眠っているらしい。それにほっと安堵の息をついてから、寝汗で張り付いたシャツをぱたつかせ、雑に髪を搔き上げた。
「水、飲む?」気遣わしげに掛けられた声にみょうじは軽く首を振り、「ちょっと風に当たってくる」と外套を手にチセの外へと向かった。酒場で彼女の話を聞いたばかりの杉元は、少し迷ったのちに「俺も行く」とその後ろをついて行った。
チセから一歩外に出れば、そこには銀世界が広がっていた。風に当たる、と言うには些か寒すぎる。2人は殆ど同時にぶるりと身体を震わせて、それが妙に可笑しくて顔を見合わせて苦笑った。
「先に戻っていいぞ。私は一人でも大丈夫だ」
「いや、俺も眠れなかったから。ちょっとだけ」
「……ン、そうか」
「…………悪い夢でも見ちゃった?」
杉元はそう問い掛けると、自身の両手にハァーと息を吹きかけた。彼の指の隙間から漏れる白い息を眺めていれば、自然と鼻の上に走る傷も視界に入った。みょうじは前に杉元と不死川を間違えてしまった事を思い出して、不意に込み上げた羞恥心を誤魔化すように空を見上げた。
「昔の夢だよ。今までなら悪夢、だった……けど、鯉登少尉の言葉で少しだけ楽になった」
「へえー? そりゃあのボンボンもいい仕事したね」
「ハハ、ほんとだな」
みょうじはくすくすと忍び笑いを漏らしたのちに、ふぅとひとつ息をついた。空に瞬く星たちが一瞬白に紛れてすぐにまた顔を出す。空気に溶けていく白い吐息と星々の織り成す幻想的な景色にしばらく見とれたのち、みょうじはそっと杉元の方を見た。
「……湖に落ちる前のこと、覚えてるか?」
「え? ……その、なんとなくは」
「自分のこと、『役立たず』って」
「……あー、ウン。アシㇼパさんのこと守れてないしさ……このままじゃ相棒失格だ」
「ふふ、杉元くらい強くても悩みは尽きないんだな」
そう考えると自分の悩みはもはや烏滸がましいことのように思えてくる。そもそも目指した先が身の丈に合っていなかったのだ。最初から隊士など目指さなければ、あの人の隣に並べるだなんて勘違いをしなければ、きっともっと楽に生きられた。――――でも、夢見てしまったものは仕方がない。どうしてもそこに辿り着きたかったのだ。ただ、実力が伴わなかった。
まぁ、鬼も鬼殺隊もないこの世界ではそんな悩みを抱える理由もなくなった。それを喜ばしいと思えないのは、今も尚それに囚われているのは、悩むことさえ幸せな事だったからなのか。みっともなく過去に縋りついているとは実に滑稽な話だ。
そんな自嘲を頬に浮かべ俯いた彼女を、杉元は心配そうに見つめた。
「しなずがわって人のことは知らないけど、鯉登少尉の言う通りきっとなまえさんのことが大切だったんだと思うよ」
「…………どうだろうな」
「その……鬼、と戦ってたんだろ? 命懸けで。そんな時に他人のこと気にする余裕なんかないよ。少なくとも俺はそうだった」
「……ずっと守られてたのか、あの人に。少しくらい役に立ちたかったんだけどな」
途端、2人を包む空気がしんみりして、みょうじは「悪い、まだ酒が抜けてないみたいだ」と額に手を当てた。弱音を吐くのは好きじゃない。でも、時々思い出したように腹の底から溢れてくる。ずっと蓋をしてきたせいで、すっかり消化の仕方が分からなくなってしまった。きっと時が解決してくれると思っていたのに、いつまで経ってもその時は訪れない。あの世界を離れた今でさえ。もしかするとこのままずっと腹の底に巣食ったままなのかもしれない。それがあの世界にいた証だと思えば、いくら滑稽だろうと手放す気にもなれなかった。
それもまた一興、とみょうじは内心独りごちて「やっぱり外は冷えるな。戻ろう」と踵を返した。
2人は皆を起こさないよう忍び足でチセの中に入ると、外套を脱いですぐ床に就いた。それから少しして、杉元が「前にアシㇼパさんから聞いた話だけど」と囁くような声で話し始めた。みょうじがちらりと目線を寄越したものの、彼はじっと天井を見つめている。
「えーと、アイヌ語は忘れちゃったけど。……天から役目なしに降ろされたものはひとつもない、だったかな」
「……へえ」
「皆、神の国から役立つために送られてきたんだって。植物も、動物も、道具も自然現象も。だから俺にも……なまえさんにも、きっと何か役目があるはずだ」
みょうじはしばらく押し黙ったのち「そうか」と殆ど独り言のように返した。
「……送られてきたカムイ達は、元いたところには役目がなかったんだろうか」
「え、」杉元の視線がぱっとみょうじへと移る。何だか意味ありげに聞こえた彼女の言葉は、上手く飲み込むことができなかった。どういう意味だろう、そう思ってみょうじを見つめるがその横顔からは何も読み取れない。尋ねようとした杉元を遮るように、みょうじは「なんでもない」と寝返りを打ち背中を向けた。
「明日も早いんだ、そろそろ寝よう。……付き合わせて悪かったな」
そのままぷつりと2人の会話が途切れると再び静寂が訪れて、皆の寝息だけが部屋の空気を揺らした。
――――そんな中、月島が薄く瞼を持ち上げる。彼はちらりとみょうじに視線をやると、無言のままじっと彼女の姿をその目に留めた。そうしてまた静かに瞼を閉じたのだった。