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杉元一行は岩息と別れた後、樺太アイヌのコタンを経由し豊原に来ていた。豊原は樺太で一番大きな街だそうで、鯉登はようやくまともな寝床につけると喜んでいた。
みょうじはと言えば、別行動を良しとしなかった鯉登と月島をどうにか撒いて一人ぶらぶらと街を歩いていた。皆と旅をしている以上仕方ないとは言え、やはり四六時中行動を共にするというのは息が詰まる。一人の方が気が楽だし、先日酒のせいで妙に喋り過ぎた気恥しさもあった。
そう思って一人で聞き込みに買い物にと気の向くまま街をふらついていたのだが――――
(……なんの音だ?)
何やら上の方が騒がしいと建物を見上げれば、屋根の上を走る少年と、それを追いかける鯉登の姿があった。「少尉殿!」咄嗟に声をかければ、「貴様! こんなところにいたのか!」と険しい顔をした彼から文句が飛んできた。
「鬼ごっこですか?」
「ばかすったれ! 杉元の荷物が盗られたん、だッ! 」
そう言って屋根から屋根へと飛び移った鯉登を、みょうじも慌てて追いかける。
「岩息の写しは!?」
「あの背嚢の中だ!」
みょうじは屋根の上を走る少年の背中をきっと睨みつけた。私物だけならどうとでもなるが、あれだけは奪われるわけにいかない。
どこかで挟み撃ちにできればいいが、相手はどうにもすばしっこく先回りできそうにない。ふと、背中越しに振り向いた少年と目が合う。どこか余裕を感じるその表情に、逃がしてたまるかと走る足に力を込める。屋根に登ろうにも周辺には足場になりそうなものはなかった。どうせそのうち降りてくるだろうと思い直して、みょうじはそのまま地面を走り続けた。
そうして街の外れの方まで来たところで、彼女の予想通り少年が地面に降り立った。それを追うように木の枝を伝って飛び降りる鯉登――――しかし。「イデッ」彼のぶら下がった枝が折れてしまい、着地した彼の頭にゴンッと音を立ててぶつかった。「枝の太さくらい考えろ」そう言ってみょうじは悶絶する彼を追い抜いた。
このまま彼女のことも撒くつもりなのだろう、少年は細い道を右へ左へと折れていく。その身のこなしは実に素早いものの、足音までは消せていない。時々彼の姿は建物の影に隠れたが、みょうじの耳には背嚢の揺れる音までしっかり届いていた。これだけ音を立てて走ってくれるのなら見失うこともないだろうと、みょうじは敢えて少年から距離を取り、死角に入るようにして彼を追いかけた。彼の走りに疲れが見えてきたこともある。じきにどこかで休むに違いないと踏んだのだ。
しかし少年の走る足は中々止まらない。思っていたよりも随分と体力があるらしい。
「……なんだ、あれ」
しばらくすると、みょうじの前に小屋掛けをしている集団が現れた。迂回するのかと思いきや、少年はそのままその集団に合流しようとした――――が、それを遮るように「長吉!」男の怒鳴り声がして、少年がぴたりと立ち止まる。
「設営ほったらかしてどこ行ってやがった!」
男の鉄拳が長吉と呼ばれた少年の後頭部に打ち付けられる。それから「おめぇその背嚢どこで手に入れた?」と男が零したのと、みょうじが少年の元へ辿り着いたのは殆ど同時だった。2人のやり取りを無視して、みょうじがむんずと少年の首根っこを掴む。
「荷物を返してもらうぞ」
「え……!?」
足音を消して追いかけていたおかげか、少年もとい長吉はみょうじの存在がすぐ近くにあったことに気付いていなかったらしい。どうやらとっくに撒いたものと思っていたようだ。
「まさか、これはお嬢さんの荷物で……?」
「いや、連れのだ」
そう言って長吉の背負う背嚢に手を掛けた時、真後ろからパァンと弾けるような音が響いた。「逃げ切ったと思ったか?」追いついた鯉登が狼煙代わりに発砲したのである。きっとこの音を聞いて杉元達もすぐにここへやってくるはずだ。
「……遅れてきてよく言う」
「貴様が追ったのは途中からだろう!」
荷物を盗られてすぐに長吉の後を追ったらしい鯉登は、随分と長い距離を走ったせいで疲れきっているようだった。息は乱れその額には汗が滲んでいる。
「おどろいたな。追いつかれたのは初めてだ」
感心したようにそう言った長吉の顔には、反省の色も悪びれた様子も全くなかった。
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「申し訳ございません!よりにもよって兵隊様から荷物を盗むとは!」
杉元達が到着してすぐに、長吉とその保護者と見られる男は土下座して詫び始めた。杉元は「土下座なんてもういいよ」と2人を怒る気はさらさらないようだった。荷物はこうして無事に返ってきたし、何より今は先を急いでいるのだ。彼らに構う時間も惜しければ、警察に突き出すなんて余裕もなかった。
しかし、男は何故か被害者である杉元以上に憤慨していた。
「これ以上世間様にご迷惑をおかけするわけにはいきません!」
そう言って持っていた刀を抜いて、あろうことか長吉の頬を切りつけたのである。杉元が咄嗟に男を殴りつけ、谷垣が慌てて長吉に駆け寄った。みょうじは驚きのあまり出遅れて――――ふと感じた違和感に男の持つ刀を注視する。
「あれ?切れてない……」
谷垣の言葉に長吉の頬へと視線を移せば、切られたはずのそこには確かに血はあるものの傷ひとつなかった。「偽物の血か!」杉元が叫ぶ。
「ええ、こっちは本物ですけど」
鼻血を垂らしながら男が微笑む。曰く、それは「手品」と言うもので、刀はその小道具だそうだ。海外公演ではハラキリショーとして大反響だったらしい。とは言え「場を和ますつもりだった」というのは何とも的外れな気の効かせ方である。
男が種明かしのために差し出した刀をじっと観察してみれば、なるほど刀身が分厚いし刃文も不自然だ。先程の違和感はこれだったのかと、みょうじはそこでようやく腑に落ちた。
「じゃああんたら『芸人』か」
月島の問い掛けに、男は「こっちの長吉は軽業師です」と少年を目で指し示した。どうりであれだけ敏捷な身のこなしが出来たのかと、鯉登が納得した顔で長吉を見る。
「曲馬団『ヤマダ一座』、座長の山田と申します」
男はまるで英国紳士が軽く挨拶するように、シルクハットの鍔を摘んでそう言った。彼らヤマダ一座は、つい最近までロシア各地を巡業していたとのことだった。そして今回はここ、樺太での公演を控えているのだという。その話を聞いた杉元が、咄嗟に「これだ!」と声を上げた。
「俺を樺太公演に出せ!」
突然の要求に、その場にいたものは皆呆気にとられた。そんな彼らに、杉元が興奮した様子で言葉を継ぎ足す。目撃情報から考えるにアシㇼパはそう遠くにいないはず。ならば彼女を探すよりも、彼女に"気付いてもらう"方が手っ取り早いのではないか、と。
「『不死身の杉元ハラキリショー』でこの大都市豊原に俺の名前を轟かすんだ!」
それに慌てて異を唱えたのは他でもない山田だった。そう簡単に部外者、それもずぶの素人を出演させるわけにはいかないのだろう。何せ彼らは世界を股にかけるれっきとしたプロ集団なのだ。「そもそもハラキリを他人にさせるってことは手品のからくりを明かすということですよ!」山田の主張はごもっともだ。
しかし杉元は食い下がった。「長吉を警察に突き出す」「芸人になる気はないからカラクリは墓場までもっていく」そう言って山田に迫るその様子は最早脅迫――――否、まるで女を口説き落としている風に見えるのはどういうわけか。
何故か照れたようにウジウジし始めた山田にみょうじが呆れた視線を送っていると、長吉がとある提案をしてきた。
「そちらの方々も出演して頂くのが条件ならいいのでは?」
突然話を振られ、月島と谷垣が動揺を見せる。みょうじはまたこの流れか、と内心げんなりした。杉元が突拍子もないことを言い出して、周りが巻き込まれる羽目になる――――まさにスチェンカの時と同じだ。そんな彼女の心境を知る由もない長吉は「特に……そちらの方」と鯉登を手で指し示した。
「オイラが見るにこの世界が向いてると思いますよ」
その顔には自信が満ち溢れていた。これがついさっき盗みを働いたばかりの者が浮かべる表情なのかと思う程のドヤ顔である。というかそもそも、彼は最初から悪びれた様子をこれっぽっちも見せていない。なんともふてぶてしい子どもである。
しかし杉元の提案は確かに理にかなっているから、今となっては荷物を盗まれたことは怪我の功名と言えるのかもしれない。そうでなければこんな話が舞い込んでくることもなかったのだから。
兎にも角にも、そういう訳で杉元一行の出演が(半ば勝手に)決定したのだった。