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杉元一行がヤマダ一座の公演に出演することが決まった翌日、山田の提案によりみょうじは主に鯉登と芸をすることになった。最初は女が見せる芸から入り、そこから力技――――土台となり鯉登を支える役に回る、大雑把に言えばそんな流れである。

「みょうじ、遅い。拍子を合わせろ」
「鯉登少尉殿の方が余裕そうではないですか。あなたの方でなんとかして下さい」
「……むう、ではもう少しゆっくりやる」

鯉登はなんともまぁ器用な男だった。異様に身軽で難しい技も難なくやってのけるのである。いくらみょうじも運動神経が良いとは言え、彼の習得の速さについて行くのは骨が折れた。何せ鯉登は芸の手本を見せてもらっただけで成功させてしまうのだから。

しかしそれは鯉登が異常なだけであって、みょうじの習得の速さも十分ヤマダ一座の人間を驚かせた。「おふたりは十分公演に間に合いそうですね」長吉が満足そうに笑みを浮かべる。しかし皆が皆、鯉登とみょうじのように順調にいっているわけではなかった。

「南無阿弥陀仏ァ!!」

突然聞こえてきた念仏に、鯉登とみょうじは何事かと声のした方を見た。どうやら杉元がハラキリショーの練習をする中で、演出のつもりで叫んだようだった。それからも「冷たい! 冷たい! 水が冷たい!」「斬るよぉ〜? 斬るよぉ〜?」「痛だだだだッ! いっったーッ!」とあまりにも大袈裟な芝居の声が聞こえてくる。大根役者もいいところだと、みょうじは引き気味に苦笑った。芸を教えている山田も杉元のくさい演技には手を焼いているらしく、その表情と身振り手振りから困惑しているのがよく分かる。

鯉登はと言うと、杉元を一瞥してフンと鼻で笑うと「みょうじ、続きをやるぞ」と芸の練習を再開した。一本竹上乗芸――――みょうじの肩に乗せた長い竹を登っていく彼は隠しようもない得意顔をしている。きっと練習が上手くいっていない杉元に見せつけているのだろう。まるでそれを煽るように(本人達にそのつもりはないのだろうが)、近くにいた女子たちが「きゃあっ」と黄色い声を上げる。丁度そこにやってきた長吉が、鯉登を見上げて声を掛けた。

「観客に向かってキスを投げて下さい」
「キスを投げるとは?」
「『投げ接吻』です。海外では受けるんですよ」

長吉が実際にやってみせると、鯉登もそれを真似してチュッとキスを投げた。途端、女子の黄色い声がもはや悲鳴に近いものに変わる。

「どうだみょうじ、見惚れたか」
「はぁ、その得意顔が腹立ちますね」
「ふふふ、お前も素直になっていいんだぞ」

どうやら鯉登はみょうじの嘲罵すら効かないほどに天狗になっているらしかった。これだけ女子たちに騒がれては仕方の無いことかもしれない。まァ、確かに鯉登には華があるし、それは山田も感心する程のものだ。が、しかし。みょうじは彼が鶴見を前にした途端ポンコツになる事をよく知っている。猿叫を上げ、畳を掻きむしり、日本語すらまともに喋れなくなる彼を今さら貴公子のようには見れやしない、というのが彼女の本音であった。

「いい加減にしろ鯉登少尉ッ! お前は樺太公演に必要ないぞ!」

チヤホヤされている鯉登に我慢ならなくなったのか、杉元が鯉登を指さして怒鳴り上げた。確かに彼の言う通り、元々の目的は「アシㇼパに杉元が生きていることを知らせるため」であるから、鯉登が目立つ必要はひとつもないのだ。そもそも杉元以外の人間は、長吉の出した条件として出演することになっただけなのだから。しかしそんな杉元の主張を、鯉登は真面目くさった顔で一蹴した。

「文句があるなら実力で私の芸を凌駕すればいいだろ。私に軽業を止めさせようとするのは……貴様の『血みどろハラキリ芸』に自信がない表れではないのか?」

杉元は返す言葉がないようで、ただぐっと顔を顰めさせただけだった。そんな彼にさらに追い打ちをかけるように鯉登が声を荒らげる。

「その程度の気概で『この街に杉元の名を轟かそう』など片腹痛いわ!」

それから「アシㇼパに気付いてもらうためなら芸はみょうじに任せた方が良いのではないか?」と蔑むような笑みを浮かべる。突然自分の名前を出されたみょうじは「私を巻き込まないで欲しい」と思わずにはいられなかった。そして人の上に乗ったまま言い争うのも辞めて欲しい。ただまぁ、口を出すと余計に面倒なことになりそうなので彼女は無関心を貫いた。

結局杉元は「ぐぬぬ」と悔しそうな顔をして足早に去っていった。下手に殴り合いなどにならずに済んで、みょうじはほっと胸を撫で下ろす。なにせ鯉登を支えている以上、暴れられると直接被害を受ける羽目になるのだ。

「そうだみょうじ、お前も投げ接吻をやったらどうだ」
「……いえ、私は」
「せっかく着飾るんだから男性客を魅了してみろ」

断るのも面倒に思ったみょうじは、鯉登に向かってぞんざいな投げ接吻を飛ばした。本当に手の仕草だけの、愛嬌も何もないものである。鯉登はそれにむっとしながらも「私にしてどうする。客にやれ、客に」と、彼女の死んだ目を咎めることはなかった。みょうじが人に愛想を振りまく姿が微塵も想像できなかったのである。

鯉登に指摘されたみょうじはと言えば、客にやれと言われても、と内心少し戸惑っていた。なにせ今は練習中であり、ここに客などいないのだから。見物している女子たちはいるものの、同性に投げ接吻をしたところでどうせ文句を言われるのだろう。誰か近くに男はいないだろうかと辺りを見回すと、少し離れたところで少女団に混じり踊りの練習をしている月島と目が合った。

丁度いいと言わんばかりに、みょうじは月島に向かって投げ接吻をして見せた。途端、フミエの手拍子に合わせて身体を動かしていた月島がピタリと硬直する。

「ハ〜ジ〜メェ〜!!どうしたんだい!動きが止まってるよ!」

すぐにフミエの怒号が飛んで、月島が焦った様子で踊りを再開する。みょうじは月島の狼狽えようがおかしくて、堪らずふっと吹き出した。まさか月島があそこまで動揺するとは思わなかったのだ。

「くく……、はははっ」

最初はぷるぷると震えるだけだったが、ついに堪えきれなくなったらしいみょうじが愉快そうに笑い始めた。その様子を鯉登が呆然と見下ろした。彼女がこんな風に笑うのを初めて見たのだ。しかし彼女が笑うと肩に乗せている竹が震えて、鯉登の足元がぐらぐら揺れる。「お、おい! 揺らすな!」そう言いつつも、ご機嫌に笑う彼女をこのまま見ていたい気持ちもあった。

しかし、それも束の間。

――――あッ、」
「うわあッ」

ついには鯉登を支えていた竹のバランスが崩れ、彼の足元が大きく傾いた。床に振り落とされそうになったところで慌てて飛び降りて、なんとか無事に着地する。

「すみません。大丈夫ですか」
「…………問題なか」

申し訳なさそうに駆け寄ってきた彼女の顔には、当然先程の笑顔は消え失せている。それを残念とは思うものの、振り落とされたことを叱りつける気には到底なれなかった。

鯉登はそこではっとして、慌てて周囲を見回した。近くにいる人は皆、自分の練習に夢中なようでこちらを気にもしていない。――――つまり、彼女の笑顔を見たのは自分だけということだ。どうしてか優越感がじわじわ込み上げて、鯉登は思わず「うふふ」と笑みを零した。

「……なんですか気持ち悪い」
「なんでんなか」

失礼すぎる彼女の言葉も、もはや鯉登にとってはどうでも良いことだった。