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件の監獄へと向かうため、杉元一行は豊原を出たあと真っ直ぐ国境を目指すことになった。豊原から目的地までは結構な距離があるから、ここに来て鯉登が犬橇を雇ったことが大いに役立った。「私に感謝するんだな」鯉登が得意げにふんぞり返り、杉元がうんざりした様子でブツブツと文句を零す。そんな2人の様子にすっかり慣れていた面々は、素知らぬ顔でそれをやり過ごしたのだった。

そうして一行が北上を続け豊原と国境の中間地点をようやく過ぎた頃、突然の猛吹雪が彼らを襲った。

「急に天候が崩れてきた!」
「避難しないとまずいです!」

焦りを含んだ鯉登の言葉に月島が答える。しかし周囲を見渡してみるも辺りは雪景色と化しただだっ広い草原があるだけだ。避難できそうな場所は見当たらない。せめて近くの村に辿り着くまではもってくれよ――――そんな願いも虚しく、吹雪はどんどんと激しさを増し、みるみるうちに五感が奪われていった。視界は白に遮られ一寸先も見えやしない。それどころか目を開けているのもやっとだ。さらにはゴウゴウと吹きすさぶ暴風が周囲の音をかき消していく。

「ヘンケ、あっち建物見えたって!!」

かろうじて聞こえてきたエノノカの言葉に、みょうじはほっと胸を撫で下ろした。一旦そこで吹雪が止むのを待った方が良いだろう。こんな氷点下の極寒にさらされていてはあっという間に凍死してしまう。なにせ息をする度に肺が凍りつきそうなのである。早く建物に入って暖を取らなければ​――――そこまで考えて、ふとある事に気付く。

「……杉元達は!?」

橇の一番後ろに乗っていたみょうじは、ハッとして振り返った。白くけぶって殆ど何も見えない視界の先をじっと目を凝らして見回し――――嫌な予感が的中したことを悟る。

「杉元達がいない!」

みょうじの言葉に、彼女のすぐ前にいた月島は弾かれたように振り向いた。そうして先程の彼女と同じように、後方にくまなく視線を走らせた。が、やはり彼らの姿は見当たらない。月島は慌てて犬を止めさせて橇から降りると「杉元ォ!」と空に向かって発砲した。しかしこの猛吹雪があっという間に銃声をかき消してしまう。

一縷の望みをかけて応答がないか耳をすませてみるが、聞こえてくるのは激しい風の音だけ。「何か聞こえましたか!?」「なんだって!?」最早近くにいる人間の声さえ聞き取り辛くなってきた。

「月島ァ! 我々もこのままでは危険だぞ!」そんな鯉登の言葉も月島には届かなかった。みょうじは咄嗟に月島の傍まで駆け寄ると、ぐっと彼の腕を引いてその体を引き寄せた。そうして彼の耳元に向かって声を張り上げる。

「この雪じゃ私たちまで危ない! 一旦避難しよう!」

月島は逡巡するように辺りを見渡したのち、彼女の言葉に頷いた。

「行こうッ! さっき見えたという建物に避難だ!」



月島達のいたところからヘンケが見たという家までは比較的すぐの距離だった。とは言えこの悪天候では方向感覚さえ狂ってしまうから、そこに無事辿り着けたことは運が良かったと言えるだろう。

「牛がいるぞ月島! 誰か住んでる」
「住民を探すのはあとにして、とにかく火を起こして暖まりましょう」

人の家とは言え背に腹はかえられない。月島達は急いで薪を集め、火を焚く準備に取り掛かった。

「杉元達はどうする?」
「谷垣がいるから簡単には死なないと思いますが……」

不安が帯びた2人の会話を聞きながら、みょうじはヘンケが火を起こすのをじっと見ていた。もちろん頭の中ははぐれた杉元達のことでいっぱいである。月島の言う通り、雪山に慣れている谷垣ならきっとこの悪天候での対処法も知っているだろう。どうにか彼の知恵で吹雪が止むまでやり過ごしてもらえればいいが、如何せん気温が低すぎる。ただでさえ樺太は北海道よりも更に厳しい気候なのだ。その上この辺りには風よけになりそうなものもないだろうし、となると火を焚くことすら厳しい。つまり、状況は絶望的なのである。

いても立ってもいられなくなって、月島、鯉登、みょうじの三人は少しだけ火に当たってすぐに建物の外に出た。月島が空砲を鳴らし、応答がないか耳をすませる。そう遠く離れてはいないはずだが相変わらず彼らの気配はないし、応答の銃声も聞こえない。不吉な予感が段々と確信めいてきて、重たい空気が3人の間を漂った。と、そこへ一人の男が現れる。

男は持っていたランプで月島達の顔を照らすと「Что случилось?」と何やらロシア語で問い掛けてきた。

「……ここの住人か」

月島が端的に事情を話せば、男は踵を返し「иди за мной」と顎をしゃくった。鯉登とみょうじが月島を一瞥すると、「ついてこいと言っています」と彼もロシア人の後に続く。それに促されるように二人も月島の背中を追った。

そうして案内された先はすぐ隣の建物で、扉を潜るとすぐ目の前に階段が現れた。一体ここに何が? そう思いつつも3人は先導するロシア人の後をついていく。

そして階段を登りきった先にあったものは――――大きな灯台のレンズだった。

男は雑巾を差し出して、何やら指示を出した。みょうじがもう一度レンズの方に視線を移せば、なるほどススで酷く汚れている。彼女は雑巾を受け取ると、月島と一緒にレンズの内側に入って汚れを丁寧に拭いて行った。

汚い仕事は嫌なのか、鯉登は雑巾に触れようともしなかった。まぁ、渡された雑巾は二枚しかなかったから別に構わないのだが、みょうじはため息を禁じえなかった。「ボンボンが」いつか杉元が言っていた蔑称が彼女の頭を過ぎる。

しばらく掃除を続けレンズが綺麗になったところで、ようやく灯台に火が灯された。煌々と光を放つそれに、眩しさのあまりきゅっと目を細める。これだけ明るければ杉元達も気付くかもしれない。否、気付いてもらわなければならない。

「……無事だといいが」
「あいつは不死身だ。殺しても死なないような奴だから心配するな」

ぼそりと零したみょうじに、月島が淡々と答えた。『殺しても死なないような奴』とは何とも言い得て妙である。みょうじは「そうだな」と薄く笑った。

そうしてふと、部屋が明るくなったことで自身の汚れが目についた。

「手が真っ黒だ」
「……顔にもついてるぞ」
「え、嘘」

みょうじが自身の頬を外套でゴシゴシ拭えば、月島が「そっちじゃない」と彼女の顔に手を伸ばす。そうしてその頬に触れかけたところで――――自身の手も真っ黒な事に気付く。すんでのところで手を止めて、それと同時に、仮にも女に対して何を無遠慮に、と決まり悪そうに視線を落とした。

「……後で水をもらえるか聞いてみる」
「? あぁ、頼んだ」

月島の態度に違和感を覚えつつもみょうじは特に言及することなく、そっと窓の向こう側へと視線を移した。外は先程と変わらず猛吹雪が続いている。この悪天候の中、一夜を明かすのは容易ではないだろう。どうか気付いてくれ、とみょうじは固く拳を握った。そんな彼女の視界の先を鯉登がキョロキョロしながら横切っていく。その様子に月島とみょうじが呆れた視線を飛ばした。

「鯉登少尉殿、前をうろちょろしないでください。光を遮りますから」
「少しはじっとできないんですか。エノノカを見習ったらどうです」
「この光で杉元達が見えるかもしれないだろう!」

月島はひとつため息をついて「どうせこの風と雪では助けに行けませんから」と彼に下に降りるよう促した。なんでも先程のロシア人が紅茶を振舞ってくれるらしい。

杉元達がこの家に辿り着いたのは、それからすぐのことだった。