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「このスーシュカという菓子パン……お茶うけにとても合う! 鶴見中尉殿に教えてあげたい。みょうじ、作り方を聞いておけ」
「……ハイハイ」

杉元、谷垣、チカパシの3人が息も絶え絶え家に辿り着いた時、鯉登はロシアの菓子パンに舌鼓を打っており、みょうじもその隣で紅茶に口をつけていた。放心しているのか棒立ちのままハァハァと肩で息をする3人に、みょうじがそっと視線を寄越す。

「無事で何より。早く身体を温めた方がいいんじゃないか?」

その言葉で杉元達はようやくそわそわと部屋の中を見渡し始め、そんな彼らに月島が「ペチカの上がこの部屋で一番暖かい」と教えてやった。曰く、ロシア人は冬になるとその上で眠るのだという。それを聞くや否や3人は慌ててペチカによじ登った。が、この部屋にあるペチカは一人用なのか杉元達三人には狭すぎるようだった。ぎゅうぎゅう詰めになった彼らを見上げ「ふふ、……虫みたい」と鯉登が笑う。

「……お前ら命拾いしたな。あの燈台は日露戦争以降もう使われていないものらしい。この人達がいなかったらお前ら今頃カチンコチンだ」

月島はそう言うと夫婦の方に向き直り「Спасибо」と声を掛けた。それに応えるように夫婦が揃って優しい笑みを浮かべ頷く。「どういう意味だ?」「『ありがとう』だ」みょうじの疑問に月島が簡潔に答える。彼女は「へぇ」とひとつ相槌を打つと、持っていたティーカップを置いておもむろに立ち上がった。

「危なかったのは私達も同じだ」

そう言ってみょうじが「スパシーバ」と彼らの言葉でお礼を言うと、2人はやっぱり柔らかい笑みを返してくれたのだった。



寒さでげっそりしていた杉元達も、朝にはすっかり元気になっていた。あのペチカと、夫人が振舞ってくれた紅茶と軽食のおかげだろう。

一夜明けて天気も落ち着いたことだし、一行はすぐに国境へ向けて出発​―――することはなく、まずは橇を一台作ることになった。というのも、杉元達が乗っていた橇は暖をとるために燃やしてしまったのだ。作業を進めるヘンケに「ごめんね、ソリ壊しちゃって」と申し訳なさそうに杉元が言う。しかしヘンケは何の事はないとでも言うように手早く橇を組み立てて、フーッとひとつ息をついた。

「あっ……完成!?」
「そんなにすぐ出来るものなのか。すごいな」

「流石ヘンケだぜ!!」杉元の言葉に同意するようにみょうじが頷く。これでようやく出発できるな、と思ったその時「月島ァ!」鯉登の縋るような叫び声が響いた。

「金槌が手にくっついた!」

その言葉通り手に金槌をぶら下げた鯉登に、この寒さならそりゃそうなるだろうとみょうじが呆れた視線を送る。月島が「無理やり剥がせば手の皮が破けます」と忠告すれば、鯉登はさっと顔を青くした。「誰か小便をかけて融かしてやれ」続けられた言葉に今度は虚無の顔に切り替わる。

みょうじには鯉登の気持ちがよく分かったが、先の戦争で惨い環境を生き抜いた月島からすれば小便くらいどうってことはないのだろう。彼の口振りから察するに、実際にそうやって融かすこともあったのかもしれない。

同じく戦争経験のある杉元が名乗り出て、あろうことかその場でズボンを緩め始めた。しかし相手はあの鯉登である。雑巾にすら触れようとしなかった綺麗好き―――否、潔癖の彼が素直に手を差し出すわけもなく、そのまま逃げるようにして小屋を出た。そして杉元がそれを追いかける。

小便で融かすだなんてあの人が受け入れるはずもないのに、とみょうじは助言した張本人にじとりとした視線を送ったが、さっと目を逸らされてしまった。その反応からして月島は分かった上で敢えてああ言ったのかもしれない、とみょうじは思った。常々あの人の言動に振り回されている男だから、軽くお灸を据えようとした──という線も無くはないだろう。

みょうじは軽いため息をついたのち、気怠そうに2人の後を追った。雪の振る中、局部を出して追いかけっことはなんとも珍妙にして滑稽である。杉元のあれは善意ではなく完全に嫌がらせだろう。馬鹿らしいと思いながらもしばらくその様子を眺めたあと、みょうじがようやく助け舟を出す。

「鯉登少尉殿! ペチカで温めてはいかがですか」

その呼び掛けに気付いた鯉登がみょうじの方に駆け寄って来て、杉元も流石に彼女にソレを見られるのは憚られたのか、いそいそとズボンの中に仕舞い始めた。

「そうか、その手があったか」
「さっき夫人が食事の準備をしていましたからお湯がもらえるかもしれません。……小便よりましでしょう」
「当たり前だ!」

そうして2人は夫人の元へと向かい、ひとまずはペチカで金槌を温めることにした。が、べったりとくっついたそれは中々取れそうにない。試しにみょうじが軽く引っ張ってみたが、そのまま鯉登の手も一緒についてきた。

「やめろ! 皮が剥がれる!」
「……やっぱりお湯の方が早そうですね」

結局みょうじが身振り手振りで夫人にお湯を頼み、ようやく金槌が鯉登の手から離れた。手のひらが少し赤くなっているが問題はないだろう。手を握ったり開いたりを繰り返す鯉登を横目に、みょうじは部屋に来たついでにと夫人の手伝いをすることにした。

とは言っても彼女にはロシア語もこの国の料理も分からないから、出来た料理を運んだり使った道具を洗ったりするだけだ。言葉が通じずとも案外意思疎通は出来るもので、夫人が料理を指差した後にテーブルを指差せば「運んで」だし、それが流し台であれば「洗って」である。指し示され、頷き、作業して、「Спасибо」にっこり笑う夫人にみょうじも薄く笑みを返す。

「どういたしまして」をロシア語でなんと言うのか、月島に聞いておけば良かった。初めて見る赤いスープを見下ろしながら、みょうじはそんなことを思った。



皆で囲ったテーブルの上に、所狭しと料理が並べられた。どれも見慣れないものばかりだが、鼻を掠める香りが腹を刺激する。どんな味だろうと少し口をつけて、その美味さが分かれば後はあっという間だ。料理は次々に皆の胃に吸い込まれていった。

「『美味しい』はロシア語でなんていう?」チカパシの質問に月島が「フクースナ」と教えてやれば、皆が「フクースナ」と口々に言った。思い出すのは「ヒンナヒンナ」と言いながら、いつも美味しそうに食事をしていたあの少女である。今もこの樺太のどこかでそうやって食を楽しんでいればいいけれど。あの子はもう笑顔を失っているかもしれない、なんてことは想像もしたくない。

少ししんみりしてしまった気持ちを振り払って、みょうじはボルシチに口をつけた。危ないところを助けてもらった上に、寝床を提供し更には料理まで振舞ってくれる2人に辛気臭い顔を見せたくなかったのだ。

「いつもふたりだけなので賑やかな食事は嬉しいとさ」

月島の言葉にふと夫婦の方に視線をやれば、2人はにこにこと微笑んでいる。胸の辺りがじんわり熱をもつのは、きっとこの温かい食事だけが理由ではない。

「ご家族は他にいないの?」
「あの写真は娘か?」

杉元と鯉登の問い掛けに、夫婦から笑顔が消えてふっと影が落ちた。曰く、娘はロシア軍の脱走兵に連れ去られてしまったのだという。軍や政府を頼るも動いてくれることはなく、そのくせ戦争の時には「日本軍に利用される前に燈台を爆破しろ」と要求だけは一丁前。2人は反発心からそれを無視し、むしろ日本軍に手を貸すことを選んだそうだ。

しばらくして新しい燈台が作られここは不要になったものの、2人は新しい家に移り住むことは考えなかったという。―――家族の思い出が詰まったこの燈台で、娘の帰りを待っているのだ。

月島を介して語られるそれらの話に耳を傾けながら、みょうじは娘を思い涙を流す夫人とその肩を抱く夫君をじっと見つめた。その姿を自身の両親と重ねたのだ。私もこんな風に愛されていたのだろうか、と。多分、いや、間違いなくそうだった。ただ、今はもう両親の墓に手を合わすこともできないし、平穏を奪ったあの化け物に復讐する術も失ってしまった。

みょうじは不意に喪失感に襲われて、そのやり場のない感情を誤魔化すように皆の顔を見回した。彼らの顔に浮かんでいるのは心配、同情、はたまた共感、―――エノノカに至っては感極まってもらい泣きしている―――そして最後に隣に座る月島を見て、思わずぎょっとした。咄嗟にテーブルの下で彼の足を自身の膝で小突く。月島は僅かに肩を跳ねさせると、視線だけ彼女の方に向けた。

「なんて顔をしてるんだ」

月島の方に僅かに顔を傾けて、みょうじはぼそりと呟いた。月島の顔からごっそりと感情が抜け落ちていたのだ。心配や同情の類でもなく、かと言って冷めているわけでもない、ただただ能面のようなその顔はこの場に全くそぐわないものだった。

みょうじに指摘された月島は、ばつが悪そうに自身の頬をさすったのち、ようやくいつもの表情に戻った。それはそれで大概無愛想な面ではあったが、あれよりは幾らかましだろうとみょうじは思った。それと同時に、彼は彼で何かしら仄暗い過去をもっているのだろう、とも。

まぁ、例えそれが分かったところで、深入りするつもりはさらさらないのだけれど。