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夫婦に別れを告げ燈台の家を出た杉元一行は、国境まであと140km―――新問付近まで来たところで樺太アイヌのコタンに滞在することになった。

「アシㇼパ! アシㇼパ!」

杉元がアシㇼパの写真を手にコタンの子共たちに聞き込みをする。が、どうやらこの村には立ち寄っていないようだった。樺太に来た当初に比べ杉元に落ち込む様子が見られないのは、アシㇼパの行先に予想がついているからだろう。ただやみくもに追っているわけではないという事実が、彼にいくらかの余裕を生んでいた。

「じゃあこっちは? 名前はえーっと……なんだっけ」

今度は燈台守の夫婦の娘―――スヴェトラーナの写真を手に問い掛ける。助けてもらった恩返しに、アシㇼパ捜索の傍ら彼女のことも探してみるとあの夫婦に約束したのである。しかし残念ながらこちらも情報を得られることはなかった。

脱走兵に連れ去られたのは数年前の話だそうだから、彼女を見つけ出すのはアシㇼパ以上に難しいだろう。わざわざそれを口にする者はいなかったが、おそらく老夫婦だって十分理解した上で杉元に写真を託したはずだ。ただ、少しでも望みがあるのならそれに縋りたいと思うのが親心というものだろう。

杉元が二枚の写真を衣囊へと仕舞うのを、みょうじはその隣でじっと見つめた。前から思ってはいたが、なんとも律儀な男である―――いや、お人好しと言うべきか。確かにあの老夫婦は命の恩人に違いないが、月島が協力を渋ったよう自分達には今重要な任務があるのだ。それに誰よりも必死でいるのは杉元だというのに。老夫婦の話を聞いて、慰めて終わるだけでも十分だったはずだ。まぁ、その律儀さが彼の良いところでもあるのだけれど。

「可能性があるならロシア領の方かもな」

気休め程度にしかならないが、僅かな希望をもってみょうじはそう言った。あの夫婦に報いたいと思っているのは彼女も同じなのだ。

「ロシア軍の脱走兵って言ってたしね。……監獄があるのは大きな町なのかな。そこで情報が得られればいいけど」
「少なくともここよりは人がいるだろう……見つかるといいな」

「うん」と杉元はひとつ頷いて、先ほど写真を仕舞った衣囊にそっと手を這わせた。




「チカパシ聞いて、こないだこの村メコオヤシ出たって」
「なにそれ怖いやつ!?」

暫しの休憩として一行がチセでまったりしていると、エノノカとチカパシがそんな話を始めた。メコオヤシとはエノノカ曰く「樺太アイヌの昔話に出てくる猫の化け物」だそうだ。

「毛皮に赤と白のブチがある犬みたいに大きな猫」
「オオヤマネコだな……」

その化け物の特徴を聞いた月島がぼそりと呟いた。どうやらこの地域に生息する猫らしい。

「フン、尾形百之助じゃないのか? いよいよ奴らに近付いたか」
「なんで尾形なんだよ」
「『山猫の子供は山猫……』」
「どういう意味だよ?」

鯉登と杉元の会話に、谷垣がどこか気まずそうな顔をする。鯉登の言った意味を分かっているのだろう。その表情からあまりいい話でないことは容易に想像がつく。話についていけない杉元とみょうじが窺うような視線を向けるが、鯉登はそれ以上説明する気はないようだった。そんな彼の代わりに月島が口を開く。

「山猫は『芸者』を指す隠語だ。師団の一部の連中が言っていたくだらない軽口だ」

つまり尾形は芸者の―――妾の子なのだろう。十数年前に廃妾論が唱えられ一夫一婦制が確立したとはいえ、妾文化は未だ根強く残っている。なにせ男が妾を囲うことは自身の甲斐性や社会的地位を証明するものとされているのだから。ただまぁ男のそれらが証明されたとて、妾とその子どもは日陰の存在でしかないのだけれど。

「本当にくだらねぇな……」
「軍人や政治家は好きですよね、……出生、所謂血筋というやつですか。全く馬鹿馬鹿しい」

実力主義の組織にいたみょうじにとってはどうにも受け入れ難い考えだ。鬼殺隊の最高位にいる不死川は貧困層の生まれであるし、胡蝶の継子―――それもとんでもなく優秀な​―――栗花落にいたっては親に売られた過去をもつ。血筋で言えば煉獄が由緒ある一族の生まれだが、その弟には剣の才がない。つまり、身分と個人の能力は必ずしも一致しないのである。

そもそも鬼の前では血筋もくそもないのだから。あるのは「強ければ生き残り、弱ければ死ぬ」ただそれだけ。血筋も年齢も性別も関係なく、その事実の前では皆等しく平等なのだ。

「あの性格だ、嫌ってる人間も少なくない。私も大嫌いだ。それに『山猫』にはいんちきとか人を化かす意味の隠語もあるだろう? くだらん軽口だが、しかし案の定……ではないか」

呆れたような様子の杉元とみょうじに、鯉登がすかさず反論し「違うか?」と念を押す。みょうじは不快そうに眉を顰める杉元の反応を待った。

彼が「くだらない」と言ったのはきっと本心なのだろう。しかし彼もまた尾形をよく思っていなかったことは事実だ。鯉登に賛同はしたくない、しかし否定もしきれないといったところだろうか、杉元は硬い表情のまま黙り込んだ。かと思うと、ふっと彼の視線がみょうじの方を向いて2人の視線がかち合った。

それはすぐに逸らされて、彼は再び鯉登の方へと視線を戻す。その横顔には気まずそうな、それでいて気遣わしげな色が浮かんでいるものだからみょうじは怪訝そうに首を傾げた。

「……辞めろよ、なまえさんは尾形と仲良いんだから」
「「エッ」」

杉元の口から紡がれた言葉に思わず声を上げたのは鯉登と月島だった。しかしそれ以上に驚いたのはきっとみょうじ本人だろう。

「私が、……尾形と? 冗談はよしてくれ」
「みょうじ貴様、 尾形のせいでずっと師団に戻れなかったのではないのか? まさか2人で芝居を打ってたのか?」
「そっ、―――そんなわけがないでしょう」

鯉登の詰問にみょうじは思わずどきりとして、慌てて平然を装った。しかしその僅かな隙を鯉登が見逃してくれることもなく。

「なんだ今の間は! ……谷垣一等卒、お前もしばらく一緒だったんだろう? どうなんだ」

急に話を振られた谷垣が「お、俺ですか」と狼狽えて、鯉登(と月島)の探るような視線に晒されながら必死に北海道での旅を思い返した。

「仲が良い、という程では……でもよくみょうじの隣にいたような……」
「アイツが何かと突っかかって来てただけだ」
「あー確かに尾形の奴、なまえさんにやけに執着してたよな」
「…………尾形は私に利用されたと思ってるんだ。師団に取り入るための餌にされたってな。気に入らないんだろう、私が」

気に入らないという風には見えなかったが、と杉元と谷垣は殆ど同時に首を傾げた。というより、むしろ―――

「フン、山猫に懐かれたか」

2人が導き出した答えと同じものを鯉登が言った。そう、あれはまさしく懐かれていた。みょうじの言う通り何かと突っかかる形ではあったが、気付けば尾形はいつも彼女の隣にいたのだ。ただまぁ、2人が談笑する姿はついぞ見たことがなかったけれど。

「……あいつがどう思っていようと、私にとっては敵だ」

そう言った途端、彼女の目付きが鋭いものに変わる。みょうじは自身の手に視線を落とし、ぎゅっとそれを握りしめた。月島はふと、樺太に向かう船の上で彼女が「尾形を一発ぶん殴ってやろうと思って」と言っていたことを思い出す。きっとあの言葉は本心だったのだろう。

みょうじ達がそんな会話をしている傍ら、エノノカとチカパシの話は続いていた。樺太アイヌに伝わるメコオヤシ―――もといオオヤマネコの昔話である。エノノカが言うには、オオヤマネコが人間を脅して荷物を全部奪ったのだという。その話に怯えたチカパシが「こわい」と小さく声を震わせる。

「その変な話に教訓があるとすれば……『泥棒猫は撃ち殺せ』だ」

鯉登の言葉はこのチセの中にやけに響いた。