52
監獄の町、亜港。国境を越えようやくその地に辿り着いた杉元一行だったが、目的としていた監獄は爆破され辺りは騒然としていた。「キロランケが爆破して囚人を逃がしたんだ」壁にできた穴を見て谷垣が言った。
工兵部隊だったキロランケが爆弾を自作できることは最早周知の事実である。網走監獄潜入のために行った掘削作業では彼の能力に助けられたくらいだ。木でできた壁に穴を開けるくらい彼にとっては造作もないことだろう。
「どうだ? リュウ」
杉元がアシㇼパのマキリの匂いを嗅がせると、リュウは流氷の先に行きたそうにそわそわと歩き回った。「おいおい……流氷の上を逃げたと言うんじゃなかろうな」鯉登は目の前に広がる氷の大地を見て、当惑した面持ちでそう零した。確かに信じ難い話ではあるが、流氷の上には漁をしているらしい人々が点在しているから簡単に割れるようなものでもないのだろう。キロランケ達がこの上を通って逃げたことは十分考えられる話だ。
「リュウがあっちと言うなら俺は信じるぜ」
リュウの頭を撫でながらそう言った杉元に「行こう。きっとまだそう遠くないはずだ」とみょうじが焦りを含んだ声色で答える。その直後、エノノカとチカパシがワァッと叫び声を上げた。皆が弾かれたように2人の方を見ると、穴の向こう側に佇む影がひとつ―――
「トラ!?」
咄嗟に月島と谷垣が銃を構え、目の前の虎に向かって発砲する。しかし叫び声に驚いた虎が逃げ出す方が早く、2人の放った弾は虚しく空を切った。
「何でこんなところにトラが……」
「とにかく離れるぞ! 襲ってくるかもしれん!」
こんなところで虎と対峙している暇はない。姿を消したその隙にと一行は慌てて監獄を離れ、近くに止めていた犬橇に乗り込んだ。そうしてリュウの導くままに橇を走らせ、流氷へと向かう。
しかし流氷に乗ってすぐのところで、盛り上がった氷の塊に橇が乗り上げてしまった。男たちは慌てて橇を降り、押したり引いたりしてなんとか前に進もうと躍起になった。丁度その頃、ちらついていた雪が本降りになってきて、風も勢いを増し始めた。
「このデコボコな流氷源を犬橇で進むのはひと苦労だぞ!」
「天候も酷くなりそうだ! このまま追うのは危険かもしれん」
前に前にと気が急いている杉元に、月島と谷垣が待ったをかける。しかし焦っているのは何も杉元だけではない。同じように先を急ぐみょうじが「今引き返したら追いつけなくなる!」と2人を急かした。この流氷がどこまで続いているかは検討もつかない。もし大陸にでも渡られたら、彼らを見つけ出すのは困難を極めるに違いなかった。
「さっきの爆破を見ただろう!? すぐ近くにいるはずなんだよ!!」
杉元は僅かな逡巡ののち、リュウと橇を繋ぐ紐をナイフで切り落とした。このまま橇は置いていくつもりなのだろう、後ろを振り返ることなくリュウを連れて先へと進む。「まてよ杉元ッ!」谷垣が叫ぶが彼には聞こえていない、否、聞く気がないようだった。
戸惑う谷垣たちを他所に、みょうじはチカパシの傍に駆け寄って視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。そしてチカパシの肩を掴んで口を開く。
「チカパシはエノノカとヘンケと一緒にここで荷物を見ていて」
「でもっ、」
「2人を守って欲しい。大事な仕事だ、頼むよ」
「俺も、インカㇻマッの仇……家族だから」
「それはきっと谷垣が果たしてくれる。チカパシの役割は谷垣を無事にインカㇻマッの元へ連れて帰ることだ」
彼女の言葉にチカパシの顔がぐっと引き締まる。「できるね?」と念を押すように問いかければ「ボッキ!」と元気の良い返事が返ってきた。力強い彼の表情に、みょうじがニッと口角を上げて彼の肩をばしんと叩く。
「はは、男の顔になったな。……頼んだよ」
「うん!」
みょうじはチカパシの頭をわしわしと撫で付けると、杉元の向かった方角へと視線を移した。彼の姿はもう随分と小さくなっている。その背中を見失う前にと「先に行くぞ」とだけ言って走り出した。
「おい! 待て!」
月島が慌てて呼び止めたが、彼女は振り返ることもしなかった。
▼
吹きすさぶ雪の中、みょうじはひたすら杉元の後を追いかけた。そろそろ追いついても良いはずなのだが、舞い狂う雪のせいで彼の姿を捉えることができない。しかし地面にはしっかり彼の足跡が残っているから、後を追うのはそう難しくはなかった。真新しい足跡を見る限り、彼がすぐ近くにいることは確かだ。
「……杉元!」
しばらくして、みょうじはようやく杉元の背中を見つけた。咄嗟に声を張り上げたものの、風の音に邪魔されて彼には届かない。チッとひとつ舌を打ち、走る足に力を込める。その時、彼の隣にもう一人男がいることに気がついた。あの半纏には見覚えがある―――白石だ。そう理解した途端、みょうじはぶわりと胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
やっと見つけた。良かった、無事だった。彼がいるということは、きっとアシㇼパもすぐ近くにいるはずだ。帰ろう、北海道に。君たち三人は、そこで一緒にいるべきだ。
思いがけず涙が込み上げて、ただでさえ視界不良の景色が滲み、ほとんど前が見えなくなった。
と、その時。
「尾形ぁ!!」
杉元の怒号がこちらにまで聞こえてきた。その名に、その意味に、今にも零れそうだった涙が途端に引っ込んでしまった。みょうじは白む視界の先をじっと見据え、ようやく杉元の奥にアシㇼパと尾形の姿を捉えた。感動で満たされていた胸が一瞬にして怒りに塗り替わる。
しかしそれを自覚したと同時に、尾形の身体が沈む。糸が切れたように地面にすとんと膝を着き、そのまま倒れていく光景はいやにゆっくりに見えた。片方の目には矢が突き刺さっている。杉元は弓矢を用いない。つまり、あれは。
息を呑んで立ち止まりそうになったところを、みょうじはなんとか足を止めずに彼らの方へと向かった。
「なまえちゃん!?」
「…………白石」
彼女の姿に気付いた白石が咄嗟に声をかけ、そこで彼女ははたと立ち止まった。そうして白石を一瞥したのち、すぐに尾形達の方へと視線を戻す。杉元が尾形の上に覆い被さり、突き刺さった矢ごと目玉を抉りとったのが見えた。アイヌの毒矢を食らったら矢尻を周りの肉ごと抉りとるしかないというのは、随分前にアシㇼパから聞いた話だ。曰く、毒があまりに強力すぎて解毒の方法がないのだという。
それから杉元は患部に口を付け、直接毒を吸い出し始めた。ひとまず応急処置の初動としてはそれで十分だろう。それでも尾形が助かるかどうかは分からない。というか、その可能性はおそらくかなり低い。あの毒矢の即効性はみょうじもよく知っている。だけど「あの子を人殺しにはさせねぇ」聞こえてきた杉元の言葉には同意である。みょうじは動揺で早まる鼓動を落ち着かせるように深く息をつくと、背負っていた背嚢を地面に下ろした。
「……とりあえず、2人とも無事で良かった」
「まさかなまえちゃんまで来てくれるとは思わなかったよ」
「私だって心配くらいする。それに、本当は尾形を殴ってやるつもりだったけど……」
それはどうも果たせそうにない。今は彼を生かす方が優先だと、みょうじは背嚢の中を漁った。豊原で買った薬が早速役立ちそうだ。まだ未開封のそれらを手に取ったところで、リュウが興奮した様子で吠え立てた。これまで案内してくれていた彼が「アシㇼパはそこだぞ」と教えてくれているのだろう。
「こらこら、おじゃま虫だぜ」
落ちてきた白石の言葉にふと杉元達の方を見れば、杉元とアシㇼパが固く抱擁を交わしているのが見えた。まさに感動の再会である。あの2人が揃った姿を見られただけでも、この樺太での苦労も報われるというものだ。
「白石も行ってきたらどうだ。三人で会うのは久しぶりだろ」
「え、いや……俺は、」
そう言って白石が遠慮がちに目を伏せた時、杉元が「シライシッ!ちょっと来い!」と彼を呼びつけた。
「ほら、お呼びだ」
「……なんか様子が変だけど」
そう言って白石が杉元達の方へ向かい「どうかした?」と声をかければ、返ってきた言葉は「オシッコかけてくれ」ときた。なんでもアシㇼパの瞼が杉元の外套の釦にくっついて離れなくなってしまったらしい。
「え? 何かけるって? ちょっと待て!」
「オシッコ出るか!? 白石!」
「膀胱が破裂しそうなほどパンパンだぜ」
「ちょっ……ヤメロ!! おいッ!」
アシㇼパの抗議も虚しく、白石はおもむろにイチモツを取り出すと彼女の顔へと狙いを定めた。「やめろおおお!!」彼女の渾身の叫びが辺りに響く。白石の小便が彼女に降りかかったのは、その直後のことだった。みょうじが背嚢を背負い彼らの方へ近寄りながら、その様子に苦笑う。
「はは、何やってんだアイツら」
前言撤回、感動の再会にはどうにも程遠い。まぁ、あれはあれで彼ららしくていいかもしれない。みょうじはふっと笑みを零したのち、足元へと視線を落とした。
「……お前も、何をやってるんだ」
力なく横たわる尾形からは、何も返事がなかった。右目からはだらだらと血が溢れ、もう片方の目は虚ろに空を見上げている。みょうじは彼の傍にしゃがみこんで、そっとその頬に触れた。そうして傷口を観察しながら、消毒と止血、薬はその後だな、なんてことを考えていれば、尾形の左目がゆるりと彼女の方を向いた。
「……これで二度目だな、尾形」
意識が朦朧としているらしい彼に聞こえているかどうかは分からない。ただ、ぼんやりと、2人の視線が絡み合う。「お前が覚えてるかは知らないけど」とみょうじは彼の右目から未だ溢れ出る血を拭った。
「死ぬなよ、生きろ」
尾形の唇が薄く冷ややかな笑みを作る。どうやら聞こえているらしい、とその異様な笑みを見下ろしてみょうじはむっと眉を寄せた。「助けた命には責任をもてと言ったな。こんな死に方は許さないからな」「生きろ、そしたら私が思い切りぶん殴ってやる」「アシㇼパを人殺しにはさせない」あの日、小樽の山でそうしたように、みょうじは返事のない彼にひたすら語りかけた。
「生きろ、尾形」