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「なまえも来てくれたんだな」
「あぁ。……無事で良かった」

本土を離れ国境を超え、ようやくアシㇼパと対面することができた。網走監獄で離れ離れになってまだ数ヶ月程度だというのに、彼女に会うのは随分と久しぶりのように思える。負傷の様子もないアシㇼパに、みょうじはほっと安堵の息をついた。しかしこの再会を純粋に喜べる状況でもなく、アシㇼパの顔には嬉しさよりも不安が色濃く帯びている。「尾形は?」アシㇼパは心痛な面持ちで地面に伏せる男へと視線を落とした。

「まだ息はある」
「…………」
「大丈夫、しぶとい男だ。そう簡単に死にやしない」

みょうじが慰めるようにその小さな背中に手を添える。アシㇼパは地面に転がる矢に視線を移したのち、小さく頷いた。その矢の先端には尾形の目玉を含んだ肉の塊がある。杉元の咄嗟の判断のおかげで、きっとそこまで毒は回っていないはずだ。聞けば谷垣も毒矢を食らったことがあるそうだから、彼が今も生きているということは尾形にだって望みはあるはずだ。少なくとも即死を免れたのは確かだ。

丁度そこに杉元がやってきて「まずは月島軍曹達と合流しよう」と尾形を背負った。みょうじが巻いてやった包帯には早くも血が滲んでいる。それを一瞥したのち、みょうじは目の前に広がる流氷源を見据えた。

「きっと杉元の足跡を追って来ているはずだ。来た道を戻れば合流できるかもしれない」
「待ち合わせ場所を決めときゃ良かったな」
「……杉元が勝手に先に行くから」
「ゔっ……ごめん」
「まぁ、私も人のことは言えないけど」

みょうじはひとつ息をつくと「ちょっといいか」と杉元におぶられている尾形の懐をまさぐって望遠鏡を取り出した。先程の吹雪で杉元の足跡は殆ど消えてしまっている。が、来た方角くらいは分かる。みょうじは望遠鏡を覗き込んで彼らの姿を探した。

「どう? 見える?」
「……まずいぞ、キロランケとやりあってるみたいだ」

彼女がそう漏らした直後、銃声と爆発音がこちらにまで聞こえてきた。―――キロランケは爆薬の扱いに長けている。このままでは月島達が危ないと、杉元一行は急いで彼らの方へと向かった。

そうして彼らに近付くにつれ、そこにいる全員が血だらけになっているのが分かった。余程激しい戦いがあったらしい。特にキロランケの負傷が激しく、地面に倒れ込んだまま起き上がる気配もない。そんな彼に向かって、谷垣がとどめの一発を放とうと銃を構えている。

「谷垣! 撃て!」
「待って!」

月島の指示に被せるようにアシㇼパが声を上げる。谷垣が一瞬躊躇したその隙にキロランケの元へ駆け寄り「聞かなきゃいけないことがある! 撃つな!」と彼に待ったをかけた。しかしそれに異を唱える男がひとり―――月島が咄嗟に銃を構える。

「どけ! そいつは手負いの猛獣だ!」
「離れて! 殺したら分からなくなる!」

猛獣、まさにその言葉通りキロランケの目はぎらぎらと野蛮に燃えている。が、何やらアシㇼパに語りかけているその声は掠れきって実に弱々しいものだった。みょうじは未だ銃を構えている月島の傍にやって来ると、おもむろにその銃身を掴んだ。「オイ」月島がぎろりと彼女を睨みつける。

「落ち着け。……見ろ、もう虫の息だ。じきに死ぬ」

そう言って顎をしゃくった彼女に促され、月島はもう一度キロランケの方を見た。彼の腹からどくどくと流れ出る血液が、真っ白な地面に血溜まりを作っている。じわじわと広がっていくそれに、彼がもう長くはもたないことが分かる。その光景をまじまじと見つめた月島は逡巡ののち静かに銃を下ろした。同時に気が緩んだのか、その場にがくりと膝を着く。先程から彼の首元からも大量に血が溢れていたのだ。

「……傷を見せろ」
「いや、いい……先に鯉登少尉殿を……」
「馬鹿、立てもしないで何を。鯉登少尉はお前の次だ。―――谷垣! 月島を支えてくれるか。止血する」

月島はようやくそこで観念したのか、彼女に身を任せる事にした。傷口に布が押し当てられ、手早く包帯が巻き付けられていく。首が燃えるように熱い。意識が朦朧とする。処置をされている間、霞んだ視界の先でぼうっと彼女の手元を眺めていれば、「よし、できたぞ」という言葉と共にさっと背を向けられた。

―――は?」
「何してる、乗れ」

つまり、おぶされ、と。先程までぼんやりしていた頭が一気に冴えて、月島は「いや、大丈夫だ」と慌ててそれを拒否した。

「その傷で歩く気か」「なんとかなる」「阿呆か、ふらふらの癖に」「問題ない」2人の押し問答が続く。そこへ杉元とアシㇼパが見つけたらしい岩息がやってきて(どうやら同じ経路で北上していたらしい)、結局彼が月島を抱えることになった。「日本に戻ってきたら頭をブチ抜いて殺す」そんな言葉を向けた相手にまさか再会することになろうとは。それも優しく横抱きにされてしまい、月島は何とも言えない気持ちになった。いや、それでもみょうじに背負われるよりはマシだと、ぐっと口を噤む。流石に女におぶられては、なんと言うかこう、男がすたる。「強情っぱり」みょうじが不満そうに零したが、月島は聞こえない振りをした。

兎にも角にも、この旅の目的だったアシㇼパ奪還は成功に終わった。あとは日本に帰るだけだ。しかしその前に月島と鯉登、そして尾形の治療のため一行はひとまず亜港へ戻ることに決めた。特に尾形は一刻を争う状況だ。彼に今死んでもらっては困る。それはアシㇼパのことももちろんだが、彼の目的を聞き出すためでもあった。キロランケと手を組んだ彼の狙いは一体なんだったのか。単純に金塊を手に入れるためか、キロランケのように何か政治的思想があったのか、はたまた鶴見の更に上の人間に指示されていたのか。万が一他に尾形の仲間がいるとすれば、早急に敵を知る必要がある。そしてそれとは別にみょうじは個人的に彼に聞きたいことがあった。

―――「俺と一緒に来るか」

網走監獄潜入前、写真館の前で尾形が口にした言葉だ。おそらくはあの時点で既に彼はキロランケと手を組んでいたはずだ。ということはつまり、尾形はみょうじもこの旅に同行させるつもりでいたのだろう。

みょうじは杉元におぶられた尾形を見て、ぐっと拳を握りしめた。のっぺら坊を殺すことに、アシㇼパと杉元を引き離すことに、手を貸すとでも思ったのか。そんなことを許すはずもないのに。この男はどこまで私をコケにすれば気が済むんだ。みょうじが樺太旅への同行を志願した理由、「尾形を一発殴ってやろうと思って」という言葉の裏にはその怒りもあったのだ。

―――「山猫に懐かれたか」

ふと、いつか鯉登が言っていた言葉がみょうじの頭を過ぎる。もしかして本当にそれだけだった、とか。突如として湧いて出たその仮説に、ふっと握りしめていた手が緩む。まァ、仮にそうだったとして彼を許す気には到底なれないが。どちらにせよ本当のところは尾形本人に聞かなければ分からない。だからこそ彼には今ここで死なれては困るのだ。死んでしまったが最後、何も分からなくなってしまうのだから。

みょうじは顔だけ後ろを振り返って、キロランケを埋めた氷の山を見つめた。アシㇼパは彼から話を聞けたのだろうか。最期に言いたいことは言えたのだろうか。気にはなるが、踏み込んではいけない領域だろう。アシㇼパはわざわざキロランケにだけ聞こえるように語りかけていたのだから、彼女に尋ねてまでその内容を知りたいとは思わなかった。

「……さようなら」

みょうじはそう小さく零して、真っ直ぐに前を見据えた。