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流氷源を出た杉元一行は、負傷者の治療のため亜港からほど近いニヴフ民族の集落へと向かった。そこで薬や治療道具、そして寝床も借りることができたのだが、尾形は依然として危険な状態のままだった。また月島の首の傷も結構な深さで、人の手を借りなければ満足に起き上がることもできない程だ。2人が犬橇に掴まることもできない以上は、いくらか回復するまで北海道に戻るのは難しいだろう。
そして一時的にこの一行に加わった人間が2人、岩息とスヴェトラーナ―――あの燈台守の老夫婦の娘―――だ。聞けばスヴェトラーナは亜港監獄に収容されていたらしく、キロランケ達が起こした騒ぎに乗じて彼女も脱獄したそうだ。しかし行く宛てもなく途方に暮れていたところを、たまたま見つけた月島が保護したのだという。
寝台に寝ている月島とその傍に腰掛けているスヴェトラーナがぼそぼそと会話を交わすのを、みょうじが2人から少し離れたところでじっと聞いていた。もちろん彼女にはロシア語で紡がれるその会話の内容までは分からない。ただ月島の叱りつけるような、それでいて心配の色を多分に含んだその口振りがなんとも物珍しかったのだ。
しばらくして2人の話が終わりスヴェトラーナが席を外したところで、彼女と交代するようにみょうじが月島の傍に行った。
「スヴェトラーナは何だって?」
「家に戻る気はないそうだ。岩息と一緒に大陸へ向かうように言った」
「そう、岩息がいるなら安心だな。あの夫婦にも伝えないと……生きてると分かればきっと喜ぶ」
「……彼女には手紙を書くよう伝えた。帰りに届けるからと」
月島の言葉に、みょうじは驚いたようにぱちりとひとつ瞬きをした。その様子に月島が怪訝そうに「なんだ」と零す。
「いや……お前も大概律儀な男だな。―――まァ、ウン、確かにそれが良い」
どこか愉快そうに薄く笑みを浮かべた彼女に、月島はむっとして視線を逸らした。そうしてじっと天井を見据え、思い返すのはあの燈台の老夫婦のことだ。脱走兵に娘を連れ去られ(実際は駆け落ちも同然だったようだが)、生死も分からぬままその帰りを待ち続けている。―――つい、過去の自分と重ねてしまったのだ。
僅かな希望を捨てきれず、あてどない絶望の中を彷徨うあの感覚は今だって鮮明に思い出せる。腹の底に鉛が居座っているような、それでいて頭の中を薄墨で塗りたくられたようなあの感じは、もう二度と経験したくないものだ。どうかそんな暗闇からあの老夫婦も抜け出して欲しい。無関係であるはずの自分がそう思ってしまうのは、一種の仲間意識のようなものだろうか。
(……いや、或いは)
悲しみに暮れる老夫婦。それは自分にはとんと馴染みのなかった、子を想う親の姿である。その価値を、ありがたみを、何故あの娘は理解できないのか。それがどうにも腹立たしくて仕方ない。
つまり、老夫婦への同情と娘への怒りが彼らを放っておかなかったのである。
「スヴェトラーナはこの島の退屈さに嫌気がさして、都会に行きたかったそうだ」
「へぇ、それはなんとも……無鉄砲というか」
呆れ笑いを含んだようなみょうじの声色に、月島は再び彼女へと視線を戻す。
「どう思う」
「どうって?」
「それだけのために親を捨てられるものなのか」
「……随分と気に掛けてるんだな、あの親子のこと」
「…………助けてもらった義理がある」
みょうじはさして興味もなさそうに「フゥン」と零すと、そこでじっと黙り込んだ。視線が絡み合ったまま、静寂が2人を包み込む。どうやら答える気は無いらしいと月島が視線を外したところで、その予想に反して彼女が口を開いた。
「『それだけ』の覚悟ってことだろ。好奇心は猫をも殺す―――そうなる前で良かったじゃないか」
「……そういうものか」
「そういうもんだよ」
月島は先程のスヴェトラーナとの会話を思い返した。「金持ちになって両親を呼び寄せる」そう言い切れる無鉄砲さは若さ故なのかもしれない。都会には何かがあるに違いないと、根拠の無い憧れを抱いてしまうのは同じく辺鄙な島出身の人間としては分からなくもない。月島は彼女に抱いていた怒りと呆れが少しずつ収まっていくのを自覚した。
「手紙を届けたら十分義理は果たせる。あとは北海道に帰れば任務も完了だ。……安心してゆっくり休め。子守唄でも歌ってやろうか?」
「いらん、気が散る」
「はっ、言うねぇ」
みょうじは「じゃあさっさと寝ろ」とだけ言ってそのまま家の外へと出ていった。
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一夜明け、朝食を済ませた杉元達が家でまったりしていた時、エノノカが「ニヴフに『ばけものの川』っていうお話がある」と話を切り出した。
「え? やだこわい話?」
杉元が少しばかり怯えた様子でそう尋ねれば、エノノカは真剣な表情でこくりとひとつ頷いた。そうしてニヴフの男からヘンケ、ヘンケからエノノカへと通訳に通訳を重ね、その「ばけものの川」の話が語られる。
―――その昔、「ばけものの川」で釣りをしていた男の元に何者かが近付いて来た。それに気付いた男は咄嗟に服を脱ぎ捨て全裸になった。
「なんでだよ」
「化け物が出る川だったからだって」
男は焚き火の炭で尻に大きな目を描いて、足音のする方にそれを向けた。そうして股の間から、その「何か」の様子を伺った。
「それホントにご近所の人だったらどうすんだよ」
ついに化け物が男の元までやって来ると、その大きな目を怖がって逃げて行ったそうだ。そうしてばけものの川に化け物が来ることはなくなった―――杉元の突っ込みを受けながら語られたその話は、怪談というよりもまるで喜劇のようだった。
「ニヴフがなんでそんな変な話を残したのかは疑問だが……この話に教訓があるとすればなんだろうね〜、アシㇼパさん」
話の冒頭では怖がっていた杉元も拍子抜けしたのか、緩く笑みを浮かべながらアシㇼパに問いかけた。白石に至っては興味もないのか「オシッコしてくる」と彼女の答えを待たずに部屋を出てしまった。
「『悪いことをする奴は……自分を見られるのが怖い』」
アシㇼパの口から紡がれたその言葉に、みょうじは感心して思わず「あぁ、なるほど」と零した。なかなかどうして核心をついた解答である。一聴するとふざけた話のようだが、その答えを念頭に置くと良い教訓話に思えてくるから不思議だ。―――とは言えやっぱり突っ込みどころは満載だが。
「杉元、お尻を出せ」
アシㇼパの突拍子もない指示に、杉元が「えっ?」と声を上げる。しかし彼はすぐに「はい、アシㇼパさん」と素直に尻を出して彼女に向けた。一体何が始まったんだと言わんばかりに、皆が2人の方に目を向ける。ただ、みょうじだけは突然さらけ出された杉元の尻に―――不意に姉畑支遁を思い出して―――さっと顔を逸らした。
「白石を驚かそう」アシㇼパは近くにあった炭を手に、杉元の尻に大きな2つの丸を描いた。きっと「ばけものの川」の話に出てきた男の尻もこんな具合だったのだろう。そうして杉元は出入口の方へと尻を向け、話にあった通り股の間からじっとその方を見た。
しばらくしてようやく白石の足音が聞こえてきて、出入口に掛けられた暖簾を皆がじっと注視する。すぐにそれを捲ろうとする指先が見えて―――「あ……かぶった」杉元と全く同じ格好をした白石が現れた。ご丁寧に尻には2つの目玉が描いてあり、まるで杉元を写した鏡のようになっている。
一瞬にして白けた空気が流れ、それに気付いたみょうじがようやく杉元の方を見た。男が2人、尻を突き合わせて立っている。なんとも珍妙な光景である。
「ぶっ」
みょうじはたまらず吹き出して、肩を震わせて笑った。「……なまえさん」杉元が照れ笑いのような苦笑いのような曖昧な笑みを浮かべて彼女を振り返ると、いそいそとスボンを履き直した。それを見た白石も「ちぇっ」とつまらなそうな顔をしてズボンを上げる。
「白石と旅を続けるうちに思考が似てきたみたいだな、アシㇼパ。 ……フッ、……ハハハ」
「なっ……たまたまだッ!」
「えー、なんで嫌そうなのアシㇼパちゃん」
笑いが中々収まらないらしいみょうじは、自身の腹を抑えつつもう片方の手で雑にアシㇼパの頭を撫でた。「笑うななまえ!」とアシㇼパが顔を赤くしてその手を振り払う。
そんな2人の様子を、月島と鯉登が呆然とした顔で見つめた。
「みょうじお前……笑えるんだな」
「……私をなんだと思ってるんだ、月島」
「? そんなに珍しいか?」
きょとんとしたアシㇼパに月島と鯉登は「エッ?」と声を揃えた。見れば杉元や白石、そして谷垣までもが不思議そうな顔をしている。どうやら彼らにとってはそんなに珍しいものでもないらしい。
豊原で自分だけが彼女の笑顔を目撃したその優越感―――それが幻想だったと気付いた鯉登が、得も言われぬ衝撃を受けたのはまた別のお話。