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ニヴフの集落にしばらく滞在することになった杉元一行は、任務を終えたこともあり幾らか暇を持て余していた。ずっと張り詰めていた空気も離散して、すっかり緩みきっている。特にやることもなく手持ち無沙汰となっていた彼らは、世話になっている集落の仕事を手伝ったりニヴフの子ども達と遊んだりしながら一日を過ごした。もちろん、動くこともままならない月島と尾形は寝たきりのままである。

「ゔ、うう……」

部屋に尾形のうなされる声が響く。傷が痛むのか、悪い夢でも見ているのか、彼は時々こうして酷く苦しそうな声を漏らした。アシㇼパ曰く、旅の途中で体調を崩した時もずっとこんな様子だったらしい。

その時、たまたまトラフに戻っていたみょうじがそっと尾形の傍に近寄った。他の皆は出払っていて、今この場には月島と尾形そしてみょうじの3人だけである。みょうじはじっと尾形を見下ろしたのち、静かに彼の隣に腰を下ろした。そうしてその胸元に手を添えて、まるで母親が子どもにしてやるみたいにトントンと優しく叩いてやった。しばらくそれを続けていれば、ようやく彼の呻き声がおさまって静かな寝息に変わる。とは言え酷く浅い呼吸ではあるけれど。

「……一発ぶん殴ってやったか」

その様子を見ていた月島がそう彼女に問い掛けた。それは樺太に向かう船の上でみょうじ本人が言っていたものだ。みょうじは尾形の胸に添えていた手を離すと、少しの間を置いてから「いや」と首を横に振った。

「私が見つけた時にはもう……それどころじゃなかったよ」
「今からでも殴ってやればいいだろ」
「今死なれたら困る。こいつには聞かなきゃいけないことがあるんだから」
「聞いたところでその男が素直に答えるとは思えんが」
「軍人ってのは拷問が得意なんじゃないのか?」

煽るような笑みを浮かべた彼女に、月島は無言のままじとりとした視線を送った。「冗談、そんな怖い顔をするな」みょうじが小さく肩をすくめる。

「……小樽の山でそいつを助けたこと、後悔しているか」
「はっ、鶴見と同じことを聞くんだな」
「…………」
「後悔はない。たらればは好きじゃないんだ」

みょうじは鶴見に言ったのと殆ど同じ言葉を月島に返した。あの時見殺しにしていれば、アシㇼパが傷付くこともなかったのは事実だ。しかし当時はまさかこんなことになるなど知りようもなかったのだから仕方ない。どうしようもないことをあれこれ考えたって糞の役にも立たないのだ。

しかしどうやら月島の考えはみょうじとはまた少し違うところにあったらしい。

「尾形がいなければ腹を撃たれることも、夕張で連れ去られることもなかったんだぞ。……そいつに関わったばかりに、お前はこの血生臭い争いに巻き込まれた」
「……言われてみればそうだな。夕張では脚も撃たれたし」
「…………よくそれで優しくできるな」
「別に優しくしてるつもりもないけど」

全く気にもしていなかったような口振りに、月島は何とも言えぬ顔で彼女を眺めた。こいつはどうも自分の事に酷く無頓着らしい。たぶん、彼女も自分と同じ類いの人間なのだろう。―――憤るほどの価値など自分にはない、と諦めた側の。

「……北海道に帰ったらどうするんだ。これからも金塊探しに関わるつもりか」
「それを決めるのは鶴見だろ。私を第七師団の人間だと言ったのは月島じゃないか」
「鶴見中尉殿の意向に背いて無理やり着いてきた奴がよく言う」
「それはそれ、これはこれだ」

彼女の言葉に、月島は呆れた様子でため息をついた。この女は与えられた仕事を粛々とこなす奴ではあるが、そこに忠義があるわけではない。これから先、彼女が鶴見に従い続けると考えるのはあまりに楽観的だろう。明確にこちらを裏切ったことはないが、信用するのは些か危険である。

そもそも自分たちの根底にある「戦争で死んでいった仲間達のため」という共通認識が彼女にはないのだ。アイヌの金塊を元手に軍事政権を樹立するなど微塵も興味はないだろう。戦争の経験がないのは鯉登も同じだが、彼は軍人である上に鶴見に心酔している。みょうじはそのどちらでもない。それで仲間意識を持てという方が無理な話だ。

いっそのこと彼女にはこの金塊争奪戦から退いてもらいたいが、それは鶴見の判断次第である。しかし「みょうじを手懐けよ」と命じたくらいなのだから利用する気は多分にあるのだろう。ただ、このままではその任務は未達に終わりそうだ。まさかあそこまでアシㇼパに気を許しているとは思わなかったのだ。まぁ、どれだけ難攻不落だろうと命令された以上は簡単に諦めるつもりもないけれど。

みょうじを師団に留めておくにはどうするべきか。金で釣れる奴であればどれだけ楽だっただろう。情に流されるような奴でもない。自分の命にすら無頓着な彼女が、それでも師団に居続けるための理由―――そんな思考を巡らせる中で、江渡貝の姿がふっと月島の頭を過ぎった。

「そう言えば江渡貝が……」
「? また随分と懐かしい名前を出してきたな」
「……お前を『綺麗だった』と」

2人の間にしんとした空気が流れること数秒、その沈黙を破るようにみょうじが「ハ?」と呆気に取られた声を漏らした。コイツは一体何を言っているんだ、と言わんばかりに彼女の眉間にはくっきりと皺が寄っている。しかし月島の顔は真剣そのものだ。

「『私はもう死んでいるようなものだから』」
「…………」
「江渡貝を家から逃がす際にそう言ったらしいな」
「……さぁ、覚えてないな」

炭鉱事故に巻き込まれた江渡貝は、自身の死を悟ると偽の刺青人皮を月島へと託した。その時彼は鶴見への伝言と共に、みょうじのことも口にしていたのだ。「生きながら死んでいる……まるで剥製そのものだ」「綺麗だったなぁ」と恍惚の表情を浮かべて。月島の頭の中にその時の光景が鮮明に蘇る。

「お前は死に場所を探しているのか」

月島の言葉にみょうじはじっと黙り込んだ。2人の視線が絡みあったまま、部屋に張り詰めた空気が充満する。否定はしないのか、と月島は内心独りごちた。

「……失礼な奴だな、人を自殺志願者みたいに」

そう言って彼女がようやく月島から視線を逸らす。その態度はまるで肯定している人のそれだった。

今思えば彼女は鬼殺隊の話をする時も、しなずがわとやらの話をする時も「自分はそこで死ぬはずだった」というようなことを言っていた。おおかた自分のことを死に損ないとでも思っているのだろう。なにせ彼女はせっかく生き延びたその命を大事にしているようには到底見えないのだ。

さらに言えば、みょうじは全てを失って体ひとつでこの時代にやってきた。―――「送られてきたカムイ達は、元いたところには役目がなかったんだろうか」―――いつだったか杉元との会話の中で言っていた言葉だ。おそらく、彼女はかつていた時代に今も囚われ続けている。生きる意味を失っていたって何らおかしくはないだろう。

偶然出会ったアシㇼパという少女のために命を落とす―――みょうじはこの樺太旅にそんな物語を思い描いていたのではないだろうか。確証はないものの、そんな気がして仕方なかった。

「……鶴見中尉殿なら、相応しい舞台を用意してくれる」

生きる理由にせよ、死に相応しい理由にせよ、きっとそれらしいものを。少なくとも、自分はそう思ったからあの男に着いていくのだ。みょうじの求めているものもそこにあるかもしれない。

「ただ、無駄死には俺が許さん」
「……死にかけの奴が何を言ってるんだ」

それだけ言って彼女はトラフから出ていってしまった。部屋に再び静寂が訪れて、月島は静かに瞼を閉じた。



その日の午後、ニヴフの女性が菓子を振舞ってくれることになり部屋には一同が会していた。魚皮を使った伝統料理、モスと呼ばれるそれは冬のこの時期しか食べられない菓子だそうで、食べてみるとまるで寒天のようだった。

「もす! うふふ……」
「ご機嫌ですね、鯉登少尉殿」

嬉しそうに菓子を頬張る鯉登に、月島が寝台から声をかける。

「父上を思い出した。アシㇼパを奪還して先遣隊としていい結果を出せた、それを父上に報告できるのが嬉しい……」
「……誇らしく思ってくださるはずですよ。鶴見中尉殿もさぞかし喜ばれるでしょう」

月島の言葉にパアッと顔を明るくした鯉登が「月島も食べろッ」と褒美でも与えるかのようにモスを彼の顔に落とした。どうやら鶴見の名前が出た事に余程気を良くしたらしい。が、それにしても与え方というものがあるだろう。みょうじはため息混じりに月島の額に置かれたモスを回収し、口に咥えさせてやった。「お前も大変だな」そう漏らした彼女に月島は何も答えず、ただ黙々とモスを咀嚼した。今朝あんな話をしたばかりということもあって、少しばかり気まずかったのもある。

そんなやり取りの傍ら、ニヴフの女性が今度は何かの草をすり潰し始めた。「それは何の料理なの?」「食べるんじゃなくてキズの薬だって」杉元の問いにエノノカが答える。曰く、海岸に生えているシロヨモギという草だそうで、ニヴフでは傷薬として日用的に使われるものらしい。

「でもあっちの人薬だけじゃ治せない」

エノノカの言葉に、皆の視線が尾形へと集まる。即死は免れたものの未だ危険な状態であることに変わりは無い。その顔に生気はなく、げっそりと青ざめている。濃くなった髭が痛々しさをより助長させていた。

「医者をここに連れて来なくては」と杉元が言った。それに異を唱えたのは鯉登だ。

「亜港の医者を? 我々は密入国者で日本兵だぞ。通報されたらどうするんだ。危険を犯してまで尾形を助ける必要なんか無いはずだ」
「でも月島軍曹だってちゃんとした医者に診てもらったほうがいいだろ?」

月島のことまで言及されると、流石の鯉登も反論の言葉は持ちえなかったらしい。

「みょうじ、どう思う」
「どうして私なんです」
「怪我を診るのはこの中じゃお前が一番得意だろう。月島の傷の具合はどうなんだ」
「……できるなら傷を縫ってやった方がいい」

みょうじは月島を一瞥し、逡巡ののちに「今は安定しているが、いつ急変してもおかしくない」と付け加えた。壊死性の感染症を引き起こせば一気に死に至る。本人を前に口にするのは憚られたが、戦争経験のある月島ならそんな事例はいくらでも見てきただろうし、自分の状態だってよく分かっているはずだ。その証拠に、彼は表情ひとつ変えなかった。

みょうじの言葉でその場の空気が途端に重苦しくなり、鯉登の顔には分かりやすく焦りが滲み始めた。そうして結局は杉元の「ニヴフの格好をすればバレない」という言葉に押し切られたのだった。