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杉元たちが呼び寄せた亜港の医者は、重症の尾形を診て「病院で手術するしかない」と言った。しかし自分達は密入国者の身である。病院に医者を呼びに行くだけでもかなりの危険を犯したと言っていい。しかもこの医者は自分達が密入国者であることも日本兵であることも既に把握しているのだ。そんな状況で再びのこのこと病院に向かう訳にもいかない。「だめだここでやれ」医者に掛かることに初めから後ろ向きだった鯉登が即座にその提案をはねつけた。だがその一方で、杉元は医者の言葉に従うつもりのようだった。
「分かった、運ぼう」
「おい杉元いい加減に……」
「尾形にはいろいろ聞くことがある。まだ死なせない」
彼の憤怒を這わせた声に気圧されたのか、鯉登がぐっと口を噤む。そうして結局は通報する気はないと念を押した医者の言葉が後押しとなり、尾形を亜港の病院へと運ぶことが決まったのだった。
「私は子守りをしておくよ」
早速皆が病院へ向かう準備に取り掛かる中、みょうじがそう言ってちらりと月島を見やる。月島はそれに白けた視線を返しただけで特段何も言わなかった。怪我で身動きが取れない以上、誰かに残ってもらった方が何かと助かるのは事実だったからだ。
しかし実際のところは橇に乗れる人数が限られることが理由としては大きかった。なにせ寝たきりの尾形を運ぶ必要があるのだ。もちろん月島もその事には気付いていたが、ここで彼女の軽口に乗る気にもなれなかった。そんな気力すらも今の彼には残っていないのだ。まぁ仮に元気があったとしても、下らない冗談に付き合うような男でもないのだけれど。
「杉元、尾形を頼んだよ」
「ウン」
「……絶対、死なせるな」
「分かってる」
そうは言いつつも2人とも尾形が厳しい状態にあることはよく分かっていた。でも、わざわざそれを口にはしなかった。言ってしまったが最後、本当にそうなってしまうような気がしたのだ。
手術が無事に成功すればいいが、果たしてそれを乗り越えられる体力が尾形にあるかどうか―――と、遠くなっていく犬橇を見送ったみょうじだったが、そんな心配は杞憂に終わった。それも予想外の結末で。
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「尾形が……逃げた?」
戸惑った様子でそう問い掛けたみょうじに、杉元がこくりと頷く。曰く、手術が終わってすぐに医者と看護婦を襲い逃げ出したのだという。それも「明日の朝までもたない」と医者が告げた直後に。
「……どこまでもしぶとい奴だな」
呆れ気味に零したみょうじに「全くだ」と鯉登が吐き捨てるように言った。彼は尾形が逃げる際に軽く交戦したらしく、そのせいか酷く苛ついていた。が、そんな鯉登とは対照的に杉元とアシㇼパの顔はどこかすっきりしている。逃げられたことよりも彼が生き延びた安堵感の方が強いのだろう。
ただまぁ、杉元に関しては安堵感という言葉では収まりきらなそうだ。なにせ「次に会ったらぶっ殺してやる」と好戦的な笑みを浮かべていたのだから。
みょうじの心情もどちらかと言えば杉元の方に近かった。「これで安心してぶん殴れる」内心そう呟いて、ぎゅっと拳を握り締める。その頬には知らず識らず薄い笑みが浮かんでいた。
あいつはきっと、再び自分たちの前に現れる。その確信めいた予感はこの場にいる誰もが抱いていた。
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病院で騒ぎを起こしてしまったこともあり、一行は当初の予定を早めてすぐに日本領へ向かうことにした。月島には多少無理をさせることになるが、背に腹はかえられない。病院側の人間に負傷者が出た以上は通報される可能性が高く、またあの医者には滞在していた集落の場所も知られているからだ。
そうして一行が無事に国境を越え、敷香という町に辿り着く頃には月島もすっかり回復していた。
「お前も大概不死身だよな」
「何か言ったか」
「いいや何も」
助けを借りることなく1人で歩けるまで回復した月島を見て、みょうじがからかい半分そんな声を掛けた。尾形の方が重症であったとは言え、彼だって相当酷い傷を負っていたのだ。感染症の類いはもちろんのこと、そもそも負傷した時点で出血死したって不思議ではなかった。それが1ヶ月と経たず平気な顔して歩いているのだから、随分な回復力である。まぁ、鶴見の右腕ともなればこれくらいタフでないと務まらないのかもしれない。
「それより、必要な物は揃えたか? 次の町までしばらくあるぞ」
「ン、大体は……」
月島の問い掛けに答えながら、みょうじは確認のために自身の背嚢を漁った。ここ敷香は南樺太の中心都市のひとつであり、一行は日用品の買い出しのためにこの町に寄ったのだ。いくら日本領に入ったとは言え、大泊港まではまだまだ結構な距離がある。それなりに物を揃えておく必要があった。
「そうだ、薬を買い足さないと」
「それなら向こうに店があったぞ」
二人のすぐ側にいた鯉登がそう言って遠くを指差した。その先には確かに薬屋らしい看板が出ている。「ちょっと行ってくる」「すぐに発つから早くしろ」そんな会話を交わして、みょうじは一人その場を離れた。
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「……何をやってるんだ?」
めぼしい物を幾らか買い揃え、店を出たところでみょうじはすぐに異変に気付いた。白石が道の真ん中で倒れ込んでいるのだ。一緒にいるはずの他の面子はと言うと、彼から少し離れたところに身を隠している。その不思議な光景に首を傾げたその時、パァンと銃声が鳴り響いた。
どうやら誰かに狙われているらしい。そう気付いたみょうじは咄嗟に建物の裏へと身を隠し、彼らのいる路地とは別の道に入った。自分の位置はまだ把握されていないはずだから相手の裏をかくには有利だ―――と、弾の飛んできた方へと走り出す。先程の銃声でなんとなくの場所は分かる。結構な距離から撃ってきているようだった。
おのずと頭に浮かぶのは、あの憎き狙撃手の顔だ。
尾形がもう戻ってきたのだろうか。そう思うと走る足に更に力が入る。もうそれだけ元気になったなら、思い切りぶん殴ってやろうじゃないか。いや、今となってはそれだけじゃもの足りない。
―――「助けた命には最後まで責任もてよ」
いつだったか、彼に言われた言葉が頭を過ぎる。彼の言い分を真に受けてやるとしたら、やるべきことはひとつだ。みょうじは腰に差していた小太刀へと手を伸ばした。
そうやってしばらく走り続けているうちに、ようやく敵が潜伏しているらしい建物へと辿り着いた。他に比べ幾らか背の高いそこはきっと見晴らしもよく狙撃手にとっては実に都合のいい場所だろう。最上階の部屋の窓が空いているのが見えて、じっと目を凝らしてみれば銃口が僅かに顔を覗かせているのが分かった。「見つけたぞ、尾形」みょうじは足音を消してこっそりとその建物に侵入した。
気配を消すのは得意だ。尾形のいるであろう部屋を目指し、慎重に階段を登っていく。建物の中はしんと静まり返っていて、自分の心音が聞こえてきそうな程だった。いや、ただこの状況に緊張しているだけかもしれない。何だか内臓が浮くような感じがして、みょうじはそれを誤魔化すように小太刀を握る手にぎゅっと力を込めた。
そこでふとただならぬ殺気を感じて、みょうじは勢いよく後ろを振り返った。そこに現れたのは、ぎらつく二つの目玉―――視線がかち合い、思わず息を飲む。
「……なまえさん」
そこにいたのは杉元だった。聞き落としてしまいそうな程に小さな声で名前を呼んだ彼に、みょうじは努めて冷静に人差し指を自身の唇に押し当てた。
初めて真っ向から受けた彼の殺気に、一瞬にして冷えわたった身体が今度は沸騰しそうな程熱く火照る。どっと変な汗が出て、ばくばくと心臓が暴れている。彼と目が合ったあの瞬間、まるで鬼と対峙したような錯覚に襲われた。死が目前に迫ったような、あれ。今なお不規則な鼓動を打ち鳴らす心臓を宥めようと、みょうじは深く息を吐いた。
杉元がいるならここは彼に任せた方が確実だろう。しかし人の気配を読むのはきっと自分の方が得意だ。敵のいる場所までは先導した方がいいだろうと、みょうじは唇に押し当てていた指を今度は自身へと向けた。それを階段、そして杉元へと順に移す。どうやら上手く伝わったらしく、彼がこくりと頷いた。それを確認してすぐに、みょうじは再び階段を登り始めた。
「(ここだ)」
人の気配がする部屋の前に辿り着き、みょうじは襖を指さした。部屋の向こう側からは不穏な空気が漏れ出している。おそらく向こうもこちらの存在に気付いているのだろう。なにせさっきから杉元の殺気がだだ漏れているのだ。反撃の準備をしていることは十分に考えられたが、声を出せない今はそこまで伝えることはできなかった。指文字が伝われば良かったのにと歯痒さを感じつつも、杉元だってそれくらいは予想はしているだろうと思い直した。
そうしていよいよ突入しようと杉元が襖に手を掛けたところで、みょうじがふっとその手を抑えた。そして顎をしゃくって更に奥の襖を指し示す。そのすぐ側には1枚の姿見があった。彼女の意図を察したらしい杉元が奥の襖へと向かい、勢いよくそれを開け放つ。
パァンッ
敵の放った銃弾が姿見へと沈む。こちらの目論見通り、姿見に写った杉元を見て見事に勘違いしてくれたらしい。それから物凄い勢いで杉元が部屋の中に突っ込んで行き、みょうじも慌ててその後ろへと続いた。
「誰だよてめぇ」
杉元の声が部屋に響く。そこにいたのは尾形よりも随分と恰幅のいい男だった。しかもその外見から察するに、どうやら日本人ですらない。
「逃げたッ!」
脱兎のごとく逃げ出した男を、慌てて2人で追いかける。「くそっ! どこ行きやがった!」「あっちだ!」この家の間取りなど当然把握しているのだろう、男はあっさりと2人の前から姿を消した。が、足音までは消せていない。みょうじは杉元の後を追いながら後ろから指示を飛ばした。
「あそこ! あの襖の奥だ!」
その言葉の直後、杉元は襖に勢いよく拳を突っ込んだ。そのあまりの荒々しさに、みょうじが思わず苦笑う。この男の凶暴さにはいつまで経っても慣れそうにない。アシㇼパと共にいる時の和やかな彼を知っているから尚更。しかしまるで猛獣のようなその戦い方にはいっそ懐かしささえ感じる。あの方も酷く荒っぽい戦い方をする人だったから。
襖越しに敵を捕まえたらしい杉元は、そこに向かって銃剣を何度も繰り返し突き刺した。それから突っ込んでいた拳を引き寄せて―――まるで釣り上げられた魚のように男が襖を突き破って現れる。杉元はそのまま男の上に馬乗りになると、持っていた銃剣の切っ先を男へと向けた。
しかしそこで「なんだよこれ」と杉元の幾らか冷静な声が落とされる。何のことを言っているのかさっぱり分からなかったみょうじは、2人の元へ駆け寄って杉元の視線の先を覗き込んだ。
「お前が描いたのか?」
そう言って杉元は男の胸元から零れた1枚の紙切れを手に取った。そこに描かれていたのは、尾形にそっくりな似顔絵だった。