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ロシア人狙撃手との一悶着ののち、敷香を出た一行は長い道のりを経てようやく豊原にまで戻ってきた(しかも何故かそのロシア人も一緒に)。以前にも立ち寄ったこの土地には、あの時世話になったヤマダ一座がいた名残すらも残っていなかった。彼らの公演に出たことが最早遠い昔のように感じるのは、それ以降の出来事が濃すぎたせいか、それとも単にあの時の会場がないせいか。派手なテントと大量の登りが立っていたそこも、今となってはもうだだっ広いだけの空間があるばかりで、あの騒がしいとも言える景色を知っている者に淡く哀愁を呼び起こした。
何もないただの殺風景な空き地、だが、このどこかには3人分の死体が埋まっている。「明日の朝には私達も立ち去って、ここは元の空き地さね」あの時、紫煙をくゆらせながらそう吐き捨てたフミエの言葉はその通りになった。舞台への出演までは平和的であったはずなのに、その結末のせいでなんとも殺伐とした記憶として皆の頭には印象づいている。が、この樺太旅そのものが物騒なものなのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
ただまぁ、何もこの旅の全てが殺伐としていたわけでは決してない。というのも、ここ豊原に向かう途中で件の燈台守の老夫婦に、娘、もといスヴェトラーナの手紙を届けることを果たしたのだ。娘の無事を知り泣いて喜ぶ夫婦の姿を見て、これで受けた恩は確かに返したと皆はすっきりした気持ちになった。旅の仕舞い際になんとも良い思い出ができたものだ。
しかし鯉登に限っては「そんなもの電報で送っておけば良いだろう」とわざわざ寄り道をすることに難色を示していたが。ただそれも杉元と月島によってあっさり無視されていた。その至って雑な扱いにむっと顔を顰めた鯉登であったが、それ以上口を挟む気はないようだった。アシㇼパを無事に奪還できた時点で概ね満足しているのか、帰還までのその道中ついでの用事くらい好きにすればいい、とでも思ったのだろう。
そんな具合にいくらか気持ちに余裕ができていたのは何も鯉登だけではなかった。アシㇼパの奪還、月島の回復(ついでに白石も)、老夫婦への恩返し、そして日本領に戻ってこれたこと―――と、ここしばらくは安堵の連続だったから。
何より、いよいよ鶴見との合流が決まったことが大きい。となればその後はようやく北海道への帰還だ。「やっとここまで漕ぎ着けた」程度の差はあれ、皆の心中はおおよそ似たようなものであった。殆ど肩の荷が降りた気になっている彼らにさらに朗報がひとつ。豊原に着いた今日からは野宿やコタンでの寝泊まりではなく、良い宿(その為に豊原に滞在するらしい)に泊まれると来た。ここまでくればもう殆ど旅行気分である。
とまぁ、一行を纏う空気が緩んでいく理由を挙げればきりがないのだが、そのおかげで"これ"をする程の余裕を生んだことには違いない。
「活動写真撮影開始! はい用意!」
寒空の下、凍った川を前にアシㇼパの高らかな声が響く。活動写真―――杉元とアシㇼパが助けた男2人が、活動写真の興行主と撮影技師だったことがそもそもの発端である。その2人の男、ジュレールと稲葉勝太郎がアイヌ文化に興味があるとかで、これまでも多くのアイヌを撮影してきたのだという。彼らは例に漏れずアシㇼパにも興味を持ち、彼女の狩りの様子を撮り、そして特別に過去の活動写真も披露してくれて―――「アイヌの昔話を動きで見せて活動写真に残そう」それを見たアシㇼパがそんなことを言い出したのだ。
鶴見との合流までおよそ2週間、それまでは特にやるべきことも無い。だからアシㇼパの提案を断る理由を誰も持ち合わせていなかった。というより、手持ち無沙汰だったところに舞い込んできたその話は、退屈しのぎにまさにうってつけだったのだ。皆はあっさりと了承し、そしてそうと決まれば後はあっという間だった。
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「貴様はこれを着ろ」
撮影用に用意された女物の着物、その内のひとつ、藍色の着物を手に取って鯉登はみょうじに差し出した。ボンボンと呼ばれる程の育ち故か、彼は女物であろうとそれなりに着物の知識があるらしい。撮影用のため安く手に入れたそれらは上物には程遠いが、その中でも彼女に似合いそうなものを見繕ってやったのだ。
彼の感性は確かなもので、その落ち着いた柄の着物は確かに彼女によく似合っていた。が、しかし、鯉登は着物に袖を通したみょうじを見て不満そうに首を傾げる。
「髪で台無しだな」
「……そうは言っても、ない袖は振れませんから」
「着物だけに」ひらひらと手元の袖を揺らして見せながら、みょうじは無表情のままそう言った。あまりにも淡々とした声色だったせいで、彼女が珍しく冗談を言っているのだと鯉登が気付くのに少々時間を要した。というより、そんなつまらない軽口より彼女の髪型の方が重要だったのだ。
男のように短いその髪では、結い上げることなど到底無理だ。この時代ただでさえ女の短髪は珍しいというのに、着物を組み合わせると更に珍妙に見える。しかしみょうじ本人はそれを気にも留めていないらしく、「短髪に着物は鯉登少尉も同じでしょう。……というかまず坊主頭に言ったらどうです」と少し離れた所にいる月島を一瞥した。というのも、月島もまた女物の着物を着せられていたのだ。
視線に気付いたらしい月島が、ふっと彼女の方に顔を向ける。そこにはいつもの仏頂面があった。女役をさせられることに微塵の嫌気も怒りもないらしい。というよりもはや諦めの境地なのだろう。まぁ、少女団入りを受け入れたくらいなのだから今更この程度屁でもないのかもしれない。
と、そこへアシㇼパの声が飛んでくる。
「次は松前藩の女たちがチンポに着物を干すシーンだ! ほら、着物を干せ!」
すっかりアシㇼパの下っ端のようになった稲葉が、さっと着物を差し出してきた。鯉登たちがそれを受け取って、早速目の前の竿(もとい"パナンペの"竿)へと干していく。すぐに背後から撮影機―――シネマトグラフと言うらしい―――をくるくる操作する音が聞こえてきた。
「それじゃあ皺になりますよ」
撮影の途中、みょうじは鯉登の干した着物を見て呆れたようにそう零すと、彼の掛けた着物に手を伸ばしその体裁を整えた。特に襟の部分が気になるのか、指で挟むとすっと下までなぞった。その丁寧かつ慣れた手つきに、鯉登が感心した視線を向ける。着物を着ることは嫌がるくせに、どうやら扱いには慣れているらしい。
女は捨てたとのたまい、女らしさの欠片もない振る舞いをするが、それでいて家事は得意なのだ。小樽の兵舎での彼女の働きぶりは直接目にした機会は少ないものの、その評判くらいは鯉登の耳にも届いていた。
「こういうことはできるのに……何故それで独り身なんだ」
不意に落とされた言葉に、みょうじの手がぴたりと止まる。しかしそれも一瞬のことで、彼女は仕上げのように着物の裾をぴんと伸ばすと「急に何の話ですか」とため息混じりにぼやいた。
「『そんなだから結婚できないんだ』と言ったのは鯉登少尉でしょう」
「……む、そうだったか?」
「確かに言われましたよ」
本当に覚えがないのか鯉登は怪訝な顔をして首を捻った。その様子にみょうじがハァと軽くため息をつく。
「……まぁ、そもそも私にその気がありませんから」
「前に言っていた男が忘れられないのか」
「…………別に、あの方はそういうんじゃ、」
そこまで言うと彼女はじっと黙り込んでしまった。そして話はこれで終いだとでも言わんばかりに背を向けて、今度は月島の干した着物へと手を伸ばす。些か不躾なその態度に、鯉登はつまらないとでも言いたげに唇を尖らせ、じとりとした視線を送った。
「意外とこういう作業は雑だよな、月島は」
「……仕事ならもっと丁寧にやる」
「は、どうだか」
きっと視線に気付いているはずなのに、みょうじはこちらを見ようともしなかった。そのままぽつりぽつりと会話を始めた2人を見つめ、鯉登が小さく呟く。
「……案外お似合いな気もするが」
「何か言いましたか?」みょうじの奥から月島がひょいと顔を出す。それに「なんでもない」とだけ答えて、鯉登は風に揺られ波打つ着物へと視線を移した。
そうして2人並んだ姿を頭に思い浮かべて―――それはそれで面白くないような、とぼんやり思い至ったとき「撮影機止めろッ」とアシㇼパの声が飛んできて、それは思考の隅に追いやられたのだった。