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鶴見との合流の日も迫り、杉元一行は豊原を出発し大泊―――とその前に、まずはヘンケとエノノカの村に向かった。元来た道を戻って行くその行程は、この樺太旅が殆ど終盤に差し迫っていることを実感させた。

「トㇹトㇹ トー!」

この旅の影の功労者(犬)、元々猟犬であったリュウはこの頃にはもうすっかり橇の先頭犬としての姿が板についていた。先頭犬の証とされる頭飾りを着けるようになってからというものの、以前より貫禄が増したようにも見える。

「リュウはここにいた方が大切にしてもらえるな」

村に到着し、アシㇼパに撫でられご機嫌にしっぽを振るリュウを見て白石が言った。「自分の居場所を見つけたわけだ」と続けた彼の言葉で、皆の視線がリュウに集まる。リュウの今後について話し合ったわけではないけれど、他の者も白石と同じことを思ったらしい。誰もそれに異を唱える者はおらず、「世話になったぜ、リュウ」「ありがとな」と一斉にリュウを撫で回した。

そしてここでさよならを告げるのは、何もリュウだけではないことを彼らはよく理解していた。

「ヘンケとエノノカとはここで別れる」

たまたま通りがかった馬橇の男と話をつけたらしい月島が淡々と皆に伝える。ヘンケとエノノカは旅の移動手段として鯉登が雇っただけであり、一時的な同行であることは当初から分かっていたことだ。が、別れ特有のしんみりとした空気が流れるくらいには、皆の間にはそれなりに絆ができていた。この別れに誰よりも悲しんでいるのはきっとエノノカだろう。スンスンと鼻を鳴らし涙を零す彼女は、しかしその手元では丁寧に請求した金を数えていた。そんな彼女の様子に杉元が「ホントにしっかりした子だなぁ〜」と感心したように零した。

「エノノカ……」

チカパシが遠慮がちに声を掛ける。しかし彼女はそれに応えることなく、1人ふらふらと誰もいない林の方へと離れていった。

「行っておいで、チカパシ」

2人の様子を見ていたみょうじが、チカパシにそう言葉を落とす。しかしこの湿っぽい空気に尻込みしているのか、彼はその場に立ちすくんだままだった。その背中を押すように杉元が「待っててやるからちゃんと話しておけよ」と声を掛ける。そこでようやくチカパシはきゅっと顔を引き締めて、エノノカの元へと向かったのだった。



「アシㇼパをちゃんと連れて帰ってね! フチを元気にさせて!」

結局、チカパシはこの村に残りヘンケとエノノカと共に生きていくことに決めたらしい。彼もまた自分の居場所を見つけたのだ。その覚悟を称えるように「あばよチカパシッ」「元気で暮らせ!」と皆は笑顔で別れの言葉を告げた。

「なまえ!」

改めて出発した馬橇に向かって、チカパシが声を上げる。彼のひとり立ちの一幕を微笑ましく見守っていたみょうじは、突然自分の名前を呼ばれたことに目をぱちくりさせた。

「俺の代わりに……! 谷垣ニㇱパを、絶対、インカㇻマッのところへ連れて帰って!」

―――チカパシの役目は谷垣を無事にインカㇻマッの元へ連れて帰ることだ―――それは亜港にてみょうじがチカパシに伝えた言葉だ。ここに残るか否か、最後の最後まで考えあぐねていたのはきっと2人のことが気がかりだったのだろう。チカパシにとって谷垣とインカㇻマッは確かに"家族"だったのだから。

「ああ! 約束する!」

みょうじはそう言って大きく手を振ったのだった。



「……ようやくこの旅も終わりか」

大泊に到着したその日の夕方、鯉登は鶴見の写真を眺めながらそうぼそりと呟いた。隣にいたみょうじが「やっと鶴見中尉に会えますね」と彼の手元を盗み見る。その口振りには分かりやすく皮肉が込められていた。

ここ樺太へ向かう際の船では女々しいため息を漏らし続け、ヤマダ一座の公演では興奮した野生の猿のように暴走し―――そのどちらも彼の傍には鶴見の写真があったのだ。大方、今だってようやく鶴見と合流できることに恋々たる想いを募らせているのだろう。実際に鶴見と合流する時には、きっとこれ以上なく騒がしくなるに違いない、とみょうじは猿叫を上げる彼を想像して辟易した。

が、しかし、どうにも鯉登の様子がおかしい。

「……そうだな」

そう返した鯉登の顔には、歓びの気配が微塵も感じられないのだ。それどころかやけに深刻そうで、鬱々とした空気さえ漂っている。みょうじは怪訝な顔で首を傾げ、「どうしました?」と問おうとして―――「鯉登少尉殿、ここにいたんですか」月島の声によって遮られた。

「鶴見中尉殿は明日到着するそうです」
「…………」
「随分浮かない顔ですが……」

みょうじが飲み込んだ問いかけは、すぐに月島を介して鯉登に届いた。鶴見が関わった時の彼を知っている者ならば、今の様子を見れば皆押し並べて違和感を抱くだろう。みょうじよりも長くそれを見てきた月島からすれば(それも直接的な被害(通訳係)を被っていれば)、その姿は随分と異様に映っているに違いない。

「鶴見中尉殿が来られる前にお前に聞いておきたいことがある」
「……はい」

月島はやや控えめな返事をしながらみょうじを一瞥した。やけにもったいぶった鯉登の言葉を受け、「外してくれ」と言外に伝えてきたのである。月島の意図を察したみょうじが大人しく半歩後ずさり、しかしそれを遮るように鯉登が口を開いた。

「亜港の病院で、尾形は逃げる直前……私に何と言ったか───『バルチョーナク』」

みょうじは尾形の名前が出たことで、ぴたりとその場に立ち止まった。彼女に「バルチョーナク」の意味は分からない。が、鯉登にとっては重要であろうことは分かった。そして多分、それを月島も理解している。みょうじは月島の表情が僅かに険しいものに変わったのを見逃さなかった。

「奴はさらにこう言った。『今度鶴見中尉に会ったら、"満鉄"のことを聞いてみろ』」

月島は咄嗟にみょうじの方を向いて、今度こそ「外してくれ」とはっきり口にした。聞かれては不味い話なのだろう。みょうじは「あぁ」と素直にそれに応え、しかし密かに盗み聞ける場所はないかと周囲を見渡し―――「いや、お前も聞くべきだ」と鯉登に引き止められた。

「いくら師団が雇っているとは言え、みょうじは軍にとって部外者ですよ」
「だからこそだ。……今ならまだ間に合う」

間に合うとは、一体? そんな疑問がみょうじの頭に浮かぶ。月島にはその意味が分かったらしく、渋い顔をしながらもぐっと口を噤んだ。ひとり置いてけぼりを食らったみょうじだったが、鯉登はそれを他所に話を続けた。

「南満州鉄道株式会社、日露戦争後ポーツマス条約によってロシア帝国から得た満州の鉄道権益……」

それは国民にも広く知られている話だ。なにせ条約が結ばれたその当時、新聞で広く周知されたのだから。しかし鯉登はそこからさらに一歩踏み込んだ話を始めた。

「陸軍内部には『経営は上手くいかない』と激しく抵抗するものがいた。第七師団長、花沢幸次郎中将だ」

その名にはみょうじにも聞き覚えがある。山猫の子は山猫―――いつかそんな話をした時にその名が出てきたのだ。つまり、花沢幸次郎とは尾形の父親である。

「花沢閣下が自刃することによって満鉄の計画は突き進んだ。……鶴見中尉殿は日露戦争から帰還されてこう言っていたな?」

鯉登はかつての記憶をなぞるように、一語一語をはっきりと口にした。

「『戦友達は今も満州の冷たい土の下。満州が日本である限り彼らの骨は日本で眠っているのだ』」

話が進むにつれ、鯉登が興奮していく様子が見て取れた。みょうじは彼の話を整理しながら、何を言わんとしているのか、その真意を読み取ろうと頭を働かせた。鶴見の満州への想い、日本領拡大を本質とした満鉄の経営、それに反対した花沢中将の自刃―――絡まった糸が解けていくように、みょうじの頭にひとつの答えが導き出されようとして、

「花沢閣下の死に鶴見中尉が関わっているということなのか?」

鯉登が先にその答えを彼女の前に差し出した。またそれをきっかけとして、彼の口から熱を帯びた声が堰を切ったように溢れ出る。

曰く、尾形は父を自刃に追い込んだ中央に不満をもち鶴見に加担していたが、真相を知り謀反を起こしたのではないか、と。「そして尾形がなぜそれを私に伝えてきたのか」そう疑問を零す鯉登の顔には、まざまざと猜疑心が現れていた。

「我々を混乱させるためならあいつは何だって言いますよ。どうして今更尾形の言うことを真に受けるんですか」

興奮した鯉登を落ち着かせるように、月島は努めて冷静な口調でそう言った。が、鯉登の追求は止まらない。

「函館で私を拉致監禁した覆面の犯人の中に尾形がいたはずだ」
「あれはロシア人ですよ。あなただって死体を見たでしょう?」

新たに告げられた情報に、みょうじは再び置いてけぼりを食らう羽目になった。鯉登の拉致監禁の話など、これまで聞いた事がなかったのだ。

「あの覆面の中にお前もいたのか? 月島!」

しかし鯉登の"鶴見への懐疑"はかなり根深そうだということは分かった。鯉登の言い分をそのまま鵜呑みにするのなら、彼はロシア人に拉致監禁された過去があり、それには尾形と月島が関与していて―――つまり、それを画策したのは実は鶴見だったのではないか、とそう言っているのだろう。

話のおおよその内容は理解できたものの、みょうじは鯉登と月島のやりとりをただ黙って聞き続けた。詳細を知らないから判断のしようがないのだ。鯉登の疑念は正しいのか、それとも月島の言う通りただ尾形に翻弄されているだけなのか。2人の表情を、声色を、判断材料を何ひとつ取りこぼすまいとじっと観察し続けた。

「私達親子に芝居を打ったんだな!?」「政府転覆のコマとして利用したかったのだろう!?」「私達も鶴見中尉のコマのひとつにされていると知らしめたかったのだ!」鯉登は鬼気迫る様子で月島に詰め寄った。もう彼の中では殆どそれが"事実"として確定しているのだろう、そんな剣幕だった。

「馬鹿げた被害妄想です」
「もういい! 直接本人に聞く! 父上の前で全部明らかにさせるッ! みょうじお前も―――、」

そう言ってみょうじの方を振り向いた鯉登が、急に口を噤んだ。「……みょうじ?」彼女の視線が月島の方に縫い付けられたまま、固く強ばっていたのである。

「あなたたちは救われたじゃないですか」

ぞっとするほど重々しくすごみさえ感じる低音に、鯉登とみょうじはたちまち彼の醸し出す異様な空気に飲み込まれた。それはちょうど黄昏時の今、夜の帳が降りていく様によく似ていた。

「何が不満なのか……父親を殺せてアイツも満足したはずだ」
「尾形が……殺した?」
「私もやられたんです。随分と手間がかかった芝居を……」

月島はまるで腹底に溜まった泥を吐き出すみたいに、しかしどこか淡々とした様子で語り始めた。鶴見がどれだけ狡猾で計算高い男なのか。長い時間をかけて蝕んでいく彼のやり方は、まさに毒蛇が獲物を捕食するようである。そうして彼の毒に侵された人間は、彼のために命を捧げる兵隊になるのだという。「でもまぁ……別にいいんです」と月島は言う。

「利用されて憤る程の価値など元々ありませんから。私の人生には」

ごくり、と固唾を飲んだのは鯉登かみょうじか。もしかするとその両者かもしれない。思わず気圧されてしまう程、月島の放つ空気は異様だった。

軍事産業の育成、軍事政権の樹立、第七師団の地位向上、その先に見据えるは戦友の眠る満州の地―――自身が駒にされたとて、それらが達成されるならば十分ではないか、と月島は言う。

「それがすべての最終的な目標なのか? 鶴見中尉の……」
「彼は"甘い嘘"で救いを与えるのがお得意ですので。本当の目的は分かりません」

しかしその途中で皆が救われるなら問題はないはずだ、と月島は続けた。どこか投げやりなその口振りは、自分の命など心底どうでもいいと言っているように聞こえた。

「月島、お前はどうして……」
「だって……何かとんでもないことを成し遂げるのはああいう人でしょう? 私は鶴見劇場をかぶりつきで見たいんですよ。最後まで」

それは確かに月島の本心なのだろう。先程までのぞっとするような表情はいくらか和らいで、全てを吐き出したからかすっきりしているようにも見えた。それでも彼からは希望を抱く者が見せるような灯火がひとつも感じられない。諦め、と言った方がしっくりくる。自分の人生にはもうそれしか残されていないのだ、という風な。

―――お前は死に場所を探しているのか―――いつか月島に言われた言葉がみょうじの脳裏を過ぎる。それはお前の方じゃないのか、とそう思わずにはいられなかった。

「今聞いたことは全て胸に閉まっておいた方が懸命です。いざとなれば鶴見中尉はあなただって平気で消す。そしてその汚れ仕事をするのは私です」

「みょうじ、お前もだ」と月島はみょうじを一瞥し、念を押すように言った。しかしそれは江渡貝の家にいた頃に既に言われているものだ。そんなことはとっくに理解している、とでも言いたげにみょうじはじっと彼を見つめ返した。

そもそもみょうじは鶴見に心酔しているわけではない。それどころか油断ならない相手として一線を引いているくらいだ。今ここで鶴見に付き従う危険性を教えられたところで、今更な話ではある。ただまぁ、予想以上ではあったけれど。

しかしそんな彼女とは反対に、鶴見に傾倒しきっていた鯉登はその反動のせいか激しく動揺しているようだった。余程精神的に追い詰められたのか、ハァハァと肩で息をする鯉登にみょうじは同情の目を向けた。

ふっと鯉登の視線もまたみょうじに向けられて、2人の視線が交わる。鯉登はその目で何かを強く訴えていて、しかしみょうじにはそれを読み取ることができなかった。そして無言のまま見つめ合うこと数秒―――

「鶴見中尉スゴ〜〜〜イ!!」

突然鯉登が大きく声を張り上げて、みょうじは思わずびくりと肩を揺らした。次いで地面でバダバタと暴れ始めた鯉登に、そのあまりに奇怪な行動にぽかんと思考停止する。

―――今ならまだ間に合う

ふと、みょうじは話の冒頭に鯉登がそう言っていたことを思い出した。今もなお道化のようにぐるぐると地面をごろつく彼を見下ろして、ようやくその意味が分かった気がした。