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みょうじの肩に深く刺さった矢を見て、月島と鯉登は絶句してサッと顔を青くした。アシㇼパの矢を食らった尾形がその後どうなったか―――2人はその毒の威力をよく知っている。しかし当の本人は痛みに一瞬顔を歪めただけで、おもむろに矢を掴むと躊躇なくそれを引き抜いた。途端溢れてきた鮮血に、鯉登が狼狽気味に「みょうじ……」と強ばった声を漏らす。
「ただのはったりだ。毒はない」
そう彼女が返したのとほとんど同時に、周りにいる兵士たちが杉元とアシㇼパを追って一斉に走り出した。追い抜きざまにみょうじを一瞥する者はいても、その注意の先はすぐに逃亡した二人へと移る。今はそんなことに気を取られている場合ではない、という当然の判断である。しかし鯉登と月島に限ってはその咄嗟の判断ができずにいた。
「私に構うな」
言外に「行け」と告げる彼女に二人はぐっと顔を顰めて逡巡の様子を見せる。が、それも一瞬のことで、すぐに集団の後に続いた。
その背中を見送って、みょうじが小さく息を吐く。肩にじわじわと広がっていく鮮やかな赤。それを阻むように患部を手で強く押さえつければ、ずきりと鈍い痛みが走った。この程度の傷なら呼吸で止血できる、とみょうじは肩に意識を集中させる。途端、彼女の白いシャツを侵食していた赤の染みはぴたりとその範囲を留めた。―――とその時、背後からザッと地面を踏み締める音がする。
「失望したぞ、みょうじなまえ」
温度のないその声色に、不意に冷水を浴びたように身体がひやりとする。咄嗟にその声の主を目で追えば、その人は真っ直ぐ前を見据えたままこちらをちらりとも見なかった。真横を通り過ぎていく冷めきったその横顔を、背中を、みょうじはただ憮然と眺めることしかできなかった。彼女の動揺を物語るように、肩では再び赤が侵食を始める。
果たしてこの選択は正しかったのか―――遠くなっていく鶴見の背中を見据えながら、そんな迷いがみょうじの頭を掠める。しかし同時に思い浮かぶのは先程の月島の姿だった。その瞳が強く主張していたのは、確かな怒り。「俺に汚れ仕事はさせるなよ」いつかそう言っていた彼を裏切ることがみょうじにはどうしてもできなかったのだ。それも、あんなにもはっきりと感情をぶつけられてしまえば尚更。昨日あんな話を聞いてしまったせいもあるかもしれない。
ただまぁ、この選択の正誤がどうであろうともう後戻りはできないのだ。アシㇼパを見送った時点で自分の立ち位置は確定してしまった。今更ああだこうだと考えたって仕方がない、とみょうじは軽く頭を振って自身の迷いを振り払った。
その直後、この張り詰めた空気をぶち壊すようなやけにあっさりとした声がみょうじの耳に届く。
「あれ? おれ死ぬ?」
はっとしてその声の方を見れば、白石が頭に矢を突き刺さしたまま放心していた。その光景に何だか一気に気が抜けて、先程までの緊張感の反動からか、みょうじは思わずふっと笑ってしまった。
「……心配するな。毒はない」
みょうじは白石の元へ行ってそう教えてやると、頭の矢を抜き取り手早く手拭いを宛がった。そうして「しばらく押さえてろ」と彼にそれを引き継ぐ。
「って、なまえちゃんも怪我してるじゃん!」
「このくらい大したことない」
そう言ってみょうじは器用に自身の肩に布を巻き付けると、手と口を使ってぎゅっとそれを縛りつけた。それから具合を確かめるように軽く肩を動かしながら「それより、置いていかれたのか」と話を続ける。
「えー、それ聞いちゃう?」
「どうせ合流するんだろ」
「……まぁ、そのつもりだけど」
「今は皆アシㇼパと杉元に気を取られてるけど、白石も早くここを離れた方がいい」
わざわざ忠告してくれずとも、白石自身それはよく分かっていた。きっとあの二人なら上手く逃げ切るに違いないから、となれば次に狙われるのは自分である。もしかするとそろそろこちらにも人員が割かれる頃かもしれない。そうなる前に自分も逃げる必要がある。ただ一つ気になるのは、この状況の中まるで他人事のように話す彼女である。
「なまえちゃんは? どうするの?」
「私はここでお別れだ。……アシㇼパを頼んだよ」
「俺は託されるような柄じゃねぇよ。大体、なまえちゃんはそれでいいの?」
「……私じゃアシㇼパの役には立てない。むしろ不安を抱かせるだけだ。信頼できる人間だけの方が動きやすいだろ」
淡々とそう告げた彼女に、白石は咄嗟に否定の言葉を紡ぐことができなかった。みょうじをどこか信じきれないでいるのは事実だったからだ。いや厳密に言えば、彼女がアシㇼパを大事に思っていることは普段の言動からも見て取れる。ただ、金塊を探す上で信用できる人間かと問われればどうしても疑念が残るのだ。
多分、立場的にはインカㇻマッに近いのだと思う。「アシㇼパの安全のため鶴見陣営につく」なんてまさにみょうじの言い出しそうなことだ。自分達と一緒に動きながら鶴見と内通することだって、彼女なら朝飯前だろう。つまり、いつ裏切られるか分かったものじゃない。
だから彼女とここで別れることは自分達にとっても良いはずだ。―――しかし、本当にアシㇼパとみょうじが離れ離れになってもいいものなのか。だって、傍から見れば2人はまるで姉妹のようだったのだ。
「じゃあ、達者でな」
しかし本人がそうすると決めたのなら、他人にそれを止める術などないだろう。踵を返し、アシㇼパと杉元が向かった先へと歩き出したみょうじの背中を白石は何とも言えない気持ちで眺めた。
「……その傷、なまえちゃんなら避けられたんじゃないの」
きっと彼女に届いたはずの問いかけは、拾われることなく独り言と化した。
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アシㇼパ達の逃走劇からしばらくして、みょうじは他の兵士達と共に鯉登の父・鯉登平二の指揮する駆逐艦に乗り北海道へと向かっていた。アシㇼパと杉元の捕獲が叶わなかったことは既に月島から聞いている。彼が語った事の顛末に、表情を変えることなく「そうか」とだけ返したみょうじだったが、内心ほっとしていたことは当然月島も見抜いているだろう。しかし彼はそれに触れることなく、みょうじの肩を一瞥したのちに「しばらくは安静にしていろ」と彼女の傍を離れたのだった。
「傷の具合はどうだ?」
そうして月島と入れ替わるようにやってきたのは鶴見だった。数刻前にはみょうじを視界にさえ入れなかった彼が、今ばかりはその瞳を真っ直ぐ彼女に向けている。ぞっとするほど冷めていたはずのそれは、いくらか生気を取り戻しているように見える。みょうじは探るような目でじっと彼を見つめ返しながら「数日もすれば塞がる」とだけ答えた。
「そうか、深い傷ではないようでなによりだ。……が、女性がそう易々と傷を負うのは関心しないな」
「今更なにを。この傷があろうとなかろうと傷物には変わりない」
「君の身を案じているんだよ」とさも優しげに彼は言う。が、その言葉も表情もどこか表面的で白々しい。まるで時候の挨拶のような会話を鬱陶しく思ったみょうじは「それで? 何の用だ」と鶴見に本題に入るよう促した。途端、彼の取ってつけたような柔らかい笑みは引っ込んで、すっと真面目な顔に変わった。
「あまり私をがっかりさせないでくれ」
「……こっちに残ることを選んだのに何が不満なんだ」
「お前なら警戒されずにアシㇼパに近付けたはずだ。なぜわざわざ立場を知らせてやった?」
それは月島に止められたから―――なんて言葉はこの男には通用しないだろう。実際月島の静止はすぐ振り払ったし、そのまま追いかけることは十分可能だったのだから。つまり彼にとってみょうじが師団に残ることは当然の話であり、その上で諜報員としての働きを期待していたわけだ。あの時二人を追いかけていれば、十分その懐に飛び込めただろうと。師団を裏切ったように見せればそれは容易かったはずだ、と。
「……悪いな、そこまで頭が回らなかった」
そう言ったみょうじに鶴見はじっと疑いの目を向けた。出会った当初から彼女を「賢い子」と評していた彼にとって、その言葉は取り繕ったものにしか聞こえなかったのだ。しかしそれを掘り下げたところで大した意味は無い。鶴見は「まぁいい」と彼女から視線を外し海を見た。
「お前にさせるはずだった役は谷垣に任せた。……次は間違えるなよ」
そう言って踵を返した鶴見に、みょうじは「あぁ」と短く答えたのだった。