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ようやく樺太旅から帰還した先遣隊は、というより鯉登とみょうじは、現在陸軍病院にて療養の身にあった。怪我をしているのだから当然と言えば当然なのだが、そうなるまでにはそれなりの経緯があった。というのもみょうじは当初「これくらい放っておけば治る」と入院を拒否したのである。みょうじは全集中・常中こそ体得できていないが、意識している間であれば呼吸を保てるから傷の治りも人より幾らか早いのだ。

しかしそんなことを医者が信じるはずもなく「その傷で何を言っているんです」「腕が使い物にならなくなっても知りませんよ」とくどくどと説教を受ける羽目になった。更には鶴見から無言の笑みを頂戴したことが決め手となって、頑なだった彼女も渋々従うことにしたらしい。

ちなみに彼女がこうして入院拒否に意固地になっていたのは「身体がなまるから」とのことで。それを知った月島はどこかで聞いた台詞だと、彼女と出会ってすぐの頃を回顧した。あの時の彼女もそれと同じ言葉を吐いたのだ。実の所、単に暇が嫌いなだけではないかと月島は疑っていた。普段からよく動き回る奴だから、じっとしているのが嫌いなのだろう、と。

そして暇を嫌う人間は何も彼女だけではなかった。

「では占います」

鯉登とみょうじの病室を訪れていたインカㇻマッが、頭に乗せた狐の頭骨をポトリと落とす。暇を嫌うもう一人の人間―――この入院生活に退屈しきっている鯉登が「占ってくれ」と頻繁に彼女を呼びつけるのだ。彼女の占いは確かに丁度いい娯楽となっていたし、インカㇻマッからすれば良い小遣い稼ぎになっていた。言葉を選ばずに言えば、鯉登は良いカモとされているのだ。そして彼を占った後は必ずみょうじの番が来て―――

「なまえさんの今日の運勢は吉です。探し物が見つかるでしょう」
「へぇ、それは楽しみだ」
「何が"楽しみ"だ。いい加減こそこそと病院を抜け出すのは辞めろ」

娯楽に興じるその会話に割り入ってきたのは、不機嫌顔の月島である。

「抜け出すだなんて人聞きの悪い。ただの散歩だ」
「軍医の許可がない以上は散歩だろうと駄目に決まってるだろう」
「そうだぞみょうじ! 怪我人であることを自覚しろ!」
「そうすると鯉登少尉の暇潰し品も調達できなくなりますね」
「キエッ! それは困る!」

あっさりと手のひらを返した鯉登に、月島は少しも動じなかった。彼のこんな様子にはすっかり慣れてしまっているのだ。味方を失ったと言えばそうだが、そもそも頭数にも入れていないから問題は無い。なんて率直な思いを口にしたが最後、彼は喚き散らすに違いないからこうして黙る以外の選択肢はないのである。

「……大体、散歩じゃないんだろう。探し物とは何だ」
「別に大したものじゃない」

そう返した彼女を月島はじとりと睨みつけた。元々謎の多い女であるが、こそこそと勝手な真似をしているのを看過するはずもない。彼女が第七師団のみに収まっていた頃ならいざ知らず、敵対勢力との繋がりをもってしまった今であれば尚更。

彼女を師団に留めたのは他ならぬ月島ではあるが、果たしてそれは正しい選択だったのかと当の本人は考えあぐねていた。いらぬ危険分子を手元に置いただけではないかという不安が拭えなかったのだ。これまでみょうじが明確に師団を裏切ったことはないけれど、これからもそうであるとは限らないのだから。いっそのこと敵としてはっきりその立場を示してくれた方が楽だったかもしれない。―――いやしかし、彼女に銃を向けるその瞬間をどうしても想像できなかったのだ。そう、あくまでもできなかっただけ。したくなかったのでは決してなく。

「今更隠し事が通用すると思うなよ。いま自分がどんな立場にあるか、分からないとは言わせんからな」

それは彼女に忠告しているようであり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。これ以上彼女に深入りするな、信用してはいけない、と。

「はは、そう怒るな。……そうだな、見つかったら教えるよ。どうせ隠し続けるつもりもない」
「それなら今言おうと同じだろう」
「いや、違うね」
「……何が違うんだ」
「言ったら止めるだろ」

したり顔でそう言ってのけたみょうじは、これで話は仕舞いだとでも言うように、寝台を降りてそのまま病室を出ようとした。月島がすれ違いざまに「おい、どこへ行く」と彼女を引き留める。まだ話は終わっていないだろう、と言外に咎める彼にみょうじが薄く笑って一言。

「オソマだ」
「……なっ、」
「全く、こんなこと女に言わせるなよ」

「お前な!」思わずそう声を上げた月島に、みょうじがわざとらしく肩を竦める。そんな二人のやり取りにインカㇻマッがさもおかしそうにプッと吹き出した。しかし鯉登だけはみょうじの捜し物とやらの方が気になるようで「お前なら占いで分かるんじゃないか?」とこそこそとインカㇻマッに耳打ちした。彼女はそれに返事をする代わりに、右手をそっとみょうじへと翳す。

「そうですねぇ……黒の―――
「インカㇻマッ」

部屋を出ようとしたみょうじが背中越しに彼女を振り返る。

「私の情報は高いぞ?」

みょうじはそう言ってにやりと笑って見せたのち、今度こそ部屋を後にした。そんな彼女を見送って、インカㇻマッは「そういうことなので、すみません」と翳していた手を下ろす。鯉登は不満げにむっと唇を突き出して、みょうじが今しがた出ていったばかりの扉を睨みつけた。



その日の夜、就寝時間をとうに過ぎた頃。鯉登とみょうじの病室は昼間の賑やかさから一転、すっかり静まり返っていた。備え付けられた壁掛け時計が秒針を刻む音と時々キジバトの鳴き声が聞こえてくるそこで、2人は就寝につくでもなく各々好きな時間を過ごしていた。一枚の薄いカーテンが2人を隔ててはいるが、鯉登の方からは時折本を捲る音が聞こえてくるし、みょうじの方からは紙の上を走る鉛筆の音が聞こえてくるから、お互い何をしているかは容易く想像がついた。

ちなみに昼間のあのやり取りの後、(誰もがうっすら予想はしていたが)みょうじは病室に戻ってこなかった。どうやらそのまま捜し物とやらに出掛けたらしい。看護師たちは最早諦めの境地らしく、午後の巡回が空振りに終わっても呆れたため息を漏らしただけだった。しかし月島の堪忍袋の緒はそろそろ切れそうだ、と彼のこめかみに浮かぶ筋を見て鯉登が少しだけはらはらしたのはここだけの話である。

捜し物とやらに関しては、彼女曰く「まだ分からない」とのことだった。見つかった否かではなく「分からない」というのは、どうやらそれは本物かどうか確認の必要があるものらしい。捜し物の正体が分からないことに内心もやもやした鯉登だったが、「いずれ話しますよ」と続けた彼女にひとまずは引くことにした。

なにせ彼女には他に聞きたい事があったのだ。

鯉登は読んでいた本をぱたりと閉じて、暫く続いていた沈黙を破るように口を開いた。

「あの時、何故アシㇼパ達に着いていかなかった」

重々しく紡がれたその問い掛けは、確かな師団への裏切りである。だからこそ鯉登は樺太を出たあの日から今この時まで、ずっと彼女に聞けないままこの疑問を胸に燻らせていた。

その質問の意図を、重みを、彼女も悟ったのだろう。カーテンの向こう側から聞こえていた鉛筆の音がぴたりと止まる。そうして少しの沈黙の後、ようやくその答えは返ってきた。

「何故って、私は第七師団の人間ですから」

彼女がそう言ったのとほとんど同時に、鯉登は2人を隔てていたカーテンを勢いよく開けた。その先にはいつもと同じ淡白な表情があって、少しの間を置いて冷ややかな視線がついとこちらに向けられた。

「月島の話を聞いて尚、お前は鶴見中尉に従うつもりなのか!」
「……鯉登少尉、声を抑えて下さい」

咎めるような彼女の視線に、鯉登はぐっと口篭った。が、少し冷静になれただけで、一度溢れた感情が収まることはない。彼は先程よりもいくらか抑えた声で、しかし怒りの表情はそのままに言葉を続けた。

「……お前は軍人ではない。師団に居続ける理由はないはずだ」
「もはや軍人云々の話でもないのでは? そもそもが造反者の集まりでしょう」
「それぞれの想いがあってこそだ。戦友の弔い、中央への怒り、軍事思想―――お前には何がある? わざわざ危険に身を晒す理由はなんだ?」
「……あなたに教える義理はない」
「っ、私はお前を心配して……!」

鯉登がそう口にした途端、冷めきっていたみょうじの表情に怒りが灯る。直後、彼女は身を乗り出して鯉登の胸倉を掴見上げると、ぐっと勢いよく引き寄せた。

「……誰が心配してくれと頼んだ」
「身を滅ぼすような選択ばかりするからだ……お前は女としての幸せを追うべきだ」
「そんなものとうに捨てたと言ったはずだ。大体、あなたに心配されるほど弱い人間になったつもりはない」

はっきりと怒りを滲ませたみょうじの瞳を、鯉登はじっと見つめ返した。そして未だ自身の胸倉を掴む彼女の手を覆ってぎゅっと握り締める。

「お前が強い女なのは認める。だがそういう話ではない」
「…………」
「大事な人間が傷付くかもしれない時に、みすみす見逃す奴がどこにいる」

真剣な眼差しで紡がれた鯉登の言葉に、みょうじは毒気を抜かれたように「は、」と素っ頓狂な声を上げた。

「……しなずがわとやらの気持ちがよく分かる。お前は無茶をし過ぎだ。もう少し自分を大事にしろ」

不意に出された名前でついに戦意喪失したのか、みょうじは鯉登の手を振り払うとぼすりと寝台に座り込んだ。そうして前髪をかき上げて長いため息をついたのち、「参ったな」と独りごちる。そこにはもう怒りの気配はすっかり消え失せていた。

「まだ今なら間に合うはずだ。今からでも普通の幸せを手に入れろ」
「そんなもの今更……確かに私は軍人じゃない───でも、私も同じですよ」
「……?」
「"大事な人間が傷付くかもしれないのに、みすみす見逃すわけにはいかない"」

みょうじの大事なもの、それを想像してまず頭に思い浮かぶのはアシㇼパの存在である。みょうじの態度は彼女にだけ分かりやすく柔らかかったから。一緒に旅をした者であれば、皆同じ印象を抱いているに違いない。

しかし、彼女はアシㇼパでなく師団を選んだのだ。まさかスパイとして潜り込んだつもりか―――否、鶴見中尉を欺けるなどとは彼女も思っていないだろう。ただでさえ警戒されている状況なのだから。

「……月島か」

アシㇼパと杉元が逃亡したあの瞬間、彼女が咄嗟に追いかけようとしていたことには鯉登も気付いていた。そしてそれを月島が止めたことも。だが、みょうじならあれくらい簡単に振り解けたはずなのだ。

しかし鯉登の予想に反して、みょうじは首を小さく横に振った。

「全部だ。…………全部だよ」

彼女の双眸がじっと鯉登の方へと向けられる。「そこにはあなたも含まれるんですよ」言外にそう訴えるそれに、鯉登はもう反論の言葉を持ちえなかった。その胸に、不意に嬉しさが湧き上がってしまったのだ。