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鯉登とみょうじの入院生活が始まって早二週間。みょうじはこれまでの問題行動から一転、すっかり大人しくなっていた。数日前、ついにあの鬼軍曹から雷を落とされたことが効いたらしい―――というのは看護師達の見立てであるが、実の所は上手く人の目を掻い潜っているだけであることを鯉登は知っていた。どうやら彼女は二週間足らずで看護師の巡回時間も月島の見舞いの時間もしっかり把握したらしい。

そうして今日も今日とて早朝から病院を抜け出していたみょうじは、いま素知らぬ顔で読書に耽っている。月島はそんな彼女を見てようやく肩の荷が降りたと言わんばかりに小さく息をついた。いくら目敏い男と言えども、まさかその読書の姿がたった数分前に作られたものとは気付くまい。今日も騙されているな、と唯一事実を知る鯉登は内心盗み笑った。とその時、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。

「おはようございます!! 鯉登少尉殿!! 月島軍曹殿!!」

部屋にやってきたのは二階堂で、彼は鯉登の寝台に駆け寄るや思い切り声を張り上げた。隣の寝台ではみょうじが迷惑そうに顔を歪めている。しかし「みょうじ! おはよう!」と二階堂の挨拶が彼女にも向けられると素直にそれに応じていた。二階堂と一緒に入ってきたもう一人の男、有坂の存在がそうさせたのだろう。

「おお〜二階堂一等卒、いつになくシャキッとしておるな」
「ハイッ! 有坂閣下から頂いた新しい薬のおかげであります!! 鯉登少尉殿、月島軍曹殿、おはようございますッ!!」
「新しい薬?」
「私の友人の薬学者である長井くんが最近開発したメタンフェタミンという薬だ!!」

鯉登の疑問に答えたのは有坂だった。二階堂以上の彼の声量に、みょうじは目を瞑って耐えている。だか「この薬は売れるよ絶対!!」と薬を絶賛し始めた有坂と、何やら箸で遊び始めた二階堂を見て早々にここから離脱しようと決めたらしい。彼女は静かに寝台を降りるとそのまま廊下に向かおうとして、しかし二人の横を通り過ぎようとしたところで二階堂に腕を鷲掴まれた。

「みょうじ! 手、貸して!!」

みょうじの顔にははっきりと「嫌だ」と書いてある。それでも彼の勢いは止まらない。二階堂は掴んだ彼女の手を丸机に叩きつけると、問答無用で指の間に箸を突き立て始めた。ガガガガガッと物凄い速さで箸先が机を叩く音がして、その様子を鯉登と月島が引き気味に眺める。が、程なくして「い゙ッ!」とみょうじが声を上げ、ほぼ同時に二階堂がぶん殴られた。どうやら彼女の指を突き刺してしまったらしい。

直後、「イタイッ! イタイッ!」と叫びながら病室内を駆け回り始めた二階堂。みょうじは自身の指を擦りながら彼をきっと睨みつけ、それとは対照的に有坂が「元気! 元気!」とご機嫌に手拍子を送った。

「鯉登少尉殿、経過は良好ですね」

まるで野犬収容所に放り込まれたかのように一気に騒がしくなったそこで、家永だけはいつも通りだった。​―――そう、いつも通り鯉登の若い身体にうっとりし、彼の腕に噛み付こうと大きく口を開けた。すかさず月島がそのこめかみに銃口を突きつける。

「お前も刺青人皮にしてやろうか」
「私の刺青の写しは鶴見中尉も土方歳三さんも持っているのでわざわざ引っ剥がしても使い道はございませんけど」
「じゃあ財布にする」

自身の負けを悟ったのか家永は月島の脅しをさらりと無視し、しかし欲求を抑える気はないのか今度は鯉登の採血を強行しようとした。そのすぐ隣を二階堂が「イタイイタイ」と走り抜ける。あっちでもこっちでもふざけた奴がふざけた言動をとっている。この状況にみょうじはうんざりした様子で深くため息をついたのち、月島と家永のやりとりに割り込んだ。

「ところで私はいつ退院できるんだ。傷はとっくに塞がってるだろ」
「骨に異常があるかもしれないので、もう少し様子を見てから……」
「検査なら何度もしたじゃないか。……言っとくが、私の血を飲んだって意味はないからな」

その言葉に「えッ、」と声を漏らしたところを見るに、やはりそれが目的だったらしい。何かと理由をつけて毎日のように採血をしていた時点で分かってはいたけれど。鯉登以上に治りの早いみょうじの身体は、家永にはさぞ魅力的に映ったに違いない。

「効果があるなら肺か心臓だろうな」
「……肺を片方頂いても?」
「馬鹿言うな」

ぴしゃりと断った彼女に、家永が不満げにむうと頬を膨らませる。みょうじはその態度に軽い頭痛のようなものを覚えて、眉間に指を押し当てた。

「死んだらいくらでもくれてやる」

おざなりにそう言ったみょうじが、そんなことはいいからとにかく退院させて欲しい―――と続けようとしたところで、「エッ!!」と二階堂の声に遮られた。

「じゃあ俺、耳! 耳ちょうだい! 左の!」

天井を突き刺さんばかりの勢いで挙手した二階堂が、喚きながら詰め寄って来た。それに一瞬ぎょっとしながらも、みょうじはぐいぐい迫ってくる彼の胸を押し返す。耳元でワァワァ騒がれるのが我慢ならないのか、片方の手はぴったり耳を塞いでいる。そうして心底辟易した顔で「分かったから! 勝手にしろ!」と怒鳴れば、二階堂はパッと顔を明るくし「ヤッタァー!」と叫び声を上げ、再び病室内をぐるぐる駆け回り始めた。それにすかさず有坂が手拍子を送る。

「ウンコした後の猫みたいに走っとる!」

例えは独特ながら薬の効果を喜んでいるらしい。そんな有坂の隣で、みょうじは怒りに震えている。そうしてついには「やかましい!」と再び二階堂を殴り付けた。ドタッと床に倒れた音が響いたかと思うと、二階堂は「イタイイタイ」とそのまま床をばたばたと転がり―――それまでじっと成り行きを見守っていた月島が、ふっと窓の外を見やった。その視線の先には連なる山を背景に一羽の鴉が飛んでいて、月島は遠くを見るような目でぼんやりとそれを眺めた。そう、現実逃避に走ったのである。

みょうじの退院が決まったのは、その日の午後のことであった。



翌朝、ようやく退院となったみょうじは、病院を出たその足でそのまま通信局へと向かった。退院したことを鶴見に報せるためである。元々は電報を送るつもりでここへ来たものの、ふと目に入った電話機になんとはなしにそちらで連絡を取る事にした。この時代の電話料金は5分間で45銭―――入院中、甲斐甲斐しく鯉登の暇潰し品を調達してやったみょうじは、それに十分足りる駄賃をもらっていたのである。

受話器を上げると、無機質な音が数度繰り返されたあとに交換手に繋がった。「何番ですか?」そう尋ねるその女性に、鶴見がいま拠点としている建物の電話番号を告げる。もし不在であれば誰かに伝言を頼もう、どうせすぐに電報を送ってくるだろう―――そんなことを考えているうちに、鶴見本人と電話が繋がった。

「電話とは珍しいな」
「こっちの方が早いしな」

そう言ってみょうじは手短に退院したことを告げると、鶴見は労いの言葉もそこそこに「札幌へ迎え」と指示を出した。札幌と聞いて頭に浮かぶのは、連日のように紙面を騒がせている連続殺人事件である。鶴見がそれを刺青囚人の仕業と考え、そちらにも捜査の人員を割いていることはみょうじも聞き及んでいた。

「菊田特務曹長と宇佐美上等兵と合流して二人を手伝え。私もしばらくしたらそちらに向かう」
「……その前にいくらか調達したいものがある」
「準備が整ってからでいい」

きっとこれを機に金塊争奪戦からは外されるのだろうと予想していたみょうじだったが、どうやらその読みは甘かったらしい。彼女がどれだけアシㇼパに目をかけているか、鶴見は月島と鯉登からその報告を受けているはずである。それでも尚、傍に置くことを選んだのは何故なのか。自身への忠誠心を試すためか、それとも泳がせて動向を探るつもりか―――おそらくはその両方だろうとみょうじは思った。関係者(それも敵陣営との繋がりがある人間)から目を離すのは得策では無いと踏んだのだろう。

「そっちもアシㇼパの追跡にさっさと見切りをつけて囚人探しに戻ったらどうだ?」
―――まさかここに来てあの娘の味方をするつもりか?」
「見つけ出すのは容易じゃないって話だ。残った囚人も少ないだろ。アシㇼパ達も囚人探しを続けるだろうし、いずれどこかで鉢合わせるはずだ」
「こちらが囚人を探している間に土方達と手を組まれては困る」
「今の所それはないだろうな。土方さん達には一度裏切られてるし、……あっちには尾形がいるから」

みょうじの言葉をきっかけに、二人の間にしんと沈黙が流れた。それから鶴見が重々しい口調で「何故それを?」と問いかける。きっと電話口の向こうではあの冷めた顔をしているに違いない、とみょうじは大泊での鶴見を思い返した。あの時ばかりは動揺してしまった彼女も、今はその頬に薄い笑みを浮かべる。

「ふふ、自分だって知ってる癖に。いつの間にか師団の人間が紛れ込んでるものな」
「…………」
「次は失敗するな、と言ったのはあんたじゃないか。……きっと役に立ってみせるよ」

みょうじが毎日のように病院を抜け出し何かを捜しているらしい、という報せは当然鶴見の耳にも入っていた。まさか、尾形を捜していたのだろうか。しかし有古の情報によれば、土方達の潜伏場所には半日やそこら病院を抜け出したところで辿り着けないはずである。鶴見はしばし考え込むように沈黙に籠ったのち、ふっと不敵な笑みを漏らした。

「相変わらず底の知れん女だ」

それは電話越しでも伝わるほど、実に満足そうな声色だった。