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みょうじの出発の準備が整ったのは、鶴見との電話から数日後のことだった。探していたいくつかの薬のうちの最後のひとつ―――ようやく今日手に入ったそれを雑嚢に詰め込んで、みょうじはふうとひとつ息をついた。それからちらりと窓の外を見れば、山の麓でもう日が沈もうとしている。
出発は明日の朝だな、とみょうじは内心独りごちて、今日の内に鯉登とインカㇻマッの見舞いに行っておくかと考えた。極端に暇を嫌う鯉登はみょうじの退院が決まった時も一人何やら喚いていたし、しばらく見舞いに行けないと知ったらきっとへそを曲げるに違いない。いつもより多めに本を渡して機嫌をとっておくかと結論づけて、みょうじは病院に向かう前にひとまず近くの書店に向かうことにした。彼の良い暇つぶし相手であるインカㇻマッももうすぐ臨月に入ろうとしているし、あまり無理もさせられない。彼女の大きく膨らんだお腹を頭に思い浮かべて、みょうじはふっと薄い笑みを浮かべた。
▽
書店でいくつかめぼしい本を選んでいれば、病院に着く頃にはすっかり夜になっていた。思いのほか本選びに時間を掛けてしまったらしい。買った数冊の本を引っ提げて病院の扉の前に立ったみょうじの目に「受付終了」の文字が映る。面会時間はとうに過ぎているのだ。
しかし入院中にしょっちゅう病院を抜け出していたみょうじにとって、いくら出入り口が施錠されていようと特に問題はない(病院側からすれば大問題だが)。きょろきょろと辺りを見渡し二階の廊下の窓が僅かに開いているのを見つけた彼女は、そこからこっそり侵入することにした。壁を登り窓枠を潜り抜け、廊下に降り立ったところで人の気配を探ったがどうやら誰もいないらしい。これは運が良いとばかりに、みょうじはそそくさと鯉登の部屋へ向かった。
「なぜ貴様がここにいるんだ!? 」
目的の病室の扉を開ければ、鯉登がぎょっとした顔で叫んだ。が、みょうじが人差し指を唇に押し当てたのを見て慌てて口を噤む。それを確認したのちに、みょうじは手に持っていた数冊の本を寝台横の小さな机の上に置いた。
「明日の朝ここを発つことになったので、最後の見舞いです」
心底驚いた顔をしていた鯉登だったが、彼女の言葉を受けいくらか冷静になったらしい。ちらりと彼女の置いた本を見た彼の顔は、真面目くさったものになっていた。準備が整い次第ここを発つという話は、既に鯉登にも伝えてあったのだ。
「札幌だったな。……あまり無茶をするなよ」
「まァ、善処します」
その返答が気に食わなかったのか、鯉登はむっと唇を突き出した。しかしみょうじは素知らぬ顔で明後日の方へと視線を移す。そんな彼女の様子に鯉登がため息を漏らしそうになった時、どこからかドンッと激しい音が聞こえてきた。
「なんの音だ……?」
動揺する鯉登を横目に、みょうじが窓の傍へと移動する。そうして音のした方角をじっと探るように見つめていれば、再び荒々しい音が聞こえてきた。どうやら誰かが暴れているらしい、と二人はほとんど同時に理解した。
「インカㇻマッの部屋の方だ」
みょうじは鯉登の方を振り返って、重々しい口調でそう言った。「まさか」二人の脳裏にとある予感が過ぎる。インカㇻマッの元でいま起こりうる問題はひとつ。鯉登とみょうじの頭に浮かび上がったのは、彼女(とそのお腹の子ども)を人質にとられアシㇼパ捜索に駆り出されていた谷垣の存在である。
「行くぞッ」
「……行ってどうする気です」
寝台に隠していたらしい拳銃を手に取って、慌てて部屋を出ようとした鯉登をみょうじがすかさず呼び止める。その銃を一体誰に向けるつもりなのか。言外にそう訴える彼女の目に射抜かれて、鯉登はぐっと口を結び当惑の色をその顔に漂わせた。
「…………分からない」
苦渋に満ちた表情でそう零した彼は、しかしその迷いを振り払うように勢いよく病室を出た。その背中をみょうじも慌てて追いかける。パァンッと鋭い銃声が響いたのは、それからすぐのことだった。
▽
インカㇻマッの病室がある廊下へと辿り着くと、血にまみれて倒れている家永の姿が二人の目に飛び込んできた。それに動揺した鯉登が思わずその場に立ち竦む。が、みょうじは足を止めることなくそのまま彼を追い抜き、家永の傍に駆け寄った。そうして寄り添うように屈み込めば、胸の中心とみぞおちの辺りを撃たれているのが分かった。そこからどくどくと溢れ出る血液がまるで生き物のように家永の身体を這い、床を進み、みるみる血溜まりを作っていく。
「……家永、」
だらりと床に垂れた手を握ってみるものの、何の反応も返ってこない。ぼんやり宙を見つめたまま動かないその双眸は、家永が既に事切れていることを知らしめた。
「なまえさん……」
落ちてきた声にはっとしてその方を見れば、インカㇻマッが真っ青な顔をして立っていた。彼女の奥には谷垣、そして月島の姿もある。どうやら月島は気を失っているようで、その身体をぐったりと谷垣に預けている。先程までの争うような激しい音は、谷垣と月島によるものだったらしい。
「月島は、」
「家永さんが……。眠っているだけだそうです。二時間は起きないと」
「……そう」
見れば床には注射器が転がっている。みょうじは注射器、そして月島へと視線を移したのち最後に谷垣を見た。険しい顔でこちらを睨みつけている彼は、どうやら敵か味方かを見極めようと警戒しているようだった。
みょうじはそれに気付きながらも何を言うでもなく、ただ静かに立ち上がる。そうして尚も警戒の視線に晒されながら―――突然、外套の釦を外し始めた。その様子に、谷垣とインカㇻマッが思わずぱちりと目を瞬かせる。意図が分からず戸惑っていると、外套を脱ぎ終えたみょうじがばさりとそれをインカㇻマッの肩に掛けてやった。
「……元気な子を産むんだよ」
みょうじの言葉に、強ばっていたインカㇻマッの表情が僅かに和らぐ。「はい」とインカㇻマッは外套の端をぎゅっと握った。
「……みょうじ、すまない」
「勘違いするなよ、谷垣。お腹の子のためだ。……必ず守り抜けよ」
「そのつもりだ」
谷垣は覚悟を決めた顔でそう言った。それから「行こう!」とインカㇻマッを促して、二人は足早に病室を出る。しかし廊下に出てすぐのところには拳銃を持った鯉登が待ち構えていた。一見撃つ気配はないものの、その銃口はしっかり二人に向けられている。谷垣は咄嗟にインカㇻマッの前に立ち、火花を散らさんばかりに鯉登を睨みつけた。その場はぴりぴりとした緊迫感に包まれて、まるでその空間だけ重力が増したようでさえあった。
みょうじは対峙する彼らの様子をその後ろからじっと見据えていた。もしもの時に備え、後ろ手に抜いた小太刀を構えて。撃つ素振りを見せたらすぐに飛び出せるようにと、その足先にぐっと力を込める。
しかしみょうじの心配は杞憂に終わった。鯉登が構えていた銃を下ろしたのだ。彼は苦渋の表情で、しかしその瞳には確かな信念を宿らせて、ただ一言「行け」と二人に告げた。
谷垣とインカㇻマッは、驚きかあるいは懐疑からか一瞬その場に留まり、しかし結局は逡巡ののちに走り去っていった。みょうじは小さくなっていく二人の背中を見据えながら、後ろ手に構えていた小太刀を静かに鞘へと戻した。
「まさか見逃すなんて。正直驚きました」
「…………これで良かったんだろうか」
今しがた下したばかりの判断に、彼は自信を持てないでいるようだった。なにせ二人を見逃したことは明確な鶴見への裏切りである。鯉登が吐露した迷いに、みょうじは少しの沈黙ののちゆっくりと口を開いた。
「さぁ、どうでしょうね。ただ―――、その選択には感謝します」
「……お前は、なぜ」
「自分の心に従ったまでです」
ついとみょうじの視線が鯉登に向けられる。そうしてじっと見つめられて「貴方もそうなのでは?」と言い切った彼女に、鯉登は口をもごつかせた。断言出来るほどの"なにか"があった訳ではなかったのだ。何せ未だにこうして考えあぐねているくらいなのだから。しかしそこに後悔はあるかと問われれば、ない。こんなことをして後々どうなるやらという不安はあるものの、胸の奥はやけにすっきりしている。
「そう……かもしれない」
「はは、なんですかそれは」
みょうじがそう呆れ笑いを漏らした時だった。病室の方からダァンッと銃声が響いた。鯉登とみょうじはびくりと肩を震わせて、慌てて部屋に駆け込んだ。見れば月島が先程とは違う体勢で倒れている。おそらく今の銃声は月島が発砲したものなのだろう。
「……しぶとい奴め」
みょうじは渋い表情でそう零すと、月島をひょいと担ぎ上げてインカㇻマッが使っていた寝台へと寝かせてやった。あまりにも軽々と持ち上げるものだから、その様子を見ていた鯉登が少しばかりたじろいだ。彼女の馬鹿力は樺太公演の一件で十分理解しているが、時々そのことを忘れてしまうのだ。なにせ女が大の男を抱えるなど、そもそも絵面に違和感がある。まぁ、彼女はそんな事を気にする性分ではないのだろうが。
それから二人は急いで家永の遺体を他の場所へ移す事にした。既に銃声を聞き付けた人間はいるだろうが、今この騒ぎが広まっては困るのだ。逃がした以上は谷垣とインカㇻマッの元へ追手が向かうことは避けたかった。せめて明日の朝までは、と慌てて遺体を移動させ、床に付いた鮮血を拭き上げた。
ようやくそれらの作業にひと段落ついた時、二人は殆ど同時に深いため息を漏らした。その顔はすっかり疲れきっている。ほっと一息ついた二人の頭に自然と浮かび上がったのは、やはり谷垣とインカㇻマッのことだった。
「……二人は無事でしょうか」
「病院はすぐに鶴見中尉の手が及ぶだろうが……アイヌのコタンならあるいは」
インカㇻマッが身重である以上、おそらくそう遠くには逃げられないだろう―――そんな事実が頭を過ぎり、鯉登とみょうじは重たい空気を漂わせた。が、再び先程の病室へと戻ったところでそんなものは一瞬で吹き飛んでしまった。確かに寝台に寝かせたはずの月島が、忽然と姿を消していたのだ。
「まさか、二人を追ったのか……?」
「……私達も追いますか?」
「しかしどこへ向かったか分からんぞ」
焦る鯉登とは対照的に、みょうじは落ち着いた様子で「ああ、それなら」と窓の方へと向かった。そうしておもむろに窓を開け放ち夜空を見上げた彼女を、鯉登が怪訝な顔で見つめる。まさか、そこから気配を探る気だろうか。彼女がそれを得意とすることは鯉登も知ってはいるが、流石に限度というものがあるだろう。月島がいつここを離れたかは分からないが、既に遠くに行った可能性は大いにある。が、どうやら彼女の策は別にあるようだった。
「丁度良かった。探し物を披露する良い機会です」
外を向いたままそう言った彼女に、鯉登が「は、」と声を漏らす。いつだったか、「見つかったら教えます」と言っていたそれ。どうやら人探しに役立つものらしいが、全く検討もつかない。鯉登が疑問符を飛ばして戸惑っているのをよそに、彼女は空に向かってピイッと指笛を鳴らした。
「……なにを、」
「しているんだ」続けようとした言葉は飲み込んだ。彼女に聞かずとも、その答えの方からやってきたのだ。まるで夜の闇から生まれたように突然現れたそれは、ばさりと乾いた羽音を立ててみょうじの肩に止まった。
「私の相棒です」
彼女の言葉に答えるように、今しがた現れたばかりの鴉が「カア」とひとつ鳴き声を上げた。