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みょうじが呼び寄せた鴉に鯉登が戸惑いの声を上げた頃、他方では谷垣とインカㇻマッが逃走中に馬を乗り捨てたところだった。谷垣の血痕を辿り二人を追って来た月島を撒くためである。

谷垣は下りたばかりの馬の脚を軽く切りつけると、インカㇻマッを抱きかかえて走り出した。臨月である彼女にとってはさぞかし辛い逃走劇に違いない。お腹が張って辛いのか、インカㇻマッは耐えるように歯を食いしばっている。本来であればこの時期にこんな無理はご法度だろうが、つい先ほど「破水した」らしい彼女を早く安全な場所へ移動させる必要があった。緊急を要する事態の中、谷垣が咄嗟に思いついたのはアシㇼパの故郷―――フチの存在であった。
 
「フチ……! ごめん、ただいま」

ゼェゼェと荒い息を繰り返し、大量の汗を垂れ流しながら谷垣はようやく目的の家に辿り着いた。まさに縋るような思いでチセの中へと駆け込めば、何事かと驚いた顔でこちらを見上げるフチと目が合った。が、抱えていたインカㇻマッを見てすぐに状況を察したらしい。彼女の顔がきゅっと険しいものに変わり、何やらアイヌ語で指示を飛ばしてきた。身振り手振りから「床に寝かせろ」と言っているのだろうと察した谷垣は、インカㇻマッをできるだけ優しくそこに降ろしてやった。

「第七師団の兵士がこの村を見張っているだろう?」
「大丈夫! その兵隊さんは毎晩うちの人が酒飲ませてて、オソマに顔ふまれても昼まで絶対起きないから」

頼る場所として咄嗟にここを思いついたものの、心配の種は大いにあった。しかしどうやらそれは杞憂だったらしい。オソマの母親の言葉にほっと胸を撫で下ろしつつも、心配事は他にもある―――月島の存在だ。彼が簡単に追跡を諦めるとは思えない。それに、自分たちがこの村に逃げたことも容易に予想できるだろう。彼がこの家に辿り着く前に山で迎え撃とうと、谷垣はインカㇻマッをフチ達に託しチセを出ようした。

「駄目です! 谷垣ニㇱパ戦わないでッ!」
「必ず戻る。俺は不死身だ」
「あなたは不死身じゃありません! あなただけで逃げてッ!」

インカㇻマッの制止を振り切って、谷垣は銃を握りしめチセを飛び出した。―――が、外に足を一歩踏み出したところで早速銃を奪われてしまう。既に村に辿り着いていた月島が待ち構えていたのである。奪われた銃で殴りつけられ、強烈な蹴りを食らい、その衝撃で谷垣がどさりと地面に沈む。それでも谷垣は怯むことなく、チセの中にいる女たちを守るように月島の行く手を阻んだ。

「俺だけ殺せ。インカㇻマッやフチたちには何もするな」
「谷垣一等卒、お前はずっとずっと前に選択を間違った。隊に戻らずその女や老婆に出会ったときから……」

そう言って月島がおもむろに銃を構える。その銃口は真っすぐ谷垣に向けられて、引き金に掛けられた指先にぐっと力が込められる。その時、黒の塊が勢いよく月島の目の前を通り過ぎ、銃の先端を掠めていった。しっかり定めたはずの照準は大きく狂い、月島が思わずぐっと顔を歪める。

「ッ……鴉、?」

チッとひとつ大きな舌打ちをしてその黒の塊を見れば、それは一羽の鴉だった。バサリと谷垣の前に降り立ったその鴉は、鳴き声ひとつ上げずにただじっと月島を見上げている。普段見かけるものより一回り程小さい体と艶々しい黒の羽根を見る限り、どうもまだ若い個体らしい。

それにすっかり気を取られていると、背後からザッと土を踏みしめる音がした。咄嗟に振り向けば、腕を振り上げたみょうじの姿が視界に飛び込んで来た。
 
「ッ、」
 
彼女の拳はすぐ目の前まで迫っていたものの、月島は瞬時に銃身をぶつけてそれを跳ね除けた。間髪入れずに反対の拳も飛んできて、月島はそれよりも早く間合いを詰めると彼女を勢いよくなぎ倒した。打ち付けられた衝撃でウッと呻いたみょうじに、すかさず月島が馬乗りになってそのまま地面に強く押さえつける。それでも彼女は獣のように目をぎらつかせて、きっと睨み付けてくる。
 
月島は闘志に満ちたそれを淡白な表情で見下ろすと、持っていた銃を真っ直ぐ彼女に突きつけた。
 
「お前も師団の裏切り者ということでいいんだな? それがお前の出した答えか」
「産まれてくる子どもを殺すことがお前らの正義なら私は従えない」
「そもそも裏切らなければこんなことにはならなかった」
「……そうやって自分を正当化してるのか?」

挑発的なその問いかけに、月島は冷めた視線を送るだけだった。返事のないことに痺れを切らしたみょうじは、眼前に突きつけられた銃口を鷲掴むとあろうことか自身の額に強く押し当てた。
 
「何を焦ってるんだ、月島。言い訳しなきゃ潰れてしまいそうな癖に。苦しいなら私が背中を押してやるよ。その引き金を引けば一瞬だ」

堕ちろ。月島には彼女がそう言っているように聞こえた。その瞬間、まるで自分が崖っぷちに立っているような感覚に陥る。そこで初めて、月島の瞳が僅かに揺らいだ。あと一歩、足を踏み出してしまえば楽になれる。どうせ後戻りなどできないのだから。崖のふちにじりじりと足を進めるみたいに、引き金に掛けた指にぐっと力を込め―――「月島ッ!」―――聞き慣れた声に制される。
 
「もういい、月島やめろッ」
「あなたまで……谷垣たちが無事に逃げられるか私を着けてたんですか?」

月島はみょうじに向けた銃口をそのままに背後を振り返った。反対の手には拳銃が握られていて、しっかりと鯉登に向けられている。
 
「殺したところで何になる! 谷垣に頼るのがアシㇼパを見つける唯一の方法ではないだろう!? 逃げたい者は放っておけばいい!」
「『脅し』は実行しなければ意味がない。他の者にも示しがつかない。―――邪魔をするなら殺すと言ったでしょう。あなたも鶴見中尉を裏切ったということでいいですか?」

相手が鯉登であろうと、月島の態度は変わらなかった。否、みょうじからすればもはや意固地になっているようにも見えた。この男が意志を曲げることはないだろうと、みょうじは月島が鯉登に気を取られているうちに彼の持つ銃のボルトへとそっと手を伸ばす。それを抜き取れば銃が使用不能となることは、いつだったか小樽の山で見た杉元と尾形の闘いで知ったことだ。

が、ボルトまであと一寸足らずというところで、伸ばした手は目的を失うこととなった。

「銃を下ろせ。これは上官命令だ。私は鶴見中尉と月島軍曹を最後まで見届ける覚悟でいる」

強い意志を感じさせる鯉登の言葉に、月島の銃を握る手がふっと緩んだのだ。「私や父が利用されていたとしてもそれは構わない」続ける鯉登の声に導かれるように、月島がふらりと立ち上がる。拘束を解かれたみょうじが咄嗟に上体を起こすが、彼は気にもしていないようだった。というより、放心しているようである。そんな彼に鯉登はさらに畳み掛けた。

「ただ私は鶴見中尉に本当の目的があるのなら見定めたい! もしその先に納得する正義がひとつも無いのならば……後悔と罪悪感にさいなまれるだろう。だからこそ我々はあの二人だけは殺してはいけない」
「私にはもう遅い!」

鯉登の言葉に被せるように、月島は声を荒らげた。しかし「たくさん殺してきた……利用して死なせてしまった者もいる」と続けた語り口は酷く弱々しいものだった。それは腹の奥底に押し込めていた感情が溢れ出ているように見えた。

「まだ遅くないッ!」
「本当に大切だったものを諦めて……捨ててきました。私は自分の仕事をやるしかない」

彼のその言い分は、「生きる道はもうこれしか残されてない」とでも言っているようである。全てを諦めてしまった人間の独白にも聞こえる。

「その厳格さは捨てたものの大きさゆえか? 月島……!」

鯉登の問いに月島は答えず、代わりにチセの中を振り返った。その顔は苦しげに歪められていて、まるで縋るような視線がインカㇻマッに向けられる。初めて見る彼のそんな表情を、みょうじはどこか複雑な気持ちになりながらじっと見上げた。

「インカㇻマッ……あの子は……」

「あの子」が誰を指すか、みょうじは知る由もない。しかしこれまでインカㇻマッの占いに不信感をあらわにしていた月島が、それに頼ったのだ。きっと彼にとって大事な人なのだろう。いつも仏頂面で本心を出さない彼が、その心情を剥き出しにしている。みょうじにはそれが酷く痛々しいものに見えた。

しかしインカㇻマッは努めて冷静に月島に手を翳す。探し物をする時にいつもやっている仕草だ。そうしてじっと月島を見上げていた彼女は、突然「うッ」と呻き声を上げて苦しみ始めた。

「ううう、……ッ」
「もう産まれちゃう!」

オソマの母親の言葉をきっかけに、ぱっとその場の空気が切り替わる。これまでの深刻さから一転、緊迫した慌ただしさが訪れたのだ。母は強しとでも言うべきか、オソマの母は銃に怖気付く様子も見せずテキパキと指示を出した。谷垣はお湯を沸かし、鯉登は藁集め、月島は子守り「あんたはこれ! ノヤハムを集めてきて!」例に漏れずみょうじにも指令が下る。

その勢いに月島でさえ抗議する隙もなく「さあ早く!」と四人はばたばたとチセの外に追いやられてしまったのだった。