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インカㇻマッのお産が始まってから一体どれくらいが経ったのだろう。オソマの母に指示されるがまま慌ただしく駆け回っていた四人には、もはや時間の感覚はほとんどなかった。しかしコタンに辿りついた時にはまだ出たばかりだったはずの太陽は、もう殆ど真上まで来ている。相当の時間が経っていることは明らかだった。その間、チセの中からはインカㇻマッの苦しそうな呻き声が漏れ、今ではそれが悲鳴に近いものに変わっている。ひと際大きな声が上がる度に谷垣はちらちらとチセの様子を窺って、落ち着かない様子でぐるぐると辺りを歩き回った。元気な産声が四人の耳に届いたのは、それからさらに数刻が経った頃だった。

「俺の子ども……」

羊水と血液にまみれ産声を上げる赤子は、フチの手によって丁寧に拭き上げられ、インカㇻマッの腕の中へと収まった。疲れ切った様子で、しかし確かな愛情を孕んだ瞳で我が子を見下ろす彼女の顔はまさに母性そのものである。そんな彼女と今しがた生まれたばかりの小さな我が子を前に、谷垣が途端に目を潤わせる。そうしてずぴっと鼻を鳴らした彼に、みょうじはふっと笑ってその背中をバシンと叩いた。

「傍に行ってやれよ」

そう言ってみょうじは踵を返すと、赤ん坊にすっかり目を奪われてチセの前に突っ立っていた男二人に、この場を離れるよう促した。せめてこの瞬間だけでも家族で過ごすべきだと思ったのだ。そもそもこの実に神聖な場面に、刀や銃を携えた自分たちが似合うはずもなかった。



フチの家を出た三人は、それから真っすぐにオソマの家へと向かった。酒に飲まれ爆睡しているという第七師団の見張り役と話をつけるためである。

「おい、起きろ」

話に聞いていた通り、声を掛けた程度では全く起きる気配のない男の頬に月島が容赦のない平手打ちをお見舞いする。男は「ふがっ」と情けない声を上げたのちにぼんやり目を覚まし、それからすぐに瞼をかっ開いた。そうしてみるみるうちに顔を青ざめさせたかと思うと、勢いよく土下座の体勢をとったのだった。

「鶴見中尉殿には黙っておいてやる。一週間ほど街で過ごして頭を冷やしてこい。これまで通り『問題なし』と報告し続けるように」
「あ……ありがとうございます鯉登少尉どのッ!」

既に病院の方は騒ぎになっているにだろうが、この男さえ口を割らなければここに捜査の手が及ぶ心配はない。この男だって自らの失態をみすみす晒したくはないだろうし、鯉登の指示に従う他ないはずだ。

後は鯉登と月島の方から鶴見にそれらしい一報を入れておけばいい。「気付いた時には既にインカㇻマッの姿はなく、辺りを捜索したが見つからなかった」と言った具合に。そうすればこの一連の騒動は握り潰せるはずだ。刺青人皮の収集とアシㇼパ追跡に注力している鶴見には、谷垣とインカㇻマッを追う余力などありはしないだろう。

「見張り役が間抜けで助かったな」

逃げるようにチセを飛び出した男───口封じのために鯉登が握らせた金をその手に握り締めて───を見送ってみょうじがそう言った。しかし鯉登と月島はそれに返事をすることなく、ただ複雑そうな顔をしただけだった。

いくら造反した立場とは言え完全に師団に背いたつもりはないのだ。あの男の失態に助けられたのはその通りだが、部下の体たらくを目の当たりにしたこともまた事実だった。

「病院も今頃騒ぎになっているだろう。鶴見中尉殿に報告が行く前に戻ろう」

話を切り替えるように鯉登がそう言ってチセを出た。それに続いた月島が、彼の背中に「鯉登少尉殿……」と遠慮がちに声を掛ける。

「あれは本心だったのですか? それとも……あの場を誤魔化そうとしたのですか?」

「あれ」とは、樺太を発つ前日、三人で話した時の鯉登の態度のことだろう。地面を転がり回る彼の奇行にはみょうじも酷く驚かされたから、強烈に記憶に刻み込まれている。

その実、みょうじはあの奇行を"その場しのぎの演技"と思っていた。なにせあの数日後には彼からはっきりと師団を離れるよう忠告されたのだから。鯉登が鶴見に対し不信感を募らせていることは間違いない。しかし彼自身は未だ師団に属しているし、謀反を企てている気配もない。もしかすると本人も判断に迷っているのかもしれない。───熱狂的なまでに心酔しきっていた鶴見を信じ通すべきか、否か。

そういう意味では、入院によって一時的にでも鶴見から離れることになったのは彼にとって良かったのかもしれない。冷静な頭で十分に考えることができたはずだ。一体、今の彼は鶴見に対して何を思い、これからどうするつもりでいるのか。みょうじはじっと鯉登の言葉を待った。

「どちらとでも……好きにとれ。ただ私は鶴見中尉殿が……皆を犠牲に私服を肥やさんとしたり、あるいは権力欲を満たしたいだけの……くだらない人間とは到底思えないのだ。あの人の本当の目的……月島、お前は心当たりがひとつもないのか?」
「『本当の目的』などそんな物はないのかもしれません……」

そこまで言って、月島は何かを思い出したように「指の骨」とぼつりと零した。

「指の骨を見たことはありますか?」
「誰の指の骨だ?」

そこで二人の視線がちらりとみょうじに向けられて、彼女は無言のまま首を横に振った。それを見た月島が「いえ……関係ないかもしれません」と視線を落とす。その目は何かを考え込むように、じっと単調な地面を見つめている。

「『同胞のために身命を賭して戦う』それが軍人の本懐だ! そうだろ月島。お前の鶴見中尉殿に対する姿勢は健康的ではない。私は鶴見中尉殿を前向きに信じる。月島はその私を信じてついて来い」

快活な男だな、と鯉登の朗らかな笑みを見てみょうじは素直にそう思った。眩しい男だ、とも。しかしそうやって感心したのも束の間、彼は衣囊から一枚の写真と小さなはさみを取り出すと、チョキンと何かを切り落とした。一体何をしているのか、と思った所で「こういうことだ、月島……!」と件の写真が月島の方に向けられる。

「意味が分かりません」

そう言い捨てた月島の後ろからみょうじが写真を覗き込む。そこには鶴見と月島が写っていて、月島の顔部分には鯉登の顔写真(それもなぜか上半分だけ)が貼り付けられていた。「意味が分かりません」と言った月島の言葉はまさにその通りだった。

快活な男というよりただの楽天家なのかもしれない。今しがた上がったばかりの彼の評価が途端に下がっていくのを感じつつ、みょうじはハァと呆れたため息を零した。

「……まぁ、ひとまずはこれで一件落着ということで。私はこのまま札幌に向かいます」
「む、今から行くのか」
「本当なら今朝には発つ予定でしたから」
「その前に少し良いか?」

そう尋ねてきた声は鯉登のものでも月島のものでもない。背後から掛けられたそれに振り返ると、そこにいたのは谷垣だった。

「インカㇻマッが呼んでる」



三人が谷垣と共にインカㇻマッの元へ戻ると、丁度授乳を終えたところらしくフチがゲップのさせ方を教えていた。その傍には小さな器が置かれていて、中には少しだけ白い液体が残っている。きっと少し前にみょうじが街まで買いに走った牛乳だろう。産んだ直後はまだ母乳が出ないからと、オソマの母に買いに行くよう指示されたのだ。

「なまえさん」

インカㇻマッに呼ばれ、みょうじは腰に差していた小太刀を床に置くとゆっくり彼女の傍に寄った。「抱いてみませんか?」そう言っておもむろに差し出された赤子を、できるだけ優しくその腕に抱き止める。

「……小さいな」
「ふふ、赤ん坊を抱くのは初めてですか?」
「ないことはないけど……産まれたては流石に初めてだ」

みょうじの腕に抱かれた赤子を皆がじっと見つめている。大人五人分の視線を一身に受けながら、しかしその瞼はぴったりと閉じたままだ。どうやらぐっすり眠っているらしい。

「ハハ、わらび餅みたいだ」

新生児特有の柔らかさにみょうじが思わずそう零すと、月島が「もっとましな例えはないのか」と呆れ気味に返した。しかし首も座っていないその身体はふにゃふにゃと頼りなく、みょうじの言わんとすることも容易く理解できてしまう。

「どんな人間も、こうやって大事に抱かれた頃があるんだな」

大事に抱えざるを得ないその小さな生命を見つめて、みょうじがぽつりと零した。ほとんど独り言のようなそれに、月島はぐっと口を噤んだのだった。