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「……大丈夫か?」
「…………お気遣いどうも」
無事(?)果てた宇佐美を見て、菊田はようやくみょうじの目元から手を離した。二人の間には何とも言えない気まずい空気が漂っていて、しかしそもそもの原因であるはずの宇佐美は気にする様子が微塵もない。それどころか、今しがた放ったばかりの精子の行方を追い始める始末。
地面を這い塀の下に潜り込んだ彼に、菊田が「おべべが汚れるぞッ!」と慌てて声を荒らげるのものの馬耳東風、全く聞く耳をもたなかった。
「あった……! ありましたッ! こっちへ来てください!」
「なんだよ。お前の精子だろ? 気持ち悪い」
「いいえ、犯人の精子です! やっぱり犯人はここに戻っていた! そして自慰行為をしていました!」
宇佐美の返事を聞いてもやはり「気持ち悪い」以外の感想は出てこない。しかしあくまで真剣そのものである彼は、「ふむふむ、この状態から見るに……」と真面目くさった顔で精子を調べ始めた。
「触るな! 病気になるぞ宇佐美ッ!」
そう声を上げた菊田の隣では、みょうじが侮蔑の表情を浮かべている。そんな彼女の様子をちらちらと窺いながら、菊田は目の前の奇行をどうやって辞めさせるかを考えた。しかしそんな彼の苦悩もお構い無しに宇佐美は調査を続ける。ついにはみょうじの方が先に折れてしまい「私は聞き込みをしてきます」と踵を返してしまった。
「あっ、おい、」
それを咄嗟に止めようとした菊田だったが、この場に留まれと命じるのは些か酷な話だろうと結局は制止の言葉を飲み込んだ。全てはこの男のせいだ、と離れていく彼女の背中から宇佐美へと視線を戻せば、あろうことか彼は犯人のものと思われる精子の匂いを嗅いでいる。ここまでくるともはや拒絶感すら飛び越えて、気の遠くなるような感覚に襲われる。情報量の過多によって頭が考えることを放棄し始めたらしい。
「犯人は2日おきに来ています。しかも最後に来たのは2日前……犯人は今夜ここに現れます」
「なんてこった……こいつはとんだ精子探偵だぜ」
―――宇佐美はきっと札幌で役に立つ
鶴見中尉殿の言葉はきっとこのことだったのだろうと、菊田は捜査を任された時のことを思い返した。あの人はこれを知っていたからこそ宇佐美をここへ派遣したのだ。しかしだとしたら何故、みょうじまでここに寄越したのか。宇佐美の"これ"は若い女性に見せていいものではないだろうに。
そう思索に耽る菊田だったが、それを宇佐美の奇行が邪魔をする。
「もう一度再現してみます。今度は距離と高さで犯人の身長や年齢が割り出せるかもしれない」
「お前にそんな特殊能力があったとは……」
ひとまず鶴見の目論見は置いておくとして、問題は以降の捜査をどうすべきか、だ。宇佐美の能力が本物であれば犯人探しは一気に進むのだろうが、そうするとみょうじの同行は難しくなる。いや、ここはみょうじに我慢してもらうしかないのかもしれない。これでも一応はれっきとした任務なのだから。
しかしどうやってみょうじを説得するか―――頭を過ぎるのは先程の彼女の軽蔑に満ちた表情だ。やはり彼女だけは別行動で聞き込みに徹してもらう方がいいかもしれない。そう思い至った時、事態は突如として急展開を迎える。なんと宇佐美の推理通り、犯人が二人の前に現れたのである。
「何なんだこれはッ!?」
菊田が思わずそう叫んでしまったのも無理はない。何せ彼の目の前で男が二人、極めて真剣な表情で局部を扱きながら対峙しているのだから。
「こいつが犯人です!」
宇佐美の言葉を合図に、犯人との―――精子の―――撃ち合いが始まった。目の前で繰り広げられる訳の分からぬ応酬、しかし菊田は努めて冷静に順応する。というより最早、諦めの境地に近い。咄嗟に後ろを振り返れば遠くにみょうじの背中が見えて、「みょうじ! 戻れ!」と指示を飛ばした。彼女がこちらに気付いたのを確認してから、逃亡を始めた犯人を狙い撃つ。しかし放った銃弾は掠りもせずに、掘っ建て小屋の外壁へと沈み込んだ。
「宇佐美はそっちへ!」
犯人を挟み撃ちしようと、菊田と宇佐美は二手に別れた。菊田のすぐ後ろには早くもみょうじの姿がある。形勢はこちらが有利だと、菊田は十分な勝算をもってナガンを握る手に力を込めた。
入り組んだ路地を右へ左へと逃げ走る犯人は中々にすばしこい。だがこのまま行けば次の曲がり角で挟み撃ちにできるはず―――その予想はまさに描いた通りになったが、ここで誤算がひとつ。男は馬に乗った姿で菊田の前に現れたのだ。挟み撃ちをするはずが、宇佐美が馬に蹴飛ばされてしまった。
「チッ」
思わぬ展開に舌打ちした菊田だったが、かといってここで追駆の手を緩めるはずもない。再び狙いを定め射撃すると、今度はしっかり命中し弾は犯人の肩を捉えた。続けざまに発砲した銃弾は惜しくも犯人の帽子を貫通しただけだったが、それに驚いたらしい馬が興奮気味にその場で荒く足踏みした。
「あと一発残ってる! 馬の脚を狙え!」
「えっ、」
「俺に当てるなよ!」
この好機を逃すまいと、菊田は背中越しにみょうじへ拳銃を投げ犯人に向かって走り出した。彼女に銃を撃った経験があるかは分からない。が、この距離であれば余程の下手くそでない限り自分に当たることはまず無いだろう。狙い通り馬に当たれば万々歳、或いは威嚇できればそれで十分、という咄嗟の判断である。
菊田は一気に犯人との距離を縮めると、その身体にしがみついた。それから力尽くで馬の上によじ登り、素早く予備の拳銃を取り出して犯人の後頭部に突きつける。
「獲った」
俺の勝ちだと言わんばかりの笑みを浮かべた菊田であったが、その余裕も一瞬のことだった。というのも、犯人の隆々たる陰茎がその目に飛び込んできたのである。しかもこの状況で尚、男は自慰に耽っている。驚きと混乱、そしてある種の恐怖が菊田を襲い、動揺のあまり男の自慰に釘付けになってしまった。
しかもこの状態を見るに、おそらくはそろそろ―――嫌な予感は直感のように頭を過ぎり、菊田は咄嗟に自身の顔を覆い隠した。が、その防御は不完全であった。
次の瞬間、犯人の局部から勢いよく放たれた白濁液が容赦なく菊田の顔面を襲った。
「ぐおおッ!! うおぉぉッ!!」
「ッ!? おいッ!……ぐっ」
菊田は堪らず馬から転げ落ち、そのすぐ後ろで拳銃を構えていたみょうじに衝突した。予期せぬ彼の落馬にみょうじはもろに衝撃を食らう羽目になり、二人は団子のようになって地面に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか菊田特務曹長殿」
遅れて来た宇佐美がそう声を掛けると、菊田は「目に入ったッ!」と必死の形相で叫んだ。みょうじの上に覆いかぶさったまま、しかしそれを気にする余裕もないのか大わらわで顔を拭っている。一体何が? とみょうじが彼の顔を覗き込めば、そこにはべっとりと白い粘液が付いている。
何となくその正体を察した彼女が「……は?」と声を漏らした。そうしておそるおそる自身の胸元に目をやると、小さな染みができている。おそらくは先刻彼とぶつかった拍子に付着したのだろう。
「痛ッ」
みょうじは無言のまま菊田を押し退けて(というより殆ど殴り付けたに近かった)、それからゆらりと立ち上がる。
「…………コロス」
そうぼそりと呟いて、脱兎の勢いで走り出したみょうじ。「おい、待っ……早」それに慌てて宇佐美が続き、そこでようやく菊田がよろりと立ち上がった。
「あー、くっせぇ……」
菊田のぼやきは誰に拾われることなく、夜の闇に融けたのだった。