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犯人との接触から一週間が経っても、菊田達三人は手掛かりのひとつも見つけられないでいた。今日も今日とて夜な夜な娼婦達への聞き込みをして周り、複数ある殺害現場では宇佐美が精子探偵に勤しんだ。
慣れとは恐ろしいもので、初見であれだけ動揺していた菊田とみょうじもこの頃には平然と彼の奇行に立ち会うようになっていた(ただみょうじは頑なに顔を背けているから、内心はまた別なのだろうが)。
「おい宇佐美ほどほどにしろ。チンポに火がつくぜ」
「これが結果を残してる唯一の捜査方法ですよ。菊田特務曹長もみょうじも犯人を逃したでしょ。黙ってろですよ」
局部を扱きながら宇佐美は苛立った様子でそう言った。鶴見が札幌に向かっていると知って気が急いているのだろう─── みょうじはつい先日、宇佐美がその報せを握り締めいたく興奮していたことを思い返した。彼のこういった言動には既視感がある。少し前の鯉登がまさにこんな具合だったから。鶴見のことが絡むと途端に冷静さを失って、樺太旅では何度それに振り回されたことか。特に酷かった樺太公演のことが頭を過ぎり、みょうじは軽い頭痛のようなものを覚えた。
そして彼女と同様、呆れきった様子の菊田が口を開いた。
「第七師団じゃ尾形上等兵もおかしな野郎で、『うちの上等兵はどうなってんだ』と思ってたが……」
しかしそこで紡がれたのは鯉登とは別の人物の名だった。
「あんな奴と一緒にしないで下さいよ! あの甘えん坊のハナタレ小僧!!」
みょうじは突然湧いて出た尾形の名に胸をざわつかせた。が、もちろんそれを表には出すことはない。尚も宇佐美から視線を逸らしたまま話に混ざることもなく、しかし二人の会話にしっかり耳をそばだてた。
「覚えてます? 花澤勇作少尉のこと。 二百三高地で戦死した、花沢閣下の本妻の息子で尾形の腹違いの弟」
「もちろん覚えてる」
「こんなことがありました。尾形が杉元に冬の川に落とされて、しばらく入院してたとき」
その時菊田が「あぁ……みょうじが救助した時の」とちらりと視線を寄越したが、みょうじは一瞬目を合わせただけですぐに逸らした。実の所「私が師団の人間に撃たれた時とも言えますが」と嫌味のひとつでも返してやろうかと思ったのだが、話の腰を折るだけだと口を噤んだのだ。
「尾形のやつ、うわ言で殺した弟の名を……ヤワな野郎ですよ」
「尾形が……殺した?」
菊田がそう零したのと殆ど同時に、それまで無関心を装っていたみょうじもたまらず宇佐美の方を振り返った。直後、目に飛び込んできた光景に思わず顔を顰める。しかし今はそんな事に気を取られている場合ではない。みょうじは出来るだけ宇佐美の股間には目をやるまいと、彼の顔に視線を縫いつけた。
「あら、知らなかったんですか? 後頭部のど真ん中を撃たれてたんですよ? アイツに決まってる」
「どうして殺した? 仲は良さそうだったのに」
菊田の言葉に宇佐美は嫌味っぽく笑った。曰く、尾形はその腹違いの弟が疎ましくて仕方がなかったのだという。連隊旗手の名にかこつけて不殺を貫き、あの惨たらしい戦場で彼だけが清いままだったから。尾形はそんな彼が許せなかった─── というより、気味が悪かったのかもしれない。同じ父をもちながら、何故ここまで違うのか、と。
そこで尾形はこう考えた。清廉潔白な人間など存在しない。甘ったれた価値観の中で生きているだけの理想論者。きっと一皮向ければ中身は自分と同じはず。
それを確かめるべく、尾形は勇作に銃剣を握らせたのだという。ロシア人の捕虜を差し出し、こいつを殺せと迫ったのだ。─── しかし、勇作は頑なに首を縦には振らなかった。見事に期待を裏切られた尾形は、その一部始終を見ていた宇佐美にこう言った。
「勇作を殺して父親がオレに愛情があったと分かれば、しょせん勇作だってオレと同じ人間になりえた道がある……そう思わないか?」
「思う」宇佐美は断言した。
勇作が頭を撃ち抜かれて死んだのは、それからすぐの事だった。尾形は弟を否定することによって自身の穢れを否定したかったのか、それとも純粋に父の愛情を確かめたかったのか。その両方かもしれないし、もっと別の思惑があったのかもしれない。それは尾形本人にしか知り得ぬところだが、例えそれがどんな思惑で、そこにどんな期待を抱いていたにせよ、きっと全て裏切られたに違いない。
「でも……花沢閣下は見向きもしなかった!!」
そう言って宇佐美はさもおかしそうに吹き出した。「だからアイツ、勇作殿が清いまま死んでったからモヤモヤしてるんです。かわいいでしょ?」とご機嫌に笑う。しかし話を聞いていた菊田とみょうじは、それこそモヤモヤした気持ちを抱いて引き気味に宇佐美を眺めた。可笑しくて堪らないといった様子の宇佐美と、どこに笑う要素があるのか分からないと言いたげな二人。そんな対称的な感情がぶつかり合って、三人を包む空気が混沌と化す。押し黙った二人を他所に、宇佐美はひとり笑い続けた。
「付き合ってられん」
ついには「ヒヒン……」とその場に崩れ落ちた宇佐美に、菊田がそう言って踵を返した。その顔には呆れとは別に恐れのようなものが見て取れた。自軍の連隊旗手、それも実の弟を殺した尾形と、その一連の話を笑劇のように話す宇佐美。「付き合ってられん」とはまさにその通りで、いやむしろ「ついていけない」と言った方が正しいのかもしれない。
しかしみょうじは菊田がその場を離れた後もそこに立ち留まった。地面に伏せたまま起き上がる様子のない宇佐美を見下ろして、しかし何を言うでもなく、ここにはいない尾形のことを考えた。
思い浮かぶのは、こちらをじっと見つめる感情の読めない双眸と、「俺と一緒に来るか」網走監獄潜入前に尾形が零した言葉。あの時は一匹狼が珍しいこともあるものだと思っただけだった。後になって、それがアシㇼパを裏切る策略への誘いだったと知って怒りが沸いた。
だけどもし、あれが単に謀反への勧誘というだけでなかったとしら─── 、
「後悔してる? 百之助を助けたこと」
じわじわと思考の渦に沈み込んでいたみょうじを、不意に宇佐美が引っ張り上げる。その問いは、かつて鶴見にも月島にもされたものだった。「お前が助けたのはそんな奴だよ」未だ地面に伏せたまま、こちらを振り向くことなく彼は言葉を継ぎ足した。
「いや……たらればは好きじゃない」
そしてみょうじはやはり同じ言葉を口にした。これを言うのはもう三度目だ。何度この話をしようと、どんな話を聞かされようとあの時のことを後悔するつもりはない。だってあの時は助ける以外の選択肢はなかったのだ。
だけどたった今、別のところで後悔の念がふつふつと現れ始めていた。彼女の頭の中で、網走監獄潜入前の、写真館の前で交わした会話が鮮明に蘇る。
─── 「あんたが私を信用しているとも思えないけど」「"命の恩人"だぜ? してるに決まってるだろ」「はっ、胡散臭いことこの上ないな。それに、そもそも私があんたを信用してるとでも?」「助けた命には最後まで責任もてよ」「…………どんな理屈だ。捨て猫でもあるまいし」
救いを求め差し伸ばされた手を、自分は振り払ってしまったのではないか。そんな疑問がふと頭をもたげたのだ。