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「さて、どうしたもんか……」
鶏鳴が夜明けを告げる時分、みょうじは宿の窓から朝焼けを眺めて独りごちた。肩に留まった相棒が、それに応えるように彼女の髪を甘噛みする。みょうじは薄く笑って、その小さな頭を優しく撫でてやった。
羽根の流れに沿って親指の腹を滑らせて、そこでふと尾形のことを思い出す。濡れ羽色の髪を撫で付けるのが、あの男の癖だったから。
「弟を殺した……か」
昨日の晩に宇佐美が語ったことは、しこりのようにみょうじの胸に引っかかっていた。尾形のもつ残忍さや時々垣間見える芯の冷たさも気付いてはいたものの、出征経験のある軍人ならばさもありなんと対して気にも留めていなかった。しかし彼がそうなった理由は全く別のところにあったらしい。
─── 花沢閣下は見向きもしなかった!!
ふっと宇佐美の言葉が頭を過ぎり、みょうじは眉間に指を押し当ててこれらの雑念を振り払おうとした。彼にどんな過去があろうと、のっぺら坊を殺し杉元の頭を撃ち抜いた上、アシㇼパを連れ去ったことを今更許せやしないのだ。あの時のアシㇼパの叫びを思い返せば、やはりふつふつと怒りが湧いてくる。
同情するなと自身に言い聞かせ、みょうじは深く息を吐いた。今はあいつに気を取られている場合ではないと、気を取り直すように鴉に話し掛ける。
「お前の働きを無駄にするわけにはいかないものな」
というのも、この鴉は今しがた新しい情報をもってきてくれたのだ。曰く、土方一派にアシㇼパ達が合流したのだという。
土方の元に尾形がいる以上(それでなくとも土方には網走監獄でまんまと出し抜かれたこともある)ここが手を組むことはないだろうと踏んでいたのだが、とんだ計算違いだったようだ。彼らが手を取り合ったということは、アシㇼパ達がよほど切羽詰まっている証拠なのだろう。なにせ彼女は肝心の刺青人皮を殆ど持っていないのだから。
「しかしまさか皆が札幌に集まるとはなぁ……いたッ、」
みょうじが鴉を撫でながらそうぼやくと、下嘴に触れた指を不意に噛まれてしまった。「やったな、この」ヒョイヒョイ指先を動かして時々身体をつついてやれば、鴉が肩の上を跳ねながらそれを追う。さながら猫じゃらしに釣られる猫である。
そうやってひとしきり戯れ合った後、みょうじは衣囊から小さな麻袋を取り出して、中の小麦を手に乗せて鴉に差し出した。早速それを啄みはじめた鴉を見下ろして、「それにしても」と話を続ける。
「いずれ接触するとは分かってたけど、思ったより早かったな」
それもこれも、あの憎たらしい連続殺人犯のせいである。あれだけ紙面を騒がせていれば、刺青人皮を狙う者であれば当然注意を向けるだろう。こうして皆が札幌に集まるのも決して不思議な話ではない。
できれば自分たちが一足先に事件を解決したいところだが、この際あちらの手柄になったって構わない。最悪なのは捜査が長引いて、どこかで彼らとばったり出くわすことだ。勿論、こんなことは師団の人間には口が裂けても言えないが。
現状どちらの味方をすべきか、今更迷いがある訳でない。ただ、時機が早すぎる。鶴見からの信用が危うい今、アシㇼパ達と接触した際にどんな目を向けられるか分かったものじゃないからだ。行動を制限されるかもしれないし、彼お得意の「泳がせて監視」をされることもあるだろう。そこで綻びのひとつでも見つけられたら、既に向けられた疑いが更に深まってしまう。
彼を満足させる成果と言えば刺青人皮の回収とアシㇼパの捕獲くらいのものだろう。しかし後者は遂行前に杉元に殺されかねない。彼の実力を間近で見てきて尚、自分に敵う相手と思えるほど身の程知らずでもない。
或いは間者の密告なら─── と、みょうじは菊田を思い浮かべた。彼が土方陣営の新参者と接触していたという話は、鴉が偶然得た情報である。物売りの往来が激しかったその日、飴売りや団子売りの放つ甘い匂いに釣られて地上に降りていたところ、たまたま二人の会話を聞いたというのだ。
ただ、鶴見にはこの鴉の披露もしてなければ話もしていない。仮にそれをしたところで"鴉がもってきた情報"を彼が信じるはずもないだろう。つまり、報告するにはもう少しそれらしい証拠が必要なのだ。菊田は長く師団にいる人間のようだから、尻尾を掴むのは中々骨が折れそうだ。
「……はぁ、考えることがいっぱいだ」
そう言ってみょうじが億劫そうに髪を掻き上げた時、廊下の方から二人分の足音が聞こえてきた。「じゃあ、また」さっと小麦を窓の外に放れば、すぐに相棒がそれを追って飛び立った。
「みょうじ、出るぞ」
襖越しに掛けられた菊田の言葉にみょうじは「あぁ」と短く返し、やはり億劫そうに立ち上がったのだった。
◇
「……おい、もう帰るぞ」
「うるさい! 話しかけるな! 先に帰ってればいいだろ!」
「そういうわけにいくか。止めないと延々続けるだろ」
朝早くから捜査を始めたその日、深夜になってもまだ宇佐美は宿に戻ろうとしなかった。何度言っても帰る気配がないものだから、菊田は早々に諦めて一人先に帰ってしまった。明日も早朝から動く予定になっているので、その判断は賢明だったのかもしれない。まるでそれをほのめかすように、宇佐美が「頑張れ! 頑張れ!」と自身を鼓舞し始めた。
「はぁ……もう」
みょうじは少しばかり大袈裟に溜息をついて、すぐ側の塀に背中を預けた。宇佐美が満足するまで放っておくことにしたのだ。あと四半刻ほど待って、それでも帰る気配がなければこのまま置いていこうと考えて。
本当は菊田と一緒に帰ってしまっても良かったのだが、彼の奇行が人目に付かぬよう見張り役が必要だと思ったのだ。何せ彼は熱中すると周りが見えなくなるきらいがあるし、官憲に見つかりでもしたら以降の調査に支障が出るだろう。それでなくとも、あれだけ無理をしていたら最悪使い物にならなくなる気もするが、その辺りの事情は女であるみょうじには判断のしようもなかった。(菊田曰く「俺は一発が限界」らしい)
「はぁ……もう手がガビガビだ」
しゅんと落ち込んだ様子で独りごちた宇佐美に「じゃあもう帰れよ」と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。ここで口を挟んだら、むしろムキになるだろうことは目に見えている。
「犯人の行方はバッタリと掴めない……鶴見中尉に叱られてしまう。もうすぐ札幌へ来られるのに」
話し掛けてくるでもなく尚もぼそぼそと独言を続ける彼は、やはりみょうじの存在など眼中に無いらしい。みょうじもそれをよく分かっているから、自ら空気と化すよう努めた。付き合ってられない、というのがその大きな理由でもある。
待ちぼうけとなったみょうじはじっと単調な地面を見下ろして、この難航する捜査について思案に耽った。宇佐美の言う通り犯人の情報はほとんどないに等しく、一度接触したあの日を最後に完全に頓挫してしまっている。いっそのこと菊田と宇佐美には鴉のことを打ち明けて、表立って動いてもらう方がいいのかもしれない。その方が捜査の幅は広がるだろう。本音としてはまだ手の内を見せたくはないが、そうも言ってられない─── と、そんな事を考えていた折、ふっと宇佐美が塀の向こうへと姿を消した。
「おい宇佐美……くそ、どこいった?」
慌てて彼の姿を探すと、少し離れたところからバキンッと何やら物騒な音が聞こえてきた。すぐに音のした方へ急行すると、なんと宇佐美が見知らぬ男を執拗に殴り付けていた。
「おい、宇佐美! 何してる!」
相手はお世辞にも屈強とは言い難い男だった。小柄で貧弱な身体をした人間を、一方的に殴りつける様子は甚だ異様である。みょうじは急いで二人のところに駆け寄って、宇佐美の腕を鷲掴んだ。しかし彼はこちらを見向きもせずに「邪魔するなッ!」とそれを振り払い、一瞬安堵の顔を見せた男の腹に強烈な蹴りをお見舞いした。
「あがッ……!」
「その地図寄越せよ〜」
みょうじは「……地図?」と戸惑いがちに男を見下ろした。小さくなって地面にうずくまるその男は、よく見ると何かを守るようにきつく腕を抱えている。どうやらそこに宇佐美の言う「地図」があるらしい。彼がこんなに躍起になっているということは、おそらく連続殺人犯に関するものなのだろう。
「まぁいいや。その地図見れば分かるんだろ?」
痺れを切らした宇佐美は、あろうことか拳銃を手に取った。「第七師団かッ!」男がハッとしたように叫ぶ。
「やめろ! 捕らえるだけでいいはずだ!」
コイツなら本当にやりかねない。殺してしまう前にと、みょうじは慌てて男に手を伸ばした。しかし「そこ! 何をしている!」どこからか飛んできた声にはたと手を止める。
「まずいぞ、官憲だ」
宇佐美とみょうじは突然の介入に気を取られ、その一瞬の隙を狙って男が一目散に逃げ出した。それに気付いた宇佐美が「あっ!!」と声を上げる。急いで辺りを見回して男の背中を見つけた時、あろうことか彼は逃走しながらビリビリと紙を破っていた。それを目にしたと同時に、宇佐美とみょうじが弾かれたように走り出す。後ろから「待て!」と官憲の声が飛んできたが、もちろんそんなものは無視である。
「クソッ、お前のせいだからな!」
「……あの破片を集めればいいんだろ」
みょうじはむっとした顔でそう言うと、指笛を高く吹き鳴らしたのだった。