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新聞屋と一悶着あったその翌晩、宇佐美とみょうじは札幌市内に立地するビール工場付近に来ていた。二人の視線の先には、まるでこの街を見下ろすように巨大な煙突がそびえ立っている。宇佐美はそれを確認したのち、持っていた継ぎ接ぎだらけの地図に視線を落とし、そうして今度はみょうじを見た。

「何でお前も来たんだよ。菊田特務曹長と一緒に時計台に行ってこいよ」

心底うんざりした顔で告げられたそれに、みょうじが軽く首を傾げて答える。

「何でって……、お前の精子探偵とやらが人目についたら困るからだろ」
「頼んでない。今ごろ月島軍曹と鯉登少尉がお前を待ち焦がれてるんじゃないの? 早く行ってあげなよ」

そう言ってふっと意地の悪い笑みを浮かべた宇佐美が、みょうじの目には尾形と重なって見えた。あの男もよくこんな風に人を煽る奴だったから。上等兵というのは性格の悪い人間しかなれない決まりでもあるのだろうか。なんて、流石にそれはないにしても、どうも軍人はこういった下世話な話が好きらしい。小樽にいた頃には「鶴見中尉の手付」とはよく言われたものだが、宇佐美の口振りから察するに、それが今では月島と鯉登に置き換わっているようだ。

もちろん今更そんな与太話に付き合うわけもなく、みょうじは呆れたように片眉を上げた。そしてそれには触れずに別の話題を口にする。

「……大体、ソレは私の手柄だろう」

そう言ってついと視線を向けた先には件の地図があった。酷くぼろぼろのそれは昨夜、あの新聞屋が奪われまいとその身を呈して守っていたものだ。

「はあ? 僕がアイツを見つけたんだから僕のだろ」
「執拗に追いかけ回してただけじゃないか。破片を拾い集めたのは私だ」
「それこそお前じゃなくてあの鴉だろ」
「同じことだろ」

口論が白熱しはじめたその時、バサリとひとつ大きな羽音がして二人はほとんど同時に空を見上げた。噂をすればなんとやら、みょうじの鴉が頭上すぐのところを旋回している。二人は何だか鴉に諫められたような気分になって、白けた顔で揃って口を噤んだ。そうして数秒無言が続いたのち、沈黙を破ったのは宇佐美の方だった。

「……あの鴉に犯人見つけてもらえば早いんじゃないの」
「顔も見てないのにどうやって」
「精子の匂いとか?」

その答えに、みょうじは虫唾が走ると言わんばかりにぐっと顔を歪めた。が、あっけらかんとした彼の表情に、あくまで真面目に言っているのだと察した彼女は、溜息まじりに「……鴉は目はいいが嗅覚は人以下だ」とだけ返した。そもそも大事な相棒に精子の匂いなんぞ嗅がせるはずもない─── という言葉は飲み込んだ。それも重要な証拠だろう、と言われてしまえば反論の余地はないからだ。それを頼りに今日まで調査を進めてきたのだから尚更。

「結局僕がやるしかないってことか」

宇佐美がハァと疲労の滲む溜息を零して自身の右手をじっと見つめる。どうもわざとらしいそれを無視して、みょうじはパッと地図を奪い取った。

「あっおい、返せよ」
「それにしても広いな。本当に今夜ここに犯人が現れるとして、見つけ出すのは容易じゃないぞ」
「……しらみつぶしに回るしかないだろ」

宇佐美は手早く地図を奪い返し、「お前のオトモダチより先に見つけてやるよ」とみょうじに一瞥もくれず歩き出した。彼の言うオトモダチとは一体誰を指すのか、みょうじには心当たりが多すぎて検討もつかなかった。アシㇼパ達か土方達か、それとも師団の中でも競うつもりで鯉登と月島のことを言ったのか。もしかすると全部引っ括めてかもしれない。まぁ、彼の皮肉をいちいち真面目に捉えてやる必要もないのだけれど。

「それは頼もしい」

宇佐美の後に続きながらみょうじがそう返したところで、二人の会話はぱたりと途切れた。

   ◇

「ハッ……クション!」

宇佐美たちが人知れず捜査を開始した頃、時計台の下には既に鯉登と月島、それから二階堂の姿があった。

「……風邪ですか?」
「いや、誰かが私の噂話をしているようだ」

月島の問いかけに、鯉登はスンと鼻を鳴らして答えた。

「宇佐美上等兵と菊田特務曹長はすでに札幌に来ているんだったな?」
「時計台で合流とのことです」
「みょうじも一緒か?」
「はい」

聞かずとも知っている癖に。そう思って鯉登を一瞥すれば、彼はどこか複雑そうな顔をしていた。きっとみょうじを心配しているのだろう。樺太を発つ前日、彼は明らかにみょうじを金塊争奪戦から、否、鶴見から引き離そうとしていたくらいだ。それが今も尚こうして第一線で動いているのだから、彼女を案じるもの無理はない。

しかしそんな月島の見立ては、鯉登本人の言葉によって覆された。

「大丈夫なのか? 宇佐美上等兵がアイツをまともに扱うとは思えんが」
「…………は、?」
「鶴見中尉殿に目を掛けられているからと嫌っていてもおかしくないだろう? みょうじの奴ももう少し愛想良く振る舞えば良いものを……あれは反感を買いやすい」

そっちの心配かと月島はつい呆気に取られた。それと同時に、貴方がそれを言うのか、とも。なにせ鯉登とみょうじは元々まったく反りが合わず、おかげで月島の気苦労が絶えなかったのだから。それも多分、主に鯉登のせいで。

初対面の時には「鶴見中尉殿を唆したとかいう……」とみょうじをじろじろ眺め回し、以降も「あのおなべ」だの「女の癖に」だの、果ては行き遅れ扱いする始末。みょうじもみょうじであのつっけんどんな態度を崩さないし(これは誰に対してもだが)、仮にも上官に対して「日本語を喋ってください」などとのたまうし─── 月島はかつての記憶を掘り起こしながら、物憂げに遠くを見つめた。それから再び鯉登へと目を向ける。あの時はあれだけみょうじを邪険にしていたというのに、なんともまぁ、いつの間にか随分と絆されてしまったようだ。と、自分のことはすっかり棚に上げてそんなことを思った。

そうやって一人思案に耽る月島の代わりに、鯉登の言葉を拾ったのは二階堂だった。

「俺は嫌いじゃないですよ。左耳くれるって言ってくれたし」
「……それ、本気だったのか? もらってどうするんだ」
「ホラ、洋平、片耳だけじゃ可哀想でしょ? 両方揃えてやるんです」
「……おお……、そうか……」

被り物の顎部分に縫い付けられた耳を指差してにこにこと説明する二階堂。しかし引き気味に相槌を打った鯉登に何を思ったか、きゅっと眉を下げて「まさかあれ嘘!?」と声を上げた。それに鯉登が慌てて「そんなことはないはずだ」と言ってなだめ始める。

「私もあいつが『死んだらくれてやる』と言っていたのを確かに聞いた」

それには月島も覚えがあった。みょうじがまだ入院していた頃、というより退院が決まる直前に彼女が二階堂に対し言った言葉だ。ただ、あれは厚意というよりヤケになって言っただけのような気もするが。なにせその直後には「勝手にしろ!」と怒鳴りつけていたくらいだ。

ただまぁ、みょうじが死んだ後の事にこだわるような奴とも思えないし、きっとあの時いくらヤケクソだったとしても二階堂との約束を破るつもりはないだろう。​─── だって彼女は、

「ああ見えて情には篤い奴だ」

ちょうど月島が思ったことと同じようなことを鯉登が言った。そう、みょうじは愛想こそないものの意外と義理堅いところがあるのだ。しかしまさかこの人も全く同じように思っていたとは。それに少々驚きを感じつつ、それと同時に別の人物の言葉がふっと月島の脳裏を掠めた。

─── 案外情には弱そうだ。

あれは確か、みょうじを手懐けよと命じた時の鶴見の台詞である。あの時に向けられた意味深長な視線を思い出して、月島はぞわりと腕に鳥肌が立っていくのを感じた。あの命令をすっかり忘れていた、とは言わないが、いつからか敢えて考えないようにしていたことは自覚している。

手懐けられたのは一体どちらだったのか。そんな疑問がゆったり頭をもたげて、くだらないとすぐに消し去った。

結局、約束の時間になってもみょうじは時計台に現れなかった。