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鯉登達の待つ時計台にやって来たのは、予定に反して菊田一人だけだった。何でも「次の殺人事件が今夜行われる場所を新聞記者からの情報で掴んだ」とのことで、宇佐美とみょうじは一足先にその現場へ向かったらしい。つい先刻まで二人の仲を心配していた鯉登(と一応は月島も)はそれを聞いて、案外上手くやっているのかもと見当違いな事を思った。まぁ、そんなことよりも今集中すべきは当然任務のことである。

「鶴見中尉が到着するまで待てません。我々で犯人を捕まえます」

話を聞く限り、どうやら事態は急を要するらしい。事件の捜査に参加するつもりが、今日が犯人確保の山場になろうとは。合流組はぐっと表情を引き締めて、さっそく彼の案内に従って現場─── 札幌ビール工場─── へと向かった。菊田曰くそこには「記者を逃したので官憲もいる可能性がある」らしい。みょうじ一人であれば無駄な争いは避けてやり過ごすだろうが、何かと好戦的な宇佐美も一緒となればそうもいかないだろう。つまり、揉め事が起こる可能性が非常に高い。危惧を抱いた鯉登と月島は、はやる気持ちのままに菊田を急かし現場に急行─── することはなく、大人しく案内されるがままついていった。二人共が「まァ、官憲くらいなら大丈夫か」と思ったのだ。この時彼らの頭に浮かんだのは樺太でのスチェンカ、そこで起こった乱闘で大立ち回りをするみょうじの姿と、そんな彼女が軽々投げ飛ばした大岩が自分たちに飛んでくる光景だった。

  ◇

四半時ほど歩き続けてようやく目的地に辿り着いたところで、一行は宇佐美とみょうじと合流すべく工場内を探し歩いた。その時、一発の花火が夜空に打ち上がる。辺りをパッと照らしたそれに一瞬見とれたのち、一行は一斉に走り出した。花火はこのすぐ近くで上がったようだ。祭りの雰囲気など微塵もないこの薄暗い工場から上がる花火とは実に不自然な光景である。つまり、あの花火の下で何か起こっているに違いない。

その予想通り、一行が駆け付けた先では宇佐美が牛山と互いの胸倉を掴み合っていた。そのすぐ傍ではみょうじが壁に背を預けて倒れている。それを目にした途端、鯉登はカッと頭に血が上るのを自覚した。「宇佐美上等兵! 離れろッ!」菊田がそう言って銃を構えたのを横目に、鯉登は軍刀の柄に手を掛けて叫んだ。

「みんな撃つな! 私が斬る!」

殺してやる、とそれだけが鯉登の頭を支配する。額に青筋を走らせて牛山を睨み付け、歯を食いしばって駆け出した。しかしその直後「鯉登少尉、避けろ!」と背後から月島の声が飛んでくる。牛山があろうことか宇佐美をぶん投げてきたのだ。予想外の攻撃に我に返った鯉登が、慌ててそれを回避する。背中が地面に着きそうなほど大きく仰け反って、そのすぐ上を宇佐美がブンッと音を立てて通過した。(「きえええッ!!」)

もう少しでぶつかるところだった、と宇佐美の顔が文字通り目と鼻の先を通り過ぎていった光景が頭を過ぎり、鯉登はドコドコと心臓が激しく暴れるのを必死に抑えた。と、そこへ今度はみょうじの声が響く。

「待てッ! 牛山ッ!」

ハッとして声のした方を見れば、倒れていたはずのみょうじが牛山に向かって短刀を振りかざしていた。牛山の巨体を前に、みょうじがまるで大人に食ってかかる子どものようにすら見える。「辞めろ!!」目に見える勝敗に鯉登が咄嗟に叫んだが、それよりも牛山が短刀を握る彼女の腕を掴む方が早かった。

「嬢ちゃんとやりあう気にはなれねぇなぁ」

牛山は至極落ち着いた声でそう零すと、ひょいと彼女に足を掛け地面に転がせようとした。が、足を捉えるより先にみょうじが高く飛び上がる。そして掴まれた腕を軸にして、牛山の顔面に向かって強烈な蹴りをお見舞いした。

バシィッと激しい音がして、しかし牛山は少しもよろめくことなく、蹴りを放ったばかりの彼女の足を鷲掴んだ。手足をそれぞれ片方ずつ掴まれたみょうじは軽々持ち上げられ─── 「悪く思うなよ」​─── ぶんっと高く放り投げられた。宇佐美の時より幾分か加減はされているものの、みょうじの身体は無防備に宙に放り出された。鯉登が咄嗟に駆け寄って彼女を受け止めると、二人は一緒になって地面に倒れ込んだ。

「ぐ、ッ!」
「っ、悪い、大丈夫か!? ……クソッ、逃げられる!」

慌てて跳ね起きた二人の目に映ったものは、窓に向かって勢いよく飛び上がる牛山の後ろ姿だった。直後、ガラスの割れる激しい音が響く。

「工場の中へ逃げたぞッ!」
「月島は回り込んで裏口から突入しろ!!」

咄嗟の連携は流石軍人とでも言うべきか、一行は素早く体制を立て直すと牛山を猛追した。

「門倉部長!! ちょっと待ってくださーい」

ただ一人、なぜか門倉を追い始めた宇佐美を除いて。

  ◇

工場に入ったは良いものの、明かりもないそこは酷く真っ暗で、鯉登達は早速牛山の姿を見失ってしまった。しかし暗闇が得意なみょうじにとってはむしろ好都合である。みょうじは積み上げられた樽の上に飛び乗ると、工場内をじっと見回し耳を澄ませた。そしてこの場には牛山以外にも複数の人間がいることに気が付いた。牛山と行動を共にする人物─── 土方達だろうか。しかし複数ある足音のひとつはどうやら大人のものではない。─── つまり、

「杉元ォ!!」

答えを導き出したその時、突如として二階堂の怒号が響き渡る。やっぱり、と答え合わせを済ませると同時に、みょうじは声のした方へと駆け寄った。

「っ、なんでなまえさんがここに……!」

杉元はみょうじを見て酷く動揺しているようだった。それを物語るかのように、彼が構えていた銃の先端が僅かに下がる。みょうじはその隙に一気に間合いを詰めると、彼に向かって勢いよく短刀を振り下ろした。が、杉元が咄嗟にそれを銃で薙ぎ払う。みょうじの手が勢いよく弾かれて、しかし杉元は反撃に入ることなく臨戦態勢のままじっとそこに立ち止まった。二人の間で鋭い視線がぶつかり合って火花を散らす。

「なんでアンタが……」
「『敵になるなら殺すことになるかもしれない』……自分の言ったことをもう忘れたのか」
「だからって……! アシㇼパさんの味方じゃなかったのか!?」
「最初から分かってた事だろ? 私は第七師団の人間だよ」

次の攻撃の好機を見逃すまいと、みょうじがじりっと間合いを詰めたその時、「退け! みょうじ!」鯉登が声を張り上げ杉元に斬りかかった。真っすぐ振り下ろされた刀は寸でのところで避けられて、すぐ後ろにあった樽を斬り付けた。途端、割れた箇所から勢いよくビールが噴き出して、それは鯉登の顔面を直撃した。そこへ今度は二階堂の放った銃弾が飛んで来る。それをものともせずに杉元を守るように立ちはだかったのは、一見この場にそぐわない幼い少女─── アシㇼパだった。

「やめろ! アシㇼパに当たる!」

酷く興奮した様子で尚も杉元を狙い撃とうとする二階堂を、月島が慌てて制止する。アシㇼパが金塊の暗号を解く鍵である以上、彼女に死なれては困るのだ。この戦闘の最中、眉一つ動かさず平然と佇む彼女は自分の立場をよく理解しているらしい。とは言えこの状況で、あれだけ堂々と立っていられる人間が一体どれだけいるのだろう。強い意志を感じさせる彼女の青い瞳は、真っ直ぐみょうじを捉えた。

「私はなまえと争いたくない!」

─── 敵として再会なんてことになったら……きっとすごく傷付く

いつかの杉元の言葉がみょうじの頭を過ぎる。しかしじっとこちらを見つめるあの青の双眸は、傷付いた人間のそれじゃない。どうやら杉元は随分と彼女を見くびっていたらしい。そしておそらくは自分も。

「言ったろ、殺さなければ殺されるまで」
「……なまえ、」
「私を殺せるか試してみるか?」

かつて交わした会話をなぞるみょうじの言葉に、アシㇼパの表情が僅かに歪む。それから彼女の弓矢を握る手にぐっと力が込められる。

しかしその直後、事態は混迷の一途を辿ることとなる。

「杉元ォ!!」
「落ち着け二階堂!!」

制止する月島を無視して銃を乱発する二階堂。方々に放たれた弾は次々に樽を撃ち抜いていき、穴という穴からビールが噴き出していく。そんな状況の中でも戦闘を続ける杉元と鯉登。そんな二人の戦いを菊田が樽の上から見下ろして、冷静に杉元を撃つ機会を狙っていた。それに気付いた牛山が、菊田の足場─── 積み重ねられた樽達を勢いよく押し動かした。ドォンという激しい音と共に樽達がぶつかり合って、瞬く間に崩壊していく。

そこから大量に溢れ出たビールが濁流のように押し寄せて、その場に居合わせた人間を次々と飲み込んでいった。