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足元が覚束無い。地面がぐにゃぐにゃと揺れ動いている気がする。視界は酷くぶれていて、まるで水の中で目を開けているみたいだ。月島はぐわんぐわん回る頭を必死に動かして「しっかりしろ」と自身に言い聞かせた。彼と同じように、否、それ以上に酔い潰れているみょうじをその肩で支えながら。
「つきしまァ……わたしは大丈夫だから……おいていけ」
「いいから黙って足を動かせ」
「ふはは、面倒見がいいな……いだッ、」
「オイ! しっかり歩け!」
「ははは、スマン」
完全に酔いどれと化したみょうじは何故か上機嫌だった。歩くこともままならず体重のほとんどを月島に預け、薄ら開いた瞼は今にもぴたりと閉じてしまいそうだ。酒癖の悪い上官に、見事に酔い潰された部下を彷彿とさせる仕上がりである。そんな下戸連中を連れ帰る機会の多かった月島にとっては、最早慣れた状況とも言える。男に比べ体重が軽い分、いくらかましではあるけれど。
「ここでいい、あとでちゃんと追う、から……オェ、」
「尾形も来ているかもしれないんだぞ。休むにしてもせめて身を隠せ。お前は狙われかねん」
「おがたァ……? あんな奴にやられてたまるか。 あんな……ばか、あほ、まぬけ……甘えん坊のハナタレ小僧」
「…………」
「殺されるなら……そうだな、杉元がいい」
「馬鹿はお前だ」
いくら酔っ払いの言葉と言えど、月島はただの戯言と流すことは出来なかった。この自殺志願者めと内心毒づきながら、少し前、ビールの波に攫われる前の彼女の行動を思い返す。
「……まさかお前が交戦するとは思わなかった」
そう、あの時彼女は杉元を見つけるや否やそこに飛び込んで行ったのだ。それも、微塵の躊躇も見せずに。そして杉元だけでなく、アシㇼパにまではっきりと敵意を向けていた。まるでそうするのが当然かのように振舞った彼女は、そもそも銃を持たない時点で戦う必要はなかったはずだった。
彼女がアシㇼパではなく師団を選ぶことをずっと望んできた癖に、いざその通りになると途端に抵抗感に襲われた。師団を選んだことに対してではない。あれだけ心を許していたアシㇼパに、平然と刃を向ける姿を見ていられなかったのだ。
─── 「あれは敵に回ると少々面倒だ。ああいう、自分を殺せる手合いはな」
鶴見の言葉を借りるなら、きっとあの時みょうじは自分を殺していたのだろう。そんな彼女を見て、お前はこちら側に来るなと無性にその背中を突き飛ばしてやりたくなった。あの時二階堂が暴走していなければ、きっとあそこに割り込んだのは自分だったのだろう。
「はァ? 私を師団にとどめたのはツキシマだろ」
少々呂律の乱れた声で彼女は言った。さっきまでの上機嫌から一転、いたく不満げな顔である。
「……戦えと言った覚えはない」
「師団にいる以上避けては通れないだろ、あほ」
「立ち向かったところでお前が杉元に敵うはずもないだろう」
「そう、それだ!」みょうじが勢いよく体を仰け反った。おかげで月島の肩からずり落ちそうになって、「大人しくしろ」と雑に担ぎ直される。月島が酷く不快そうに顔を顰めたのは、酔いの回った頭に突然彼女の声が響いたせいだろう。しかし泥酔状態にあるみょうじがそれに気付けるはずもなく、一人べらべらと話し始めた。
「わたし程度にやられてたら、どうせこの先やっていけない。あんな……尾形なんかに心を痛めてるようじゃ……あしりぱはそういう道を選んだんだ。私くらい、乗り越えてもらわないと……」
そこまで言うとみょうじはじっと黙り込んだ。しばらくして「しゃべりすぎた」と零したところを見るに、かろうじて理性は残っているらしい。
「……聞かなかったことにしてやる」
「ハハハ、何だかんだ甘いよな、お前は…………」
その時、みょうじを支える肩にずしりと重みが増す。「? おい、自分で立、」そこまで言って、彼女がこてんと顔を俯けていることに気付く。
「っ、おい! ここで寝るな!」
慌てて彼女を揺さぶれば「やめろ……頭にひびく」とぼんやり開いた目で睨みつけられる。
「嫌なら歩け」
「むりだ、瞼が重い」
「どうにか堪えろ」
「じゃあ歌でも歌ってくれ。何か眠気がとぶような」
「……断る」
「分かった、つきしまお前、音痴なんだろ。無駄に声だけデカそうだもんな」
そう言って一人けらけら笑い始めたみょうじに、月島はむっとした顔で無視を決め込んだ。彼女ほどではないにせよ、同じく酔っ払いである月島は彼女を支え歩くだけで精一杯だったのだ。歌いながらなどとんでもない。まぁ、それでなくともこの男がおいそれと歌ってやるわけもないのだが。
『カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願いを かけましょか』
そのうちみょうじはひとり勝手に歌い始めた。普段あれだけ無愛想にしている彼女が口ずさむなど珍しいに違いないのに、しかし今の月島にはそう考え至るほどの思考力もない。
「……なんだその歌は」
「知らないのか、あんなに流行ったのに……全くお前は……」
そうぼやく彼女に、どうせ後の世の流行歌なのだろうと月島は思った。万が一誰かに聞かれでもしたらどうするんだ。そう呆れつつも、月島は彼女が歌うのを止めなかった。
『カチューシャかわいや わかれのつらさ
今宵ひと夜に 降る雪の
あすは野山の 路かくせ』
いたく稀にではあるが、彼女はときどきこうして後代を生きる人間であることを匂わせる言動をとる。いつだったか鯉登の故郷の心配をしたこともそう、リュウを見て警察犬の話をしたこともそうだ。その度に、彼女との間に大きな隔たりがあるような気分になる。それはきっと、彼女が未だその時代に囚われているからに他ならない。
『カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて又逢う それまでは
同じ姿で いてたもれ』
─── 否、厳密には時代ではなく人だろうか。
いつの間にか歌は途切れ、みょうじが再び寝入ってしまったことに気付く。が、何故かそれを起こす気になれなかった。殆ど引きずるようにして彼女を運び、ただでさえアルコールで火照った身体に汗が滲む。
「……お前は元の時代に戻るべきだ」
月島の首筋に、つうっと一つ汗が滑り落ちた。
◇
みょうじが周囲の喧騒に目を覚ました時、まず視界に入ったのは建物の隙間からこちらを覗き込む星たちだった。それらをうっすら覆う白い煙と、鼻を掠める何かが焼ける臭い。どうやら近くで火事が起こっているらしい。
慌てて飛び起きると途端に頭痛に襲われて、ガンガン響く頭を抱えて辺りを見渡す。確かついさっきまで月島と歩いていたはず─── それも肩に寄りかかって呑気に歌を歌っていたような─── しかし彼の姿はどこにも見当たらなかった。
おそらく眠りこけた自分を安全地帯に運んでから杉元達を追ったのだろう。ありがたい事にすぐ傍には水道栓まであって、よくこんな場所を見つけてくれたものだと、ここにはいない月島に感謝した。
「う、オェ……」
胃で蠢く不快感を全て溝の中へと吐き出して、口をゆすぎ、ついでに頭にも水をぶっかける。まだ酔いは残っているが、これで幾らかはましになった。びしょ濡れの髪を軽く絞り雑に掻き上げて、さぁこれからどこへ向かおうかと立ち上がったところで、バァンと鋭い銃声が響く。
「……どこだ?」
ある程度音のした方角は分かるが、如何せん建物が多く正確な位置が分からない。鴉を呼び寄せるかと指を咥えたその時、ガタガタガタッと勢いよく何かが転げ落ちていく音がした。それを頼りに一つの建物に狙いを定め、走り出す。
しかし酔いの残った身体は思うように動かず、さらには地面を踏む度に頭がズキズキと痛んだ。足がもつれ危うく転びそうになりながら、身体に鞭を打ち件の建物へと向かう。そしてようやく辿り着いた時、その入り口近くには何故か馬車が待機していた。無人のようだから、この建物の中で暴れている誰かが乗ってきたのかもしれない。馬車に繋がれた二頭の馬がじっと視線を寄越してきて、みょうじはできるだけ刺激しないようにと忍び足で彼らの横を通りすぎ、素早く建物の中へと侵入した。同時に腰の短刀を抜こうとしたものの、伸ばした手は虚しく宙を掴む。おそらくビールの波に襲われた時、一緒に流されてしまったのだろう。それに内心舌打ちしつつ、みょうじは建物内の様子を窺った。どうやらこの階には誰もいないようである。
あの何かが転げ落ちるような音はきっと階段の方だろうと、そのまま部屋の隅に見える扉へと向かう。それを開けた先には予想通り階段があって─── やけにゆっくりとした足音が聞こえてきた。咄嗟に臨戦態勢を取った彼女の前に現れたのは、
「っ、その傷……!」
門倉を追って一人別行動を取っていた宇佐美だった。額には油汗が浮かび、その顔は酷く苦しげに歪められている。左手で強く抑えた腹からは、軍服の上からでも分かるほど血が溢れていた。
「……何だお前か……って、臭っ。何だよその匂い」
「ビールを被っただけだ。それよりその腹……見せろ、止血する」
みょうじは慌てて宇佐美に駆け寄って、彼の腹へと手を伸ばした。が、そこへ触れる前にパシンと振り払われる。
「……いい。それより鶴見中尉のところへ……」
そう言ってみょうじを追い越した宇佐美の足元に血が滴り落ちる。階段を見上げれば、彼の来た道を辿るように血の跡が続いていた。みょうじはぐっと顔を顰め、後ろから半ば抱き着くような形で彼の腹に手拭いを回した。「オイッ、!」飛んできた非難の声には「すぐ終わる」とだけ返し、その言葉通り手早くそれを締め上げる。それから宇佐美の腕を自身の肩に回し、その身体を支えてやった。
「伝言なら私が言付かる。今は休んだ方がいい」
「…………お前なんかに任せられるか。僕が行く」
みょうじはむっとして宇佐美を見た。意地を張っている場合ではないだろうに、と。しかし彼のぎらつく目の奥に意地とは違う何かを感じ、結局は口を閉ざして再び前を向いた。ここで何か言ったところで、あっさり折れるはずもないと分かってしまったのだ。
「出たところに馬がいるはずだ。乗れるか?」
「……ああ」
「私が手綱を握るから、お前は私に掴まってろ。鶴見のところまでは鴉に先導させる」
みょうじの言葉に宇佐美は反論も不平も口にすることなく、「分かった」とだけ返した。流石の彼も、いま自分がどんな状態にあるかよく理解しているのだろう。それからゆっくりとした足取りでようやく建物から出た二人は、未だそこに待機していた馬のうち一頭を馬車から引き離すとすぐにそれに跨った。既に呼び寄せていた鴉が上空を一回、二回と旋回したのち二人を導くように飛び始め、みょうじはすぐに馬を走らせた。振動が傷に響くのか、すぐ後ろから宇佐美の苦しそうな吐息が聞こえてくる。
「! 宇佐美いたぞッ、鶴見だ! あと少しの辛抱だ」
みょうじがそう声を上げたところで、鴉がすうっと上空へ姿を消した。十数名の部下たちを従えた鶴見がこちらに気付き、振り返る。みょうじは馬の腹を蹴ってさらに速度を上げ─── その時、どこからともなく銃声が聞こえ、体にズドンと衝撃が走る。一拍置いて、自分に掴まっていたはずの宇佐美の身体がふっと落ちていくのが分かった。
「……宇佐美、!」掛けようとした言葉の代わりに、みょうじの口から勢いよく血が噴き出す。彼女が最後に見たものは、大事そうに鶴見の腕に抱かれた宇佐美の姿だった。