77

まるで狐か狸にでも化かされたように、みょうじはぽかんと目の前の男に見入った。そうして目に入ってきた情報に、遅れて脳が追いつき始める。─── まさか、戻って来た? なぜ急に? あまりに唐突な再会に、彼女は全く事態を飲み込めなかった。その時、はたと自身の胸を貫いたあの衝撃が蘇る。

もしかして、あそこで自分は死んでしまったのだろうか。それが引き金となって、彼のいる時代に戻って来た? 絡まった糸が解けていくように、徐々に浮かび上がってくるそれらしい答え。しかしこの動揺をなだめるには些か力不足だった。そして彼女と同様、目の前の男─── 不死川もまた亡霊でも見るような顔でみょうじを凝視している。二人の間に流れる歪な空気としばしの沈黙。しばらくしてようやくそれを取り払ったのは、不死川の方だった。

「入れェ……立ち話もなんだ」

不死川はぶっきらぼうにそう言うと、そのままみょうじの横を通りすぎた。そうして彼女を手招くどころか一瞥すら寄越さずに、玄関の戸をがたびし開けて一人家の中へと入っていく。その背中を見失ったとたん彼が消えてしまいそうな気がして、みょうじは慌てて後を追いかけた。少々建付けの悪い戸を勢いよく後ろ手に閉め、靴をほっぽって家に上がり込むさまは酷く無作法であったが、しかし今の彼女にはそれを気にする余裕などなかった。

「座ってろォ。茶ァ淹れてくる」
「あ……私が、」
「いい。勝手も分かんねぇだろォ」

そう言われてしまえば引き下がる他なく、みょうじは遠慮がちにちゃぶ台前の座布団に腰を下ろした。落ち着かない様子でこぢんまりと座するその姿はまるで借りてきた猫のようだ。きっとあちら側の人間が今の彼女を見たら、ぎょっとして二度見するに違いない。こいつにも礼儀という概念があったのか、といった具合に。何せ彼女は(一応は)上官である月島、鯉登、さらには鶴見を前にしても、胡坐をかき頬杖をつきタメ口を叩くような女である。まぁ、みょうじが今現在そんな態度をとる相手─── 不死川もまた、そう思われがちなのはここだけの話だ。

閑話休題、ほどなくして不死川が戻ってくると、湯気の立った湯呑みがことりと彼女の前に置かれた。それに「頂きます」と軽く頭を下げながら、みょうじは不死川の右手の欠損に釘付けになった。しかしそれに言及する間もなく、不死川が先手を打ったように口を開く。

「今までどこで何してやがったァ」

唐突な、しかし当然すぎるその問いにみょうじは思わず口籠る。

鬼殺隊内部において、きっと自分は既に失踪者として処理されているのだろう。それが隊士であれ隠であれ、そういった事例はざらにある。人知れず野垂れ死ぬ者も、過酷な任務に耐えかねて逃亡する者も後を絶たないからだ。しかし、みょうじと同じ状況に陥った者はおそらく一人としていないだろう。気付けば過去に飛ばされていた─── なんて、馬鹿正直に説明できるはずもない。どうしたものかと黙考するみょうじを見て不死川は何を思ったか、「言えねぇならいい」とため息交じりに零した。

「俺ァてっきり、ヒグマに喰われておっ死んだとばかり……」

そう言って彼はじとりと非難のこもった視線を寄越す。その目つきだけで、逃亡と誤解されたと察するには十分だった。まずい、とみょうじは固唾を呑む。任務を放棄して逃げ出した不埒者、なんて烙印を押されてはたまったものではない。みょうじは焦りを覚えると同時に、不死川にそれを叱責する気配がないことに違和感を覚えた。この男なら叱責どころか骨の数本、目の一つ二つは覚悟するほどに怒り狂うはずである。しかしその気配がないどころか、彼の醸し出す空気に薄らと安堵の色が見えるのは何故なのか。

そんな引っ掛かりを覚えたものの、ひとまずあの身の毛もよだつような怒りを向けられずに済んだことにほっと胸を撫で下ろす。しかしそれはそれとして、逃亡者と誤解されたままというのはあまりに不名誉な話で、何分堪え難いものがある。みょうじは脳漿を絞るような思いでぐるぐると頭を回転させ、即興でそれらしい経緯をでっち上げた。

「……半分はご推察の通りです。あの日、他の隠達と分かれたのちにヒグマに襲われ……たまたま通りかかった軍人に助けられました」
「……軍人だァ?」
「はい。北鎮部隊──第二七連隊の上等兵でした。入院が長引いたせいもありますが、私を助けたその日、どうやら機密捜査をしていたようで……あらぬ疑いをかけられ中々身動きがとれずにいました」

人を騙すには嘘に少しの真実を混ぜるといい。なんて、いかにも鶴見の言いそうなことだとみょうじは思った。後ろめたさはあるものの、それを表に出さぬことくらい彼女には朝飯前である。顔色ひとつ変えずに嘯くその技術は、あちらで過ごしたきな臭い日々のおかげで更に磨きがかかったと言えるだろう。ただし問題はこの男にそれが通用するかどうか─── しかし、そんな心配は杞憂に終わった。

一拍置いて、不死川から返って来たのは「フゥン」という生返事、ただそれだけだったのだ。話を信じたふうではない、かと言って疑っているふうでもない。言うなれば、さして興味もない、といったところか。どんな詰問を受けるやらと懸念した彼女は、肩透かしを食らう羽目になった。

予想外の反応と尻切れトンボとなった会話に、みょうじはどこか歯車がずれたような感覚を覚えた。目の前にいるこの男は誰だ? そんな疑念が浮かぶほどの違和である。丸くなった、とでも形容すればいいのだろうか。それに思い当たることがあるとすれば、とみょうじの視線がついと不死川の右手に移る。

「……私は、これから隊に戻るつもりです……が、不死川様は……引退、されたのですか?」

人差し指と中指の欠損したその手では、碌に刀も握れないだろう。御館様に与えられた屋敷ではなく、こんな質素な家に住んでいるのもきっとそのせいだ。いくら鬼殺隊最高位である柱と言えど、必ずしも鬼に勝てるわけではない。柱になって一年と経たずに死んでしまう者だって珍しくはないのだから。しかし彼の強さを十二分に知るみょうじは、自身で導き出した答えとは言え俄かには信じられなかった。この男でさえ敵わぬ鬼がいるのかと、その受容を拒むように目を伏せる。そんな彼女に「あぁ、」とやけにあっさりとした声が落ちてきた。

「何も知らねぇのかァ……鬼舞辻は死んで、鬼殺隊は解散した」
「──え、?」

その言葉の意味を、みょうじは咄嗟に呑み込むことができなかった。唖然とする彼女に、不死川はさらに言葉を続ける。

「まァ、それなりの犠牲はあったがなァ。柱も殆ど死んじまった…………玄弥も」

頬杖をつき、窓の外を眺めて彼は言う。ただ淡々と過去を振り返るその様子は、彼が既にそれを乗り越えていることを示唆していた。元々同朋の死が日常だったこともあるだろうが、何より、悲願が果たされたともなれば死んでいった者たちも本望だろう。それを不幸と呼ぶのは彼らへの冒涜にも値する。それを分かっているからこそ、不死川は彼らの死を語るその口振りに悲愴の色を見せないのだ。

「……そんな、」

しかしみょうじにとってはそう簡単に割り切れるものでもない。むしろ憤怒と慙愧の呼び水にさえなった。長年抱き続けてきた自身への失望や落胆、幻滅。元は同僚であった隊士達への引け目、そして罪悪感。ずっと押さえつけてきたそれらが堰を切ったように溢れ出したのだ。鬼の滅殺を望みながらその器量もなく、逃げるように後方部隊へと回り、極めつけは後生一生の大勝負に立ち会うことすらできなかった。自分のあずかり知らぬところで既に幕は閉じていたのだ。悔しいと思う事すら烏滸がましいと、みょうじは強く下唇を噛む。何よりこんな時でさえ自分のことばかりで、鬼殺隊の勝利を手放しに喜べないことが情けなくもあった。

そんな彼女をじっと見つめて、不死川は諭すような口調で言葉を続ける。

「下らねぇこと考えてんじゃねぇぞォ」
「……」
「あいつらが何のために死んでいったか……罪悪感を植え付けるためじゃねェことくらい、テメェなら分かるだろォ」
「…………それは、理解していますが」
「だったらその辛気臭ェ面を引っ込めろ。……全部終わったんだ」

少しの間があった後「はい」と返事をしたみょうじだったが、その声は暗く、顔には未だ陰鬱な影が差している。その時まるで水の底から何かが浮き上がってくるように、不意に彼女の頭にかつての記憶が蘇った。

『送られてきたカムイ達は、元いたところには役目がなかったんだろうか』

いつだったか、杉元から聞かされたアイヌの言葉。それに対しみょうじが思わず口にした疑問である。あの時の答えが、ようやく今になって落ちてきたのだ。

それを理解した途端、鉛でも飲み込んだようにずしりと身体が重たくなった。踏ん張っていなければ、このまま下へ下へと埋もれていきそうだった。しかしこれ以上陰気臭い顔を見せるわけにはいくまいと、みょうじは耐えるように短く息を吐く。そうして正座のまま座布団から畳の上へと移動すると、そこで深く頭を下げた。

「……長い間、大変お世話になりました」

鬼殺隊が解散したということはすなわち、彼との従属関係の終了を意味する。そんなものは過去に見限られた時点で既に破綻しているようなものだが、それでも彼との間には複雑な、そして特別な繋がりがあった。そこにあるのは感謝の念か、謝罪の意か。それらが深く混ざり合って醸成された、この名前もつかない大きな感情。もっと伝えるべきことはあるはずなのに、とめどなく溢れるそれらはどれも言葉にならなかった。ただただ額を畳にこすり付け、祈るようにじっと目を瞑る。そんな彼女に、不死川がぼそりと言葉を落とした。

「粂野匡近……お前も名前くらいは憶えてンだろォ」
「? はい、不死川様の兄弟子の……」

不意に告げられた懐かしい名に、みょうじは遠慮がちに彼を見上げた。あまり多くを語らない彼は、その人の話をすることもついぞなかったから。彼女の瞳に、物憂げに宙を見つめる不死川の顔が映る。きっと彼の視線の先ではその男との記憶が流れているのだろう、そんな顔だった。不死川はぼんやりそこを見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。

「……『大切な人が笑顔で天寿を全うするその日まで、幸せに暮らせるよう。決してその命が理不尽に脅かされることのないよう願う。例えその時自分が生きてその人の傍らにいられなくとも、生きていて欲しい。生き抜いて欲しい』」

「あいつの遺書にあった言葉だ」そう不死川が締めくくったのとほとんど同時に、彼女の目の淵からほろりと涙が零れ落ちた。頬を伝ったそれにはっと気付いたみょうじが、慌てて顔を俯ける。

「お前が生きていて良かった」

溢れる涙を隠すように、しかしそこに確かな想いを込めて。再びみょうじは深く、深く頭を下げた。