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数刻前の喧騒がまるで嘘のように、いつの間にか街はすっかり夜の気配に飲まれていた。それはみょうじの眠る病室とて例外ではなく、暗闇の中で彼女の寝息だけが微かに部屋の空気を揺らしている。しかしそんな闇と静寂の支配を阻むように、ひっそりと彼女の元に現れた一人の来訪者。小さな石油ランプの灯を受けて、古ぼけた白い壁に一人の男─── 鶴見の影が映し出される。

ランプで照らされた彼の顔には色濃く疲労感が漂っていた。それもそのはず、ついにアシㇼパから金塊の暗号を解く鍵を聞き出した彼は、今の今まで寸暇を惜しみ解読作業に徹していたのだ。そしてようやっと導き出したその答え─── 刺青人皮の指し示した場所は五稜郭であった。いま鶴見の部下たちはそこへ向かう手筈を整えながら、道内各地に散らばる兵士たちを集結させるべく奔走している最中だ。その間、鶴見は「みょうじの様子を見てくる」という名目の元、酷使し過ぎた脳を休ませに来たのである。暗号を解いたことでいよいよ正念場を迎えた今、少しでも頭と体を休ませておきたかった。

鶴見は寝台横の丸椅子に腰を下ろすと、じっとみょうじの寝顔を眺めた。しかし実際にその瞳が彼女の姿を映しているかは定かでない。何せ彼の表情はまさに『心ここにあらず』といった様子で空虚に満ちているのだ。

その実、鶴見の思考はここではない全く別のところにあった。いま彼の頭を埋め尽くすのは、アシㇼパとソフィアとの会話であり、ウィルクとの因縁であり、そして懐かしきウラジオストク─── フィーナとオリガの記憶であった。それぞれが断片的に浮かんでは消え、手繰り寄せれば遠のいて、愛憎を交互にもたらした。好き勝手に溢れ出る記憶とそれに伴う感情に、しかし鶴見は抗うことなくその身を委ねる。どうせすぐに─── 今や目前に迫る金塊争奪戦の終結と共に解放されると理解していたからだ。ともなれば、長年付き合ってきたこの腹の底で煮えたぎる感情のうねりにも愛着を覚えるというものだ。

鶴見はほとんど無意識のうちに、極々小さな二つ骨を指の腹に挟んで転がしていた。まるでそれに救いを求めるように何度も。そうしてじっとみょうじを見下ろして、単調な空間に没入する。海の底を思わせるような、冷えた静寂が彼を包み込んでいた。

そうやってすっかり自分の世界に浸っていた鶴見であったが、視界に入ってきた光景にふと現実に引き戻される。

「泣いているのか」

みょうじの目尻から一粒の涙が零れ、耳の方へと流れ落ちていったのだ。見れば涙の跡が淡くランプの灯りを反射して、光の筋ができている。鶴見は優しく彼女の目元に触れると、そっと親指の腹で拭ってやった。しかしすぐに次の涙がこぼれ落ち、再び彼女のこめかみを濡らしていく。そこからはとめどなく、いくつもの涙が筋になって流れていった。

「悪い夢……という訳ではなさそうだな」

涙に濡れる彼女の顔は、悪夢にうなされているようでも、胸の痛みに苦しんでいるようでもない。無防備な寝顔のまま、ただ涙を流しているのだ。鶴見は不思議なものでも見るような目で、じっとそれに眺め入った。

そのとき、不意にランプの炎が風になびいて部屋の影が大きく揺らいだ。どうしてかそれに妙に引き付けられて、鶴見は自身とみょうじの影法師へと視線を移した。途端、彼の表情がみるみる険しいものに変わる。じっと一点を見つめるその眼差しは、もはや睨み付けているといってもいい。

すっと細められた彼の目に映るもの、それは彼女の薄い影丶丶丶に重なる鶴見の濃い影丶丶丶であった。

本来一体となっているはずのそれは、各々が全く別の生き物であることを主張するように濃淡も明瞭度もまるで違う。薄ぼけたみょうじの影は、黒黒とした鶴見のそれを強調しているようにも思えた。さらにはこうして観察している間にも、彼女の影がじわりじわりと薄くなっていく。

「……まさか、」

この不可解な現象に思い当たることがあるとすれば、それは彼女の境遇にある。このとき鶴見の頭に浮かんだものは、かつて彼女の荷物から見つけ出した一枚の一銭銅貨である。大正四年と記されたそれは、みょうじが後代から来た人間であることを知らしめるものだった。

「気付いたらこの時代に」と彼女は言っていた。それはつまり「気付いたら元の時代に」も当然ありえるということだ。

導き出した答えを念頭に、鶴見は再びみょうじを見た。ぴたりと閉じた瞼からはもう涙が落ちる気配はない。しかし睫毛は濡れたまま、こめかみにも涙の跡が残っている。彼女の境遇を改めて意識したせいか、その様子はどこか神秘性を孕んでいるように見えた。まるでそれに導かれるように、鶴見がずいと身を乗り出す。そうして彼女の寝顔を間近で眺めながら、子どもをあやすみたいにゆっくりと、優しく頭を撫で付けた。その頬にやわらかな微笑をたたえて。しかしその直後「なァ、みょうじ」低い含み声と共に、額当ての隙間からどろりと脳漿が溢れ出る。

「『必ず役に立ってみせる』と言ったな。君は約束を破るような子じゃないだろう?」

その声色には有無を言わせない凄みがあった。まるでそれに呼応するように、みょうじの影が微かに濃度を取り戻したように見えた。病室は一気におどろおどろしい空気に満ちて、しかしそれを離散するように扉がこんこんと音を立てた。

「月島です」

扉越しに聞こえた声に、鶴見は姿勢を正すと落ち着き払った様子でハンカチを取り出した。そうして眉間に垂れた脳漿を拭いながら「入れ」とそれに応える。すぐに扉の開く音がして、月島が部屋に入ってきた。

「列車の手配が済みました。出発の準備に三十分程かかるとのことです」
「……そうか、ご苦労」

「私からも一言挨拶しておこう」と鶴見は石油ランプを手に立ち上がる。極度の疲労からか、その腰は少々重たそうに見えた。が、流石軍人と言うべきか、きっぱりとした足取りで月島の前を通り過ぎるとそのまま病室を後にした。

そのすぐ後ろに続いた月島が、扉を閉める直前にちらりとみょうじを振り返る。しかし明かりのなくなったそこはひどく真っ暗で、寝台の輪郭がぼんやり見えただけだった。ついに扉はぴたりと閉じて、やけにゆっくりとドアノブから手が離される。カチャ、と控えめな音がしたのとほとんど同時に、月島は重々しく口を開いた。

「先程仰っていた『約束』というのは……」
「盗み聞きとは関心しないな、月島」

そう言ってじっと探るような視線を向けた鶴見だったが、「偶然聞こえたもので」と返ってきてすぐに興味を失ったように前を向いた。そうして月島の少し前を歩きながら、その答えを口にする。

「おはぎを作ってくれるそうだ」

どこかご機嫌そうな鶴見の声は、この夜の廊下にしんと溶け込んだ。



「いま何か、」
「……あァ?」
「いえ、名前を呼ばれた気がして」

目元に宛がっていた手拭いから顔を上げて、みょうじは怪訝な顔で辺りを見渡した。しかしいくら五感を澄ませようと、人の話し声はおろか気配すらも感じない。空耳かと思い直し、みょうじは手元の手拭いへと視線を落とした。

冷たく湿ったそれは、中々泣き止まない彼女に痺れを切らした不死川が(顔面目掛け)投げて寄越したものだ。幾らか水を含んだそれに突然鼻っ面をうっ叩かれた彼女はたまらずその場で身悶えしたが、おかげで涙もぴたりと止まった。しかし泣き過ぎたせいかやけに目が腫れぼったく、また泣顔を見られた羞恥を誤魔化す意味もあって、今の今までそこに顔を埋めていたのである。

幻聴らしき声に釣られてようやく顔を上げたみょうじは、手拭いを見つめながら「それにしたって渡し方というものがあるだろう」と至極当然の不平を抱いた。もちろん、それを口にするつもりはないが。せめて自分の腕力を自覚して欲しい、と先ほど顔面に走った衝撃を思い出して身震いする。そんな彼女の心情など知る由もなく、不死川はやっと顔を上げたかと言わんばかりに溜息交じりに声を掛けた。

「それで、テメェはこれからどうする気だァ」
「…………これから、」
「他の奴らはもう普通の暮らしに戻ってる。そいつらを頼れば仕事のツテなんざいくらでもあるだろうが……生憎、俺はお前の面倒が見れるような状況じゃねェ」

そう言って欠損した右手をひらひらさせた彼に、自分の暮らしで精一杯ということだろうかとみょうじは思った。しかしそれを見透かしたように「勘違いすんじゃねェぞ」と彼は言う。曰く、今は旅人のような暮らしをしているとのことで、この家もあくまで仮住まいなのだという。

面倒は見れないと言いつつも彼女の身の振り方を案じているのだろう。「あてがなけりゃァ、宇髄か冨岡の野郎にでも」と口にした不死川だったが、しかしその言葉の途中で、不意にみょうじの頭に別の男の声が響く。

─── 君は約束を破るような子じゃないだろう?

ぞくり。みょうじは背中が粟立つのを感じると同時に、軽い眩暈のような感覚に襲われた。しかしそれも一瞬のことで、聴覚を支配する幻聴も、視界を覆う黒のモヤも、まばたきの間に綺麗さっぱり消え去った。ただ、その余韻のように心臓が激しい音を立てて暴れている。それを落ち着かせんと静かに息を吐いたみょうじは、申し訳なさそうに、しかしきっぱりとした口調で「いえ」と不死川の提案を断った。

「私にはまだやるべきことが─── というより、見届けたいものがありますので。……お気遣い感謝致します」

それを成し遂げるためにはどうすべきか、その手段が一切不明なことは今は置いておくとして。確かな覚悟をもって真っすぐ不死川を見据えれば、彼は呆気に取られた顔をしていた。辞退が意外だったこともあるだろうが、彼女が長らくのあいだ碌に目も合わせなかったせいもあるだろう。きっと不死川の記憶にあるみょうじは、逃げるように下を向いているに違いない。

珍しい顔が見られたものだ、と彼の表情を見て内心ほくそ笑んだその時、はたとみょうじの視界が暗転する。

「……ッ、」

まるで蝋燭にふっと息を吹きかけた時のような、夢と現実の"狭間"を飛ばして覚醒したような、そんな感覚だった。突如として暗闇の中に放り込まれた彼女を、鋭い胸の痛みが襲った。