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どうか彼女が無事に目を覚ましますように。ただし、できれば明日以降に。

我ながら随分身勝手な願いだと、月島は嘲笑を浮かべて前を見据えた。耳をつんざくような銃声と、それすらも掻き消す爆発音。鼻をつく火薬と血と汗の匂い。ビリビリと肌を刺す緊迫感は、いっそ懐かしさすら覚える。『そこに参加させずに済むと思えば、これで良かったのではないか?』不意に頭に響いた声が、すとんと腹に落ちていった。鯉登の言葉はまさしくその通りだったのだ。

しかしここで懸念がひとつ。もし今みょうじが目を覚ませば、きっと無理をするに違いない。病院に一人残されたと知ればすぐ追い掛けようとするだろう。彼女の付添い兼見張り役の部下を置いては来たが、正直なところ心許ない。『あいつのしぶとさはお前もよく知っているだろう』鯉登の言葉は希望を帯びた慰めであると同時に、心配の種でもあったのだ。

何せみょうじには前科がある。あれは出会ってすぐの頃、第七師団の兵士によって腹を撃ち抜かれた彼女は目を覚まして早々に病院を抜け出した。後日、東京に行っていたと涼しい顔でのたまった彼女に唖然としたことは言うまでもない。

つまり、あいつはそういう奴なのだ。出会った時からずっと。だから目を覚ますなら明日以降に、と冒頭の言葉に繋がるのである。しかし皮肉にも彼女には戦場がよく似合う。だからだろうか、このどこかにみょうじがいる気がしてならなかった。

その時、前方から飛んできた銃弾が月島の頬を掠める。文字通り死と隣り合わせの状況で、ここにはいない女のことを考えるのはこれで二度目だ。そう思ったと同時にくせっ毛頭のあの子が月島の脳裏を過って、しかしそれを阻むように鶴見の声が飛んで来る。

「鯉登少尉と月島軍曹は私について来い! 我々は建物内を捜索して権利書を確保する!」

そう言うやいなや駆け出した上官の後に続く。向かった先には小さな木造の建物があって、小綺麗な外観の割になかはカビと埃の匂いが充満していた。扉を閉めると外の喧騒がほんの少しだけ遠くなって、死地から僅かに隔離された気になる。無論、かといって気を抜ける状況でもない。

金塊の正体は土地の権利書だった─── 唐突な(偽装)降伏とともに永倉が明かした話は、鶴見曰くそれなりに信憑性があるものらしい。本当かどうかこの目で確かめるさ、という彼の言葉通り、この戦争じみた喧嘩の傍ら権利書を探して回るというわけだ。とは言え、単に探す対象が金塊から別のものに置き換わっただけの話である。

そんな経緯を経て今、三人は何一つ見逃さぬという気迫で部屋の隅々にまで目を走らせていた。家具はもちろん壁や天井、床にもくまなく視線を配り、時々そこを叩いては不自然な空洞がないか確かめた。部屋は人の動く音だけで満たされて、気付けば沈黙が重く腰を据えている。その折り、鯉登がぼそりと言葉を落とした。

「月寒あんぱんのひとがついた甘い嘘……」

ほとんど独り言のような小さな声はしかし静寂を破るには十分で、廊下にいた月島の鼓膜までもを強かに揺らした。月島が弾かれたように声のした方に向かえば、鶴見と鯉登が神妙な顔で向かい合っていた。

「私たち親子がここまできたのは自分たちの選択ですからどうなっても受け入れます」

月島がたまらず「鯉登少尉!」と声を上げる。が、彼はそれに見向きもせずに話を続けた。

「だがこの戦が終わって何も得られなければ、部下たちを中央から守るため─── いや、あなたから守るために私は……!」
「いいだろう、殺しなさい」

動揺する月島をよそに、鶴見は至って冷静に答えた。まるではじめからその答えを用意していたような、それくらいきっぱりした口振りだった。

「どのような汚名で吊し上げられようとも、地獄の底にいれば聞こえんだろう。立派に成長した鯉登少尉になら後を任せられる」

純然たる覚悟さえ、彼の口を介すと甘美な響きを伴う。長らく右腕を勤める月島にも、この男の本音と建前の境界線は分からない。ひとつだけ確かなことは、この男のために用意された地獄の特等席、その隣は自分のものということだ。

「行くぞ、月島」鯉登はそう言って建物の外へと向かった。一瞬それに釣られかけて、しかし月島の足は根が張ったように動かない。そこへさらに釘を打ち込むみたいに、鶴見が重々しく口を開く。「月島?」途端、月島の背筋にぞくりと冷たいものが走った。

「私の味方はもうお前だけになってしまったな?」

この男はいつだって人の一番やわらかいところを突いてくる。

─── あぁ、あのお転婆娘もか」

   ◇

一方その頃、当のお転婆娘はといえば甲板に腰を下ろし静かに海を眺めていた。顔は青白く、ぐったりした様子で壁に背中を預けている。傷が痛むのか、右手がシャツの胸元をきつく握り締めていた。

そんな状態ではあるものの(むしろそのおかげで)、なんとか函館行きの船には乗り込むことができたのだ。彼女を助けた若い郵便配達員が、自分の乗る船は出発まで時間があると言ってわざわざ別の船に掛け合ってくれたのである。港についてすぐ出港できたことは実に幸運だった。もしあのまま駅に向かって汽車を待っていたら、倍以上の時間が掛かっていたことだろう。

さらに幸運なことに、船乗りたちから有益な情報を聞くことが出来た。なんでも昨日の昼頃、室蘭港に四隻の駆逐艦が半ば強引に入港したのだと言う。しかし船員が降りる気配はなく、しばらく待機したのちどこからかやって来た十数名の兵士を乗せてあっさり出港した、と。その乗り込んだ兵士たちが鶴見率いる第七師団であることは明らかだった。網走監獄砲撃のときも樺太に渡るときも、彼らは鯉登父の軍艦を用いたのだから。今回もまた同じ手を使ったであろうことは想像に難くない。

それにしても、少将というのは中尉より随分上の階級ではなかったか。その歪な関係性はさすが鶴見と言うべきか​─── 「私達親子に芝居を打ったんだな!?」─── あの男を哀れに思うべきか。

その時、みょうじの思考を遮るようにバタンッと激しい音がした。次いでひとりの男が甲板に現れて、慌てた様子で作業中の男たちの元へ駆け寄っていく。一体何事だろうとみょうじはじっとそれを注視した。予感めいたものが喉元でざわつくのを感じながら。

「おい、港に昨日の駆逐艦がいるってよ!」
「はぁ? ……ったく、どこまで仕事の邪魔すりゃ気が済むんだ。まさか着港できねぇってことはねぇよなあ?」
「それどころじゃねぇよ!……砲撃されてるって……」

一瞬甲板が水を打ったように静まり返って、それからすぐにざわめきが起こった。「砲撃って……」「また戦争か?」「さぁ、詳しいことは……一旦船止めて様子を見るって」彼らの話を聞く限り、どうやらこの船の見張り役が、四隻の駆逐艦とそれに向けた砲撃を確認したのだという。みょうじは再び海へと視線を戻し、水平線上にうっすらと姿を見せる陸地─── 函館に目を凝らした。肉眼では捉えきれないが、きっとあそこでは熾烈な戦いが繰り広げられているのだろう。

「……随分と乗り遅れてしまったな」

函館まで、あと少し。