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みょうじが乗っていた船は砲撃の被害を避けるため、函館山を盾とするようにその近傍の岬に碇を下ろした。

渋る船員に頼み込み、出してもらった一隻の小舟。それに乗ってみょうじはようやく函館の地に辿り着いた。そこは遠くに見える黒煙と時々聞こえてくる爆発音とでひどく騒然としていた。とくに四隻あった駆逐艦が全て撃墜されたことが町に衝撃と混乱を与えたようだった。

戦争じみたその有様に、人々は「日本軍とロシア軍がやりあっているらしい」と口々に噂していた。中には被害が大きくなる前にと逃げる姿もある。まさかこの光景を作り出しているのが第七師団のごく一部、そして和人とアイヌの集まりだとは誰も思うまい。戦争と錯覚させるほどに大規模なこの戦は、それに見合うだけの目的─── アイヌの金塊がもたらしたものだ。この場で唯一その内情を知るみょうじは、ざわめく人々に紛れしずかに五稜郭の方角を見据えた。

例えこの混乱が誤報によるもので、町に被害が及ぶ可能性は低いとしても、彼女にとってこの状況は好都合だった。なにせ皆が皆、一様に同じ方を向いておしゃべりに夢中になっているのだ。こっそり馬を拝借したところで、それに気付く様子もない。

─── よくある盗人の手口だ。

あの『お喋りロシア人』の仲間もこうやってイソㇹセタを盗んだのだろうか、とそのあまりの容易さに関心しながらみょうじは馬に股がった。そうして誰にも気取られぬまま堂々と町を走り抜けたのだった。

「……ぐっ、」

馬が足を踏み出すたび、激しい振動が彼女の胸の傷を襲う。みょうじは耐えるようにきつく下唇を噛んだ。とはいえ、目覚めてすぐのときに比べれば痛みは幾らかましになっていた。あの診療所で早めの処置を受けられたのと、船で少し休めたおかげだろう。しかし完全に傷が癒えたわけでもない。みょうじは痛みに耐えながら、一心に馬を走らせた。目指す先は五稜郭。遠く離れたここにまで争いの音が聞こえてくるのだから、現地では熾烈な戦いが繰り広げられているに違いない。一体あそこでどれだけの人間が死に、どれだけが生き残るのだろう。命に優劣はないと言うが、死んでいく者の中に自分の知った顔がなければいいと思う。しかしそれはあまりに楽観的な願いだということもまた理解していた。

向かった先で目にするのは、大事な人の傷ついた姿だろうか、冷たくなった身体だろうか。もしかすると、どれが誰の遺体かすら分からないかもしれない。

それでも見届けると決めたのだ。と、確かな意思をもって手綱を強く握り直したその時、少し離れたところから轟音が鳴り響く。咄嗟にその方を見れば、木々の奥に凄まじい早さで走り去る列車が見えた。

「──アシㇼパ!?」

目に飛び込んできた光景に、みょうじはたまらず声を上げた。枝葉の隙間から見えた黒の車体、その上に確かにアシㇼパの姿があったのだ。遠目ではあったが、あの背格好と装いは見間違いようがない。他にも人影がいくつか見えたものの、それが誰かまでは分からなかった。きっとそのうちの一人は杉元なのだろうが。

みょうじは慌てて馬を止め、列車の方へと方向転換した。そうして勢いよく馬の腹を蹴り加速させる。まずは最後車両に追いついて、更に前へと進んでいく。

ようやく先頭車両が見えたとき、断末魔のような叫びが聞こてきえた。しかしみょうじのいる位置からは屋根の様子までは見えない。その代わり、列車が生み出す風に乗って人の声が流れてくる。

「いや幻覚だッ! 毒だッ! 目玉を抉られた傷のせいだ!!」

─── 尾形?」みょうじは狼狽気味に声を漏らした。聞こえてきたのは確かに尾形の声だった。それも、今まで聞いた事のない狂った獣のような叫び声。

「殺した後悔などしとらんッ!」
「いいや違うッ! こいつはおっ母の葬式に来なかった!」
「やめろッ 罪悪感など存在しない!!」

みょうじの耳に届くものは全て尾形ひとりの声だった。一体誰と喋っているのだろう。あまりに悲痛な叫びに、みょうじは心が掻きむしられるような焦燥を覚えた。

奇しくも、彼の叫びは消えゆく鬼のそれによく似ていた。

「もういい! 考えるなッ負けるッ! これ以上ッ!! 考えるな!!」

その言葉を最後に、尾形の声がふっと途切れる。次の瞬間、バァンッと鋭い銃声が響いて─── 尾形の身体が屋根から投げ出された。

「……っ、尾形!」

みょうじは彼の名を叫ぶと同時に、手綱を力一杯引き寄せた。それに従い急停止した馬が、その場で荒く足踏みする。その前方で尾形の身体が地面に叩きつけられて、無防備な姿でゴロゴロ転がった。そうしてみょうじの隣を少し通り過ぎたところでようやく動きを止める。

みょうじはぐったりと動く気配のないそれに近寄って、馬の上からじっと見下ろした。それからついと列車の方を見る。遠くなっていく先頭車両、その屋根に立つアシㇼパと目が合った気がした。

追いかけたい、けれどこの男がそれを許さない。「ああ、もうッ」みょうじは苛立ちを含んだようなため息をひとつついたのち、荒っぽく馬から降りた。そうして彼のすぐ傍に立って、ぎゅっと拳を握りしめる。その顔は苦しげに歪められていた。

「……ほんとにお前は​……何をやっているんだ」

みょうじは絞り出したようにそう言うと、横向きに倒れた彼の身体をやさしく仰向けにしてやった。ごろん、とされるがままに反転するそれはまだ温かい。空を向いた彼の顔は左目が跡形もなく無くなっていて、その銃創を縁取るように火傷で皮膚がただれていた。それが意味するものは、かなりの至近距離からの発砲─── 『これ以上ッ! 考えるなッ!』─── つい先刻、錯乱した様子で紡がれた言葉たちが頭を過ぎる。

自然と導き出される尾形の死因。まるでそれを肯定するように、彼の右目が不自然に太陽の光を反射する。きらきら光るそれとは対象的に、彼の後頭部からはどす黒い血液がみるみる血溜まりを作っていく。

それを見つめたまま、みょうじはそっとその場に跪いた。それから彼の右腕をぎゅっと鷲掴む。そこは初めて尾形と出会った時に、応急処置をしてやったところだ。あの時もこんな風にだらんとしていて、ただひとつ違うのは手のひらに感じる脈動の有無である。今の彼は、身体も、その中を巡る血管すらほんのぴくりとも動かない。「ばかやろう」死んだら何もしてやれないじゃないか、とそんな言葉の代わりにきゅっと眉を寄せる。

「……あの時に生まれ変われば良かったんだ」

物言わぬ屍に、しかしみょうじは諭すように語りかける。

「死んだつもりになって生き直せば……」

家族をその手で殺めたことも、その結果なにも得られなかった喪失感も、全部。あの小樽の山に捨ててしまえば良かったのに。─── 『駄目だ! それでは! 全てが間違いだったことになるッ!』─── そうすれば、きっとこんな結果にはならなかったろうに。

そこまで考えて、みょうじはふうと息を吐いた。そういう自分こそ、過去に、あの時代に囚われ続けてきたのだ。自身の根幹を捨てる難しさは身をもって理解しているし、そんな自分が説教できる立場にあるはずもなかった。

みょうじはまるで労わってやるように尾形の頭を撫で付けた。それからおもむろに自身の雑嚢を漁り始める。そこから取り出したのは一枚の一銭銅貨。かつて鶴見が見つけ出した、大正二年と刻まれたあの貨幣である。みょうじはそれを尾形の手に握らせると、彼の拳を両手で包み込んだ。そうして祈りを捧げるみたいに、自身の額に押し当てる。

「六文銭……には多いが、釣りはくれてやる。私がそっちに行ったら、珍しい金を持った奴が来なかったか聞いてまわるから」

それを持っていけば、きっと船頭もお前を覚えていてくれるだろう。それを目印に、必ずお前を見つけ出すから。

「いつかまた、あっちで会おう。……なぁ、尾形」