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息をするたび胸がきりきり悲鳴をあげる。視界が霞んで少し先の天井すら見えづらい。身体中至るところが鋭い痛みと熱を放ち、もはやどこを負傷しているかも分からない。

それでも─── もうこの男を解放してあげてください!!─── もし鯉登のあれがなければ、月島はきっと今も尚あの死神の横で戦い続けていたのだろう。限界をとうに越えた身体を、興奮とも狂気ともとれる強烈ななにかで突き動かして。それは絶対的な忠誠心ゆえか、否、もしかすると盲目的な意地かもしれない。

しかし鯉登の言葉が、月島を操る強固な糸を容易く裁ち切ってしまった。「お前はもう十分やった」と、おおきな波に飲み込まれていくように月島の身体はみるみる安堵に包まれて、かろうじて残っていた気力を根こそぎ奪っていったのだ。そこからはもう、上体を起こすことすらままならなくなった。

力なく床に身体を預け、これで良かったのかと考える。鶴見劇場の最前列、そこから退場する時は自分が死ぬときだと覚悟していたはずなのに。あの人が伸ばした手についに応えることができなかった。では、自分以外の一体だれが彼の描く物語の最後を見届けるのか─── そこで不意にあの女の顔が頭を過り─── 否、実物がにゅっとこちらを覗き込んできた。

意表をつかれた月島はたまらず起き上がろうとして、しかし激痛がそれを阻んだ。

「!? っ、ぐッ」
「じっとしてろ、怪我が悪化するぞ」
「なんっで、……お前がここに……」
「説明している暇はない。応急処置だけして機関室を追う」

「連結が外されていた」と続けながら手早く布を巻き始めたみょうじに、月島は驚きと呆れ、そして苛立ちを覚えた。室蘭に置いてきたはずの彼女が何故ここにいるのか。なんて、考えずとも分かってしまうのが腹立たしくて仕方ない。だからまだ目を覚まして欲しくなかったんだ、と彼女の回復の早さを呪うのは流石に不謹慎か。しかし肺に穴が開いた人間がなお戦いの場に赴くと知れば、きっと誰しもが同じ思いを抱くはずだ。

「付き添いの兵士がいたはずだが」
「ああ、あの寝坊助か。もうこっちに向かってるんじゃないか?」
「……どうしてここが分かった」
「そいつが間抜けだったおかげでな。ただ少し悪い事をした。ムスコが無事だと良いけど」

月島は「息子?」と問おうとして、辞めた。それが何を示すか、いつぞやの『発情した猿』もとい一人の部下を思い出したからだ。直後、盛大なため息を漏らしてしまったのも無理はない。そんな月島を見下ろして、みょうじはふふんと得意気に笑った。が、それも一瞬のことですぐに真面目くさった顔へと変わる。

「薬は置いていくから血が止まったら使え。後援が来たら他の奴らにも……今は全員診てやれないから」

きゅ、と布を縛り終えたみょうじはそう言うと雑に背嚢をひっくり返した。そこから小瓶やら金属容器、薬函が落ちてきて、床にぶつかりゴトゴト音を鳴らす。そうして最後にひらりと落ちてきた一枚の写真─── アシㇼパとみょうじが並び立つそれは、樺太任務の際に月島も見たことがあった。みょうじはさっとそれを拾い上げて、再び背嚢の中へと仕舞い込む。月島にはなんとなく彼女がそれを隠したがっているように見えた。彼女のアシㇼパに対する想いなど、今さら分かりきっていると言うのに。

「じゃあ、私は行くから。安静にしてろよ」

どの口が、と思うより先に月島はみょうじの腕を鷲掴んでいた。彼女を引き留めるのはこれで二度目だ。一度目の選択は果たして正しかったのか、その答えは未だ出せずにいる。しかしあの時同様、ここで止めなければと全細胞が訴えかけてくるのだ。

「……離せ、月島」

いくらか柔らかかった空気はどこへやら、みょうじは冷めた目で月島を見下ろした。それをむっと睨み返して、月島は彼女の腕を掴む手に力を込める。身体に走る痛みなど今はどうでも良かった。

「鶴見中尉の目的……ここで終わりじゃないことはお前も分かっているだろう。金塊の入手はむしろ始まりに過ぎない」
「今さらそんな話か。軍事政権樹立、第七師団の地位向上──そしてゆくゆくは満州に、だろ」
「あの人がお前を利用するのはそこからだ。お前の、」

そのとき月島は視界の端に鯉登の姿を捉え、咄嗟に「……記憶を」とみょうじにだけ聞こえるように声を潜めた。

彼女のもつ少し先の未来の知識、情報。あの男ならあらゆる手を使って利用しつくしてみせるだろう。その結果がどうなるか、この金塊争奪戦に利用された者たちを思い返せば容易く想像できる。月島はいま目の前にいるみょうじの姿が、かつて自身が見捨てた江渡貝の姿と重なって見えた。

月島の脅しめいた視線に貫かれながら、しかしみょうじは薄く笑ってみせる。そうしておもむろに月島へと手を伸ばし─── バチンッ、と強かに血の滲む患部を指で弾いた。

「い゙、……ッ!」

突然襲ってきた激痛に月島はたまらず身悶えする。「お前ッ、何を……!」「はは、それだけ元気があれば大丈夫だな」他人事のように笑う彼女をなんとか一発ぶん殴りたくなった。が、重傷の身ではそれも叶わず、すっくと立ち上がったみょうじを下から睨み付けることしかできなかった。

「ご忠告どうも。……でも、自分のことは自分で決める」

みょうじはそう言うとあっさり踵を返し、背中越しにひらひらと手を振った。「機関室を追う」と言っていたし気が急いているのだろう、足早にそこから離れていく。しかしそれを今度は別の人間が制止する。行く手を阻むように、彼女の前に立ちはだかったのは鯉登である。

「行ってどうする気だ。銃ももたない癖に」
「……まァ、どうせこの様子じゃ向こうも手負いでしょう」
「貴様もだ! 無茶をするなとあれほど、」
「無茶をしたのは貴方たちでは?」

みょうじの視線がじとりと彼の頬の傷、次いで肩へと向けられる。そこは既にみょうじの手によって応急処置がされていて、その際にいくつか小言を頂戴したせいか鯉登は思わずうっと口篭った。目は口ほどに物を言う。彼女の目には分かりやすく非難が込められていた。それからしばしの間があって、みょうじは少しばかり大袈裟にため息をついた。

「……それより部下たちをどうにかした方がいいんじゃないですか。今なら間に合う人もいるでしょう」

そういって彼女が視線で示した先には、先程月島の傍に落とした薬品たちが転がっている。それからさらに「ああ、それからこれも」と腰に着けていた雑嚢を投げて寄越してきた。鯉登はそれを受け取ったのち、おもむろに車内を見渡す。兵士たちがあちらこちらに倒れている惨状に紛れて、時々苦しそうな呻き声が聞こえてくる。

「……鶴見中尉のこと、貴方も気になるでしょう? 私が代わりに見てくるので、鯉登少尉はどうぞ救護の方に」
「あっ、待て!」

鯉登が部下たちに気を取られている隙を狙って、みょうじは音もなく彼の横をすり抜ける。慌てて制止の声を上げた時にはもう、彼女は汽車を飛び出していた。

  ◇

「月島ぁ!」

函館港に鯉登の声が響き渡る。遠く海を眺めていた月島がそれに気付いて振り返ると、想定より近くに鯉登の姿があったのかびくりと肩を震わせた。すぐに気を取り直して、目の前の不機嫌顔に声をかける。

「鯉登少尉殿。どうでしたか?」
「どうもこうもあるか。あいつら、鶴見中尉殿がいないからとあっさり手のひらを返しおって」
「まあ、そうでしょうね」
「しかしお前が用意した資料は役に立ったぞ。よくやった」

あの五稜郭の戦いから既に半年が経過していた。鶴見の右腕だった月島は、いまや鯉登の右腕として業務に勤しんでいる。彼とともに本部に赴き、関係各所を駆け回り、顔色を伺いながら報告と交渉を重ねる日々は実に骨が折れるし神経をすり減らされる。が、それもこれも鶴見についていった部下たちを守るためだから仕方ない。

「それで、お前はまた探していたのか」

鯉登は少々呆れた顔で、月島が見ていた海の方へと視線をやった。そこは半年前に汽車(厳密には機関室のみ)の脱線事故があった場所で、金塊争奪戦の最終地点であり、行方知らずとなった鶴見が最後にいたはずの場所でもある。

「いえ、ただ眺めていただけですよ」
「……額当ても、骨の一つも見つからなかった。そういうことだ、いい加減前を向け」
「分かっています」

はっきりとそう返した月島をじっと見つめたのち、鯉登はふうとひとつ息をついた。

「結局みょうじのやつも戻ってこなかったな」
「……あいつはアシㇼパたちとも繋がっていますし、そっちに合流したんでしょう。あの時も大事そうに写真をもっていたので」
「だとしても手紙のひとつ寄越すくらい、」

しないな、と二人はほとんど同時に同じ答えを導き出す。そういう気遣いのできる人間でないことは鯉登も月島もよく分かっていた。それにしたって、一応はこちら側にいたくせにあまりに不躾な別れではないか。「代わりに鶴見中尉を見てくる」と言っていたはずなのに、その報告もついぞやってこない。

当然、鯉登も月島も最悪の想定は頭の片隅に置いてある。つまり彼女もあの汽車とともに─── ということだ。しかし二人ともそのことは決して口にはしなかった。みょうじのことを話すときはいつも、あくまで生きている体で、だ。

「どうせ今ごろどこかで呑気に暮らしているんだろ」

人の気も知らずに、と心のなかで付け加えたのは果たして鯉登か月島か。

 ◇

一方その頃、北海道から遠く離れた満州の地にて女が呑気に声を上げた。

「おはぎができましたよ」