月島と鯉登の場合

その日はいつもに増して忙しい日だった。本格的な冬の到来を前にただでさえ業務量が増えるこの時期、それを狙ったように中央から仕事を押し付けられたためである。こちらが強く出られないことを分かった上で、敢えて重要性の低い、それも手間と時間だけは掛かるそれを振られたことは嫌がらせ以外の何物でもない。「鶴見には随分手を焼かされたからなぁ」という上層部の薄ら笑いが目に浮かぶようだった。

「鯉登少尉殿、手が動いていませんよ」
「休憩くらい取らせろ、こう毎日書類と睨めっこでは目が潰れる」
「急ぎのものもありますから」
「期日までには終わらせるからそう心配するな」

そう言ってついには筆を置いて窓の外を眺め始めた鯉登に、月島は小さく息をついた。さぼり癖はあるものの、それでいて与えられた仕事はきっちりやる男だからそこまでの心配はない。が、少しでも余裕があるうちに進めておかねば後々痛い目を見る、というのは長年の経験から得た学びである。まあ、それを思い知るには説教より身をもって体験した方がいいだろうと、月島は手元の資料へと視線を戻した。丁度そのとき、部屋に扉を叩く音が響く。「入れ」と鯉登が言ってすぐに、一人の部下が慌ただしく入室した。

「失礼します! 択捉島老門沖にて汽船大新丸が座礁、救援要請です!」
「な……っ、」

鯉登は驚きに目を見開いたのち、返事をする代わりにがくりと項垂れた。ただでさえ忙しいなかでの事故発生、かといって要請を無視できるわけもない。それは例え五稜郭の戦いで減ってしまった兵士の補充が「自業自得だ」からと未だになく、人手が足りない中なんとか業務を回している状況であろうとも、だ。

「各班二名ずつ向かわせろ。根室で任務に当たっている者は全員だ」

すっかり意気消沈してしまった鯉登の代わりに月島が淡々と命令を下す。男はそれに返事をしてすぐに「それから、」と手に持ってた書類の束を抱え直した。その様子に「まだ何かあるのか!」と鯉登がたまらず声をあげる。男は一瞬それに怯みつつも、中央から電報があったことを報せた。曰く、追加の仕事らしい。鯉登の盛大なため息が部屋に響く。

「……俺が預かる。もういいぞ、下がれ」
「それと月島軍曹殿に封書が届いております。部屋にお届けするつもりでしたが、」
「いい、ここでもらおう」

そう言って月島は中央からの電報、その他鯉登宛の封書の束、諸々の書類、そして件の手紙を受け取って部下を下げさせた。逃げるように退出する部下(上官がすこぶる不機嫌なのだから仕方ない)を横目に、月島は手元の手紙に視線を落とした。「月島基様」と書かれたそれを裏返せば、本来差出人の名前があるはずのそこには何も記されていなかった。まさか悪戯ではあるまいな、少なくとも急ぎの案件ではなさそうだ、と手紙は自然と優先課題の埒外に置かれて、そのうち月島の机上に積み重なった書類たちに紛れ込んだのだった。

 ◇

たとえ鬼軍曹と称される月島といえど、その気力体力は無尽蔵ではない。机上の書類の山(救援に向かった部下の仕事を請け負ったせいで倍に増えた)もいくらか低くなった頃、ついに深いため息と共に天井を仰いだ。ふと時計に目をやれば、視界が霞んで短針すら碌に見えなかった。目頭を強く押さえたのち再び時計を見上げ睨み付けること数秒、ようやくその針を捉える。それはとっくに日付を跨いでいることを指し示していた。

流石にここらで切り上げるか、と背もたれに体重を預けたところで不意に件の手紙が目に止まる。月島はようやくそこでその存在を思い出した。仕事に追われていたせいですっかり頭から抜け落ちていたのだ。どうやら書類を片していくうちに一番上に来たらしい。そういえばこんな物あったな、とそれを手に取って裏返す。記憶の通りやはりそこに差出人の名前はない。紙切りナイフで封を切って、ひっくり返すと一枚の便箋がすとんと音を立てて落ちてきた。小さな刃や針、硝子の類いは出てこなかったのでたちの悪い悪戯ではないらしい。煙草に火をつけて、その紫煙を吸い込みながら便箋を開く。

「以下、御自由に活用されたし
四一年十二月 暴風により根室にて漁船転覆、行方不明者多数
四二年四月 大雪および雪解洪水、小樽を中心に全道
同月 小樽手前町・色内町にて火災、被害甚大
同年五月初 十勝および北見地方、雪解洪水。十年来の水害
……
以上、貴団の地位向上にお役立て頂きたく候」

それは頭語と結語も時候の挨拶もない、ただ箇条書きで書き連ねられた実に無作法な手紙であった。否、これを手紙と呼んでもいいものか。それにしてもこの筆跡はどこか見覚えがあるような。月島は文字の羅列をぼうっと眺めながら、そういえば十二月に視察が来るんだったか、と不意に来月の予定を思い出して──ハッとして立ち上がる。疲労により動きの悪かった脳味噌が、突然がちっと歯車を合わせたような感覚だった。立ち上がった拍子に椅子が床に激しくぶつかって、咥えていた煙草の先端から灰がほろりと落ちる。

「熱ッ、」

手に降り掛かったそれを咄嗟に振り払うやいなや、月島は慌ただしく廊下へ飛び出したのだった。



月島が向かった先は鯉登のいる将校室だった。この手紙の件を一刻も早く彼に報せるべきだと思ったのだ。

部屋の前に辿り着いて、一呼吸置いて扉を叩く。気が急いているせいか、いつもより荒っぽくなってしまったが仕方ない。返事を待たずに入室すれば、彼もまた日付が変わってなお業務に勤しんでいたようで、疲労感を漂わせた顔を書類と突き合わせていた。「月島、何時だと思っている」そう言って鬱陶しげな視線を投げて寄越した鯉登に、月島は構わず件の手紙を掲げて見せた。

「みょうじから手紙が、」
「なに!?」

これには鯉登も席を立つほかなかったらしい。握っていた筆を放って月島の元へ駆け寄ると、半ば奪うような形でそれを受け取った。しかしそこで月島が何かを思い出したように「アッ」と声を漏らす。

「どうした?」
「……いえ、」

月島はすっかり失念していた。この手紙の差出人がみょうじとみなした理由はその内容──未来の事柄について記されていたからに他ならないが、鯉登は彼女が後代から来た人間であると知らないはずなのだ。

「これをみょうじが?」
「……はい。差出人は記されていませんが、字が酷似しているのと……その不躾な文章からも彼女かと」

そして「貴団の地位向上」という言い回しが、かつて三人で交わした会話を彷彿とさせる。鯉登も同じことを思ったのか、その箇所にすっと指を滑らせた。

ただ問題はその内容である。あれは出会ってすぐの頃、「世間のことはあまり知らないんだ」と自身のもつ情報を出し渋った彼女が、今こうして詳細を打ち明けたのは自分たちを案じてのことなのだろう。ここに書き連ねられた災害時に上手く立ち回ることができれば、それら全てが功績になるのだから。

しかし上官である鯉登がこれを「くだらん」と一蹴してしまえばそれで終わりである。みょうじの悪い冗談と思うだろうか、否、そもそも全くの別人が書いた悪戯だと判断するかもしれない。みょうじの奴め、せめて名前くらい書いてくれたらよかったものを。いっそみょうじの境遇をここで明かしておくか──しかしそれこそ悪い冗談と取られかねない。何せそれを証明するものが何一つないのだから。

どうしたものかと考えあぐねて、疲れきった脳を必死に働かせる。しかしそんな月島の苦悩を他所に、鯉登はぱっと顔を明るくさせてこう言った。

「まさかあいつも占いができたのか!?」

思わず呆気に取られた月島が、逡巡ののち「ええ、実は……」と苦渋の表情で返した時、「間抜けで助かったな」といういつかの言葉を思い出したのはここだけの話である。

それから七年間に渡り、年に一度この時期になると差出人不明の手紙が兵舎に届けられたのだという。