アシㇼパと杉元の場合

波乱に富んだ長旅も終わり、杉元とアシㇼパはその始まりの地である小樽にて実に穏やかな日々を過ごしていた。ようやく訪れた平穏─── 誰かと殺し合う理由もなくなり、同時に不死身である必要もなくなった相棒の姿はアシㇼパに深い安堵感をもたらした。その青い瞳に映る彼は今、いつだって柔らかな笑みをたたえている。そこにはもう、手負いの猛獣のような凶暴さはかけらもない。

もっとも、これまで多くの命を奪ってきた彼の地獄行きはもはや免れないのだろう。そしておそらくは自分も、とアシㇼパは静かに目を伏せる。例えあの男の最期が自死によるものだったとしても、アシㇼパは明確な意思をもって毒矢を放ったのだ。僅かに死が早まっただけであって私が殺したも同然、というのが彼女の見解である。しかしそこに後悔などない。地獄に堕ちる覚悟は当然していたし、何よりそこには─── と、アシㇼパは自身の少し先を歩く男の背中を見据える。丁度そのとき杉元がぱっと後ろを振り返って、二人の視線がかち合った。

「見て、アシㇼパさん。藤の花があんなに」
「本当だ。もうすっかり春だな」

杉元が指差した先には、生い茂った枝葉に紛れて幾房もの藤の花が垂れ下がっていた。その美しさに誘われるがまま木の袂へと歩み寄れば、薄紫の花びらを揺らすそよ風が甘い匂いを運んでくる。そうしてふと、─── 「私の故郷の香りだ」─── 懐かしい声がアシㇼパの脳裏を掠めた。それと同時に、すっかり匂いのしなくなったあの香袋を思い出す。もはや本来の機能は有しないそれを、アシㇼパは今もなお大事に持っていた。

「なまえはどうしてるだろう」
「今も月島軍曹たちのところにいるんじゃない? 今度こっそり見に行ってみる?」
「いや……でも、」

杉元の提案にアシㇼパは物憂げな表情を浮かべた。なにせみょうじとは敵として対峙したあの時を最後に顔を合わせていないのだ。五稜郭での戦いの日に列車の上から彼女を見た気はするが、それも定かではない。というのも、彼女はビール工場で胸を撃ち抜かれて意識不明の状態と聞いていたからだ。杉元曰く「アシㇼパさんを動揺させるための鶴見中尉の策だったのかも」とのことだが、それも憶測の域を出ない。彼女は無事だったのだろうか、生きていたとして自分をどう思っているのだろう。みょうじのことは心配だが、それらを確かめるのは怖かった。

暗い顔で俯いてしまったアシㇼパに、杉元はかける言葉が見つからなかった。代わりに「コタンに戻ろうか」と気遣わしげに彼女を促す。そうして先ほど獲ったばかりの牡鹿を目で指し示した。

「少し早いけどご飯にしよう。今日はオハウがいいな」
「……ああ、そうしよう」

アシㇼパがぎこちない笑みを浮かべて頷き、どちらからともなく歩き出す。そうして二人並んでコタンへと向かっていれば、すぐに気まずい空気は離散した。鹿肉の話をしている内にアシㇼパも杉元もそのことで頭がいっぱいになったのだ。いや、そんな振りをしたと言うべきか。コタンに着く頃には早くも次に狙う獲物の話で盛り上がっていて、その声に気付いたオソマが二人の元へ駆け寄って来た。

「アシㇼパ、手紙来てるよ!」
「私に?」

オソマから手渡された手紙を見れば、そこに差出人の名前はなかった。「誰からだろう?」その場で封を切って中の便箋を取り出すと、その拍子に何かがぽろりと地面に転がり落ちる。それに気付いた杉元が「何か落ちたよ」とそれを目で追いかけて─── アッと声を上げた。そして慌てて拾い上げる。

「……香り袋」

杉元の手のひらにちょこんと乗せられたそれを見て、アシㇼパはぱっと顔を綻ばせた。そうして壊れ物でも扱うように優しく手に取ると、その青の縮緬ちりめんにそっと鼻先を近付ける。かつてみょうじに嗅がせてもらったものと同じ、否、それをもっと濃くした甘い香りが鼻を突き抜けて胸に迫ってくるようだった。それを存分に味わっていると、「アシㇼパさん」と杉元の声が落ちてきた。

「手紙に何か書いてあるよ」
「え、」

促されるがまま便箋を開いてみるもそこに文字はなく、その代わり右下の方に小さく絵が描いてあった。

「……何だこれは、河童か?」

怪訝な顔で首を傾げたアシㇼパの隣で、杉元が「ブフッ」とたまらず吹き出した。─── 「さてはなまえさん絵が苦手だね?」─── まさかあの時の答えが今になって返ってくるとは思わなかったのだ。

果たして二人はそれがアシㇼパの似顔絵と気付くのか、否か。